シュレディンガーのスイカ|シロクマ文芸部
ゆっくりと、茶色の薄皮から抜け出そうと、
もがいているモノが3階の網戸越しに見える。
下の公園からずいぶん離れたこんな場所に、生き物らしきモノが這い上がって来たことにも驚いた。
しかもいまは真冬である。
遠目からは蝉の幼虫にも見えるが、余りにも違和感のある異様な形のため、近くでそのナニカを確かめようとは思えなかった。
唯一の同居人である飼い猫の茶トラだけは、昼なのに黒目を丸くし、結露のついたガラス越しに、蠢くナニカを興味深げに見つめていた。
冬の空気が静まり返り、部屋の中までゆっくりと寒さが染み込んでいるようだ。
猫は尻尾を床に左右に軽く打ち据えながら、
まだじっと観察している。
私はガラスからは距離を取り、息をひそめて見守った。
私は、最後までコレの脱皮を確かめたいという知的好奇心と、最後に何が現れてくるのだろうという恐怖心で揺れていた。
しかし、どうしても明日は仕事の都合で家を空ける必要があった。困った私(ハンドルネーム:茶猫)は、ネット民に中継を通して観察させることにした。いつも、猫配信を見てくれている皆んななら大丈夫だと思った。
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茶猫:「先程、状況は説明させていただきました。
どうしても、アレが最後にどうなるか見届けたいんですが、1人では怖くて無理です。一緒に確認してくれませんか?」
ネット民A:
「了解。面白そうだから見ておく。
それより、一泊なら猫は大丈夫?」
ネット民B:
「うわ、動いてる…これ何だ?
表面は粘液で濡れてて、
皮を剥いたモモみたいな質感…」
ネット民C:
「猫様をそんなとこに置き去りなんて、
我々に場所を特定して欲しいらしいな。」
そんなやりとりをしながら、後ろ髪を引かれる思いで出張に出かけた。あの子はガラス越しだから、大丈夫だと自分に言い聞かせながら。
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出張中の移動時間に、見守りカメラとネットの実況を確かめる。
猫は毛繕いをしながら、窓の方を相変わらず見ているようだ。実況には観察コメントが流れているが、猫の心配ばかりになっている。
アレは蠢いているが、劇的な変化はないようだ。
そんな事を考えていると、画面が激しく揺れ、
衝撃ともにネットが途切れた。
私は心配になり、見守りカメラを確かめる。あの子しか写っていないが、アレには興味がなくなったらしく、一度長い伸びをした後、窓から離れて歩いていった。
次の日、私は猫が心配になり、急いで家に帰ってきた。今回の出張は延期できたのに。
玄関先の前に立ち、深い息を吐いた。扉の向こうに何が待ち構えているかという恐怖感と、愛猫の心配と、少しの好奇心で震える指先で鍵をなかなか開けられなかった。
玄関を開けると、いつもの猫砂の匂いと僅かに魚類の脂の匂いが鼻をつく。
あの子は無事なんだろうかと、そんな心配ばかりしていたが、茶色い物体が部屋のど真ん中でゴロンと寝転がっていた。
私は安堵と後悔の入り混じった表情で、彼の安全を確かめるようにお腹に顔を埋める。いつもの日向の様ないい匂いがした。
ふと、ナニカの事を思い出し、ちらっと窓の方に目を向ける。ここからは何も変わってない様に見えた。
はやく確かめたい気持ちを抑え、ネットの実況を再開させる。一人で見るのが怖かったからだ。
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茶猫:
「すみません、いま戻りました。
配信が途中で切れたみたいです。」
ネット民B:
「アレはどうなった?
猫は無事?」
ネット民A:
「配信、猫しか見てなかったわ。」
茶猫:
「猫は無事です。アレはまだ網戸にいます。
念のため一度確認してきます。
何かあればよろしくお願いします。」
そういいながら、猫を胸に抱きしめて窓にゆっくりと近づいていく。
(あれ?いない。)
私は蠢いていたナニカが薄い殼の中に見当たらない事に気がつく。脂汗が額にじんわりと滲み、喉の奥が締まるような感覚になった。
(どこにいる?ベランダに落ちた?)
