葉桜と、接木の痛み — 私が隠した春|(ホラー)#シロクマ文芸部
花びらを掴み損ねるみたいに、彼女の指が外れた。私はそれを掴み直さなかった気がする。
ただ。それだけだ。
彼女は崖下の河原に落ちていた。散った桜の花びらのように。
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「あなた、大丈夫?登山グループの方が滑落事故に遭ったときに、あなたが一緒にいたんでしょ。」
妻は湯呑みを置きながら、私の顔を一瞬だけ
探るように見た。心配そうな眼差しで、
私を気遣うように言葉を紡ぐ。
妻の淹れてくれたお茶をゆっくりと口に運ぶ。
「……ああ。本当に、あんなことが目の前で起こるなんて。今でも信じられないよ。」
リビングの窓からは、夜の闇に紛れて公園の枯れかけた桜の枝が、まるで巨大な手の指のようにこちらを指し示しているのが見えた。
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あの嶺で、山桜が狂ったように舞い散る中、彼女が視界から消えた瞬間。
私はただ、その「美しさ」に陶酔していた。
崖下へ吸い込まれていく彼女の体は、役目を終え散った花弁そのものだった。
最期の瞬間、彼女の唇が動いた気がする。
『やっぱりね』
その掠れた吐息は、山を抜ける風にかき消され、私はそれを「約束ね」だと自分に言い聞かせた。
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単身赴任先の孤独な夜。彼女と出会ったのは、地元の登山サークルだった。
「山桜が好き。
桜の花と葉っぱが自然に混ざって見えるから。
ソメイヨシノは……実を結べない。
自然に増やすことが出来ない偽物みたいで、
なんだか嫌いなの。」
そう笑う彼女の横顔を、私は「清廉な自然の一部」だと思っていた。人工的な出自を嫌う高潔な女性。
風が運んでくるベビーパウダーの様な、甘い香りを吸い込みながら、そう思い込んでいた。
本宅に帰れば、従順な妻と、小学校に上がったばかりの愛らしい娘がいる。
彼女は、そんな私の「現実」を汚さないための、期間限定の、美しい「余白」であるはずだった。
赴任先を引き払い、本宅に戻る前の日。
部屋の片付けで、私宛の一通の手紙を見つけた。
そこには、私が信じていた「山桜のような女」など存在しなかったことが、丁寧な文字で綴られていた。
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『これを読んでいても
これからも山桜を一緒に見てくれる?
最近のあなたの目、少し怖かったわ
まるで見ず知らずの他人を見るみたい
あなた覚えてる?
二人でソメイヨシノを見たときの私の言葉
続きがあるの
ソメイヨシノってどうやって増えるか知ってる?
誰かが枝を折って、
別の木を傷つけて、
そこに無理やり押し込まないと
生きていけないの
あの人には、話す必要があると思っているの
私に何かあったときのために、二人の思い出を
あなたのすぐそばに置いておくことにしたの
あの人の住んでいる近くの公園の、
あの枯れかけた桜の木の下
あなたがもうすぐ毎日、
窓から見下ろす あの場所に
ずっと 私を忘れないでいてね』
その瞬間、部屋を満たしていた山桜の匂いが、
深く湿った土っぽさとバニラの様な甘さと
腐敗を感じさせる匂いに変わった。
『やっぱりね』
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あれから何度目かの桜が散った。
気づけば、枯れかけた桜に蕾が芽吹き、少しだけ淡い薄桃色の花が戻ってきた。私が気がつく頃には近所でも噂になるくらい見事な花をつけるようになっていた。
私の家の窓から見えるそれは、
日を増して何かを取り込んだように、
息を吹き返しているようだった。
いま、私の目の前にある桜は、
枯れかけていた姿を消し、
異常なまでの生命力で夜を浸食している。
「あの桜、なんだか気になってるの。」
妻に促され、娘もはしゃいで、
桜を見に行くことになった。
何かが私の生活にゆっくりと根を伸ばしている感覚に囚われていた。
結実するはずのないソメイヨシノの枝に、
無数の艶めかしい黒い実が成り、
私をじっと見つめている様に思えてくるほどに。
娘は桜の枝に手を伸ばした。
妻は根元を見ていた。
——そこに何かある。
そうとしか思えなかった。
「パパ、あの桜、なんだかお目々がいっぱいあるみたいで怖いね。」
娘が私の服の裾を掴む。
「何を言ってるんだ。綺麗じゃないか……」
娘をそっと抱き寄せる。
その瞬間、もっと小さかった頃の匂いが蘇る。
だが、その中には熟した桃の残り香の様な甘い匂いが澱のように僅かに重なり、静かに浮かび上がっていた。
引き攣った笑いを浮かべながら、
娘の温かさを確かめ、目を瞑った。
家族が寝静まったら、
私はあの木の下を掘るしかない。
だが、あの樹の根はすでに、私の家の基礎にまで食い込んでいるような気がしてならない。
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深夜。
私はリビングの窓から、月明かりに照らされた
公園へと這い出した。
娘が指摘したあの黒い実たちが、
私の一挙手一投足を監視しているように思えた。
彼女の痕跡を探すように、冷たい土を掘り返すたび、鼻腔を突くのは、あの密室の山桜の甘い香りと、錆びついた鉄の匂い。
指先に血が滲むのも気にせず、
私は土を掻き分けた。
呼ばれた気がしたのだ。
土の下から、彼女の囁きが。
根の深くまで土を掻きだす。
指先のような冷たく湿った何かに触れ、
思わず手を離した。
『やっぱりね』
その瞬間、どこか高い所から落ちて、
頭が割れるような強い衝撃を
頭蓋の中に無理やりねじ込まれるような感覚。
視界が暗転する。
意識が遠のく中、血のように赤く見える花びらが、視界に重なるように覆い隠していた。
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翌朝。
公園には、いつもより生命力に満ち溢れ、
艶やかで濃い緑を茂らせた葉桜だけが、
そこに立っていた。
それはどの桜よりも深く、
どす黒いほどの緑を茂らせ、
家族が待つ家の窓を、静かに見下ろしていた。
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今回も参加させていただきました。
季節がら、頭から桜が離れませんでした。
ありがとうございました。
