スカスカ、スカッシュ|(短編)#せりふ三題噺
すこし汗ばむ日も増え、
ときどき雨が降るようになった。
桜の薄い桃色の花びらはすっかり消え、
眩しいほどの緑が残っている。
綿毛が、風を待って揺れていた。
喫茶店の外では、新しいスーツや制服の人達が、
朝日の中を足早に通り過ぎていく。
真新しかった靴も少し馴染み、
一足ごとにその柔らかさを示すように
軽やかな足音が店の中まで聞こえてきそうだった。
窓際に座った女の子は、その流れをぼんやり眺めていた。
喫茶店の中だけが、季節から切り離されたように静かだった。
◆
この喫茶店は駅から少し歩いた公園前にあり、
安いモーニングをよく食べに二人で来ていた。
トースト二枚にゆで卵、
プチトマトが入った小さめのポテトサラダ、
それにコーヒーか、おすすめのドリンクがセットになっていた。
◆
窓側の席から、ツバメが軒下を何度も横切っていくのが見えた。
軒下には、まだ形にならない泥の跡がひとつだけ残っていた。
私はいつも頼んでいたモーニングコーヒーではなく、
本日のおすすめを一つ頼んだ。
カウンターではお婆さんが、
一人黙々と作業をしていた。
レモンを半分に切り、手絞り器でぎゅっと絞った。
レモンの爽やかな青い香りが店内にふわっと広がった。
絞り終えたレモンを置きながら、お婆さんはふっと笑った。
「昔はねえ、新幹線の食堂車でこれをよく頼んでたのよ。
うちの人が好きでね。メニューに加えたの」
お婆さんはそう言いながら、冷たく冷やしたグラスにたっぷり氷を入れ、搾ったレモン汁とガムシロップを加えた。
冷えた炭酸水を二つのグラスに注ぐと、
小さな泡がジュワとグラスの底から立ち昇った。
軽く一度だけかき混ぜ、そして輪切りのレモンを1枚置き、レモンスカッシュを私の前に置いた。
泡はすぐに消え、鮮やかな黄色と透明さに目を奪われた。
一口飲む。
爽やかな甘みにレモンの苦さが少し混じっていた。
しばらくして、私はお婆さんに小さな声で言った。
「……お婆さんは、行きたいところに、行けましたか」
お婆さんは少しだけ笑って、カウンター越しに自分のグラスの氷をストローで転がした。
カランと乾いた音がした。
「色んなとこには行きましたよ」
そう言って、外の光景に目を向けた。
「でも……あの人が待ってるとこには、
まだ行ってませんね」
その言葉は、お婆さん自身のことなのに、
どこかで私に向けられているように聞こえた。
私は何も言わなかった。
ただ、胸の奥が静かに——
そんな気持ちが、レモンスカッシュの残り香のようにゆっくりと広がっていった。
最後の一口を飲み干すと、
グラスが カラン と鳴った。
▼はらとけいさんの♯せりふ三題噺に参加させていただきました。
▼今週のお題
■セリフ
「行ってませんね」
■三題
・新幹線
・花びら
・レモンスカッシュ
▼投稿ルール
投稿締切(任意):2026年4月30日(木)23:59
ハッシュタグ「#せりふ三題噺」「#新幹線花びらレモンスカッシュ」