ベランダのスリッパ、
長らく使えなかった小さめの物干し、
音を鳴らして動いている室外機の陰、
小さいものが隠れられそうな場所に目をやる。
どこにもいない。
私は怖くなり状況を知らせる。
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ネット民D:
「大丈夫?無理しないでくださいね。」
ネット民A:
「猫可愛いから別にいいわ笑」
ネット民C:
「どこかに行ったのかもしれません。」
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情報共有が終わった後、指示された場所を恐る恐る探したが、ナニカは見つからなかった。
あまりにも呆気ない幕引きだった。
しかし、アレがいたのは紛れもない事実だ。
見つかる怖さ、見つける怖さを想像すると、配信をしばらく切る事はできなかった。
落ち着くためにお茶を飲む。足元が少し寒くなっていた、エアコンの調子を見たが壊れた訳ではなさそうだ。
猫が隣の部屋に続くドアの前でニャーニャーと鳴いた。普段はあまり鳴かない事が多いのに。
ふと、猫に目をやると隣のドアが少し空いていた。
隙間から冷たい風が流れていた。
茶トラの彼は、ドアの隙間から液体のようにするりと部屋に入って行った。
床に目をやると、大きなナメクジが這った後のような粘着質のゼリーの様なものがついているのに気づく。
嫌な予感がした。
彼の名前を叫びながら、隣の部屋のドアを開ける。
冷たい風とともに、ひどく生臭く、切ったばかりのスイカの皮の様な異様な匂いが鼻をつく。
閉めていた窓が少し空いていた。
窓には何かが這い回っていたかのようにネットリとしたのり状の物質が付着していた。
短い悲鳴をあげ、狭い部屋であの子を探す。
椅子の下でクチャグチャと咀嚼音が聞こえてくる。
激しく小刻みに脈打つ鼓動が口から溢れそうになる。息を殺して、嫌な想像をしながらゆっくりと椅子の下を覗き込んだ。
想像していたよりも嫌なものを見てしまった。あの子の口から粘り気のある一雫が床に落ちる。
私は何も言わない。
ネット民は興奮と困惑を交互に叫ぶが、私はプツンと中継を切った。
部屋には茶色い薄皮と、粘液の跡だけが残った。
あの子はベランダから入ってきたバッタやヤモリを口にした時のような顔で、私の目を見て「なに見てんの?」とのん気そうにしていた。
すんと顔を逸らし、何もなかったように長い伸びをした。
向こうの部屋に戻り、キャットタワーの上で元気そうに毛づくろいしている。
猫を見守っていた小さなレンズが、
寒い部屋で震えている私を暫く映していた。
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数日後、窓から差し込む温かな日差しを小さな身体に集めながら、茶色の猫は赤く小さな舌で毛繕いをしている。
暫く彼の方をジーっと見つめる。
「なに?なんかようなん?」
日向の匂いをさせながら、私の方にゆっくり歩いてくる。
ふと足を止めて、床に伏せた。
赤い舌を口から出したまま、喉の奥を小さく鳴らし身体を上下させた。
「グッ、グウェ…」
口から唾液に塗れた物体が飛び出した。
私は恐る恐る吐き出したモノを確認した。
嫌な予感が脳裏に走った…。
毛玉だった。
彼は何もなかったような顔で、私の膝の上に飛び乗ってくる。リラックスした様子で身体を預け、ゴロゴロと喉を鳴らす。私は彼のお腹を優しく撫でていた。
優しい陽だまりの匂いの中に、一瞬だけスイカの様な匂いがした気がした。
あの時の動画は手元にある。
でも、私は再生しない。
見なければ、アレはまだどこかにいるはずだから---
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この企画に参加させていただきました。
今回はいつもと少し違うテイストで書いています。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございました。
