何気ない日常に対する感謝:当たり前は当たり前ではなく、そして私たちはそのことを簡単に忘れてしまう
momomiです。セブ⇒日本に帰ってきました。
まだ旅の余韻を残しつつ、日本の良さと同時に、改めて天候や地震などの厳しさを感じながら日本に馴化しているところです。
日本に帰ってきて驚くのが、私たちにとってとても当たり前な清潔さと不思議なノイズの少なさ。魚介をはじめ、食事が美味しいこと。
道路や駅、インフラが、どこも不思議なくらい整っていること。
きっと私はまた忘れてしまうんだろう。
これが当たり前じゃないということを。
トイレットペーパーを持ち歩かなくてもトイレに行けて、安心して水道水が飲めること。
タクシーに乗ってもぼったくられる心配がほとんどないこと。
街の中で銃を目にすることはほとんどなく、野犬の恐れもなく、道路の舗装はほとんどが完璧でまっすぐ歩けること。
そして、それらすべてに、心から感謝したことに。
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私はあまり社会的関心が高いほうではないのだけれど、今回は友人のつてもあってフィリピンのいわゆる最下層の人たちに対するボランティアに少し関わらせてもらった。
ごく障りだけだけれど、それらはとても強烈な印象をもたらした。
まだ上手く自分の中でまとめることはできない。
日本から送られてきた、ランドセルを再活用するプロジェクト。
送られてきたランドセルをお墓に住む子どもたちに届けたとき、みんなランドセルを手にとっても嬉しそうにしていた。


すごく近代的で、素敵なショッピングモールもあるけれど(当然というか、そういうショッピングモールはとても清潔で、トイレットペーパーは備え付けられている)、ローカルなモールの眼下にはスラム街が広がる。
でもそんな環境の中でも、子どもたちはみんなたくましく楽しく過ごしている。みんなでバスケットボールをしたり。
女の子はあるものでリボンをつけたり、かわいくおしゃれをする子もいる。
電気がどこまで使えるかは怪しいけれど、スマホはすぐそこにある。
YouTubeを夢中で見ているのは日本と同じ。


印象的だったのは、かわいそうな感じはあまりなくて、子どもたちの目はランドセルや目の前のボールを見ているときキラキラしていた。
どんな子も、子どもは同じなんだな、と思う。
たまたま、ここに生まれただけだということ。
そしてそれが大きな違いを生みだしている。
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上手く言えないけれど、セブに来て私は持っている側に生まれたんだなと思う。
日々小さな不満はある。
まだこれからどう生きていくかは決まらないし、相変わらず将来は見えない。
FIREできるほどお金を持っているわけではない。
でも家族がいて、わたしの大切な人たちがいて、愛されている。
雨風をしのげる家がある。
母国語でモノを学べる環境がある。
(これに関しては英語が使えたほうが世界が広がるのは事実だけど)
安心して学校に行けて、家族がいて、自分抑えることは多少はあるけれど家族の犠牲になることはそこまで多くない。
いつだったか、「自分が感謝するものが何もないときは、日本に生まれたことに感謝しろ」と言われたことを思い出す。
私はまたきっと忘れて、勝手に自分を縛ってしんどくなって、何もかもイヤになる日も来るだろう。
私もあの人だったらいいのに、私はあの人たちに比べて持っていない側だ、そう思う日だって、まだまだあるだろう。
でも、今回の旅ほど自分が日本人に生まれて、当たり前のように快適さを享受していることをしみじみ感じたことはない。
何かに対して感謝できるとき、人間は幸せを感じるんだな、なんだかそんな風に思った。
そして、私ができることを少しでも何かしたいと思う。
あの子たちの笑顔のために、行動できますように。
読んでくださって、ありがとうございます。

