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本当に今更ながら、中居正広氏の芸能界引退とフジテレビについて。

ずっと触れずに、見て見ぬふりをしてきた。それは単なる無関心からではない。彼らが築き上げたメディアという巨大な閉鎖的で特権的な「空気」を無意識のうちに許容してきた、ただの一視聴者だったからだ。

しかし、私が最も恥ずべき理由は別にある。正直に告白しなければならない。私自身も、ここ最近の被害者「A」と思われる人物が綴るエッセイを読んでいて「少しおかしいのではないか」という疑念を抱いてしまった一人だ。彼女の最近の週刊誌でのエッセイは、どこか現実味を欠いているように見え、一瞬、彼女の証言全体の信用性に揺らぎを感じてしまった自分がいた。

だが、私はすぐに気づいた。その疑念を抱くこと自体が、この社会に蔓延る「完璧な被害者」を求める暴力に加担している証拠なのだと。

あの膨大な量の第三者委員会の調査報告書には、客観的な事実として「黒」という結論が、揺るぎない証拠とともに記録されている。私の抱いた主観的な違和感が、あの公的な調査結果を覆す理由などどこにもない。彼女の言葉がどこか破綻して見えるのは、彼女が嘘をついているからではなく、あまりに巨大な権力による暴力と孤立の中で、彼女の精神が極限まで削り取られた結果ではないかと推察する。

▪️個人の罪 「調整」という名の人身供養

2025年に公表されたフジテレビ(CX)の第三者委員会による報告書は、メディア企業としてお終いに等しい宣告だった。そこで認定された「業務の延長線上における性暴力」。この一文が、事件のすべてを物語っている。

加害の構図は極めて冷酷かつシステマチックだ。芸能界の頂点に君臨するスター・中居正広と、そのスターに番組の命運を握られている当時の編成部部長「N」。「N」にとって、部下である女性アナウンサー「A」は、共に番組を作る生身の人間ではなく、スターの機嫌を繋ぎ止めるための便利な「カード」、あるいは「供物」に過ぎなかった。

中居からの「男同士じゃつまらん」「女性いるかな」という要求に対し、「N」は「アナウンサー調整してみます」と即答する。複数人での会食であると騙し、他のスタッフをわざと遅らせる、あるいはドタキャンさせることで、中居と「A」を密室で二人きりにする緻密なセットアップ。「A」からすれば、絶対的な人事権を持つ上司からの命令であり、そこに出演者としての選択の余地など存在しなかった。

事件後、「A」が心身を壊して退社していく裏で交わされたメールのやり取りは、この事件の残酷さを象徴していた。中居からの「色々たすかったよ」という軽い労いに対し、「N」は「引き続き、何かお役に立てることがあれば、動きます!」と返信した。一人の女性の人生が決定的に破壊された横で、彼らにとってこの出来事は、単なる「不手際の処理」であり、スターへの貢献を継続するための日常的なルーチンワークに過ぎなかった。

▪️理論の盾 WHOの定義と「自己規律」の檻

事件が公になった後、加害者側や彼らを擁護する群衆は「無理矢理ではなかったはずだ」「仕事のための合意があった」という言葉の盾に隠れようとした。しかし、その盾は現代の国際基準の前ではあまりにも脆弱で無力だ。

第三者委員会があえて日本の古い刑法解釈(暴行・脅迫の有無を重視する基準)ではなく、WHO(世界保健機関)の性暴力の定義を用いたことには重大な意味がある。WHOは、肉体的な暴力の有無を問わない。立場の優位性を利用した望まない誘い、拒絶すれば職を失うという恐怖、あるいは組織的な「調整」によって個人の意思決定を実質的に奪うこと。そのすべてを明確に「強制」であり、「性暴力」であると定めている。「彼女は嫌だと言わなかった」のではない。「嫌だと言えば業界で生きていけない状況」に彼女はあらかじめ置かれていたのだ。

ここで問われるべきは、なぜ「N」がそこまで残酷になれたのかという点だ。それはミシェル・フーコーが説く「自己規律」の完璧な体現者、すなわちテレビ業界システムに過剰適応した優秀なテレビマンだったからではないだろうか。

テレビという巨大な監視装置の中で、誰に直接命じられるまでもなく、「スターを満足させ、システムを維持すること」を自らの正義として内面化してしまった「N」。彼にとって、中居という太陽を曇らせないことは呼吸をするのと同じくらい当然の「規律」であり、その規律を守るためなら、何事も効率的なシステムの維持に不可欠な微調整でしかなかったのかもしれない。

▪️組織の罪 80年代の亡霊とアップデートの拒絶

「N」の暴走を許し、「A」を絶望の淵へと追いやった真の元凶は、CXの経営陣の「不作為」にもある。

彼ら経営陣が夢見続けているのは、シャンパンの泡が弾け、スターが全てを支配していたあの黄金の80年代〜00年代だ。「楽しくなければテレビじゃない」というスローガンの下、素人や若手女性をいじり、消費することを「現場の活力」や「業界の潤滑油」として美化してきた世代。彼らにとって、大物タレントへの女性アナウンサーの「アテンド」は、重大なハラスメントではなく、番組を円滑に進めるための「巧みな演出」に過ぎなかったとあの時代のフジテレビを見て育った私は邪推してしまう。

絶対的な権力構造である日枝会長体制の下で育った彼らの正義は、社会規範や国際的な人権基準に従うことではなく、身内のスターと組織の論理を最優先にすることだ。2023年のジャニーズ問題でメディアの倫理観が根本から問われたにもかかわらず、彼らは「昔はこれで通用した」という旧態依然としたロジックに固執し、現代の倫理観へのアップデートを完全に怠った。

第三者委員会が暴いたのは、単なる個別の性加害ではない。かつて一世を風靡したフジテレビという王国が、古い規律と歪んだ性倫理を抱えたまま内部から腐敗し、現実社会から完全に切り離された「孤島」と化していたという絶望的な事実だった。経営陣が守ろうとしたのは中居正広という個人のタレントではなく、自分たちの青春時代の成功体験という幻影だったのかもしれない。

▪️沈黙のカルテルとマスメディア全体を覆う病理

この構図を、他テレビ局の人間は果たして対岸の火事として眺められただろうか。

日本のマスメディア全体が、長年にわたり同じ「基本OS」で駆動してきた。それは、視聴率という至上命題のために、特定の巨大な芸能事務所や大物タレントに依存し、その権力を絶対化するシステムである。放送局が本来持つべきジャーナリズムの矜持は、芸能界の力学の前にあっさりと明け渡されて久しい。

局の垣根を越え、至る所に「N」は存在していた。他局のプロデューサーたちもまた、フーコー的な規律の中に生き、大御所を満足させるための「調整」に明け暮れてきた。ある局ではそれを「接待」と呼び、ある局では「打ち上げ」と呼び変えながら、若手女性の尊厳を削り取るコストを業界全体で共有してきたように思える。

特に「女子アナ」という職種を、スターへの「供物」あるいは画面に華を添える「愛玩物」として消費する文化。これはフジテレビの専売特許ではなく、特に80年代以降、民間放送全体が作り上げた歪なモデルそのものである。

自らの足元にも無数の「A」たちの犠牲が埋まっていることを知っているからこそ、マスメディアは互いの罪を庇い合い、本質的な構造批判を避ける「共犯者のカルテル」を形成しているのではないだろうか。CXの第三者委員会が暴いた闇は、日本のテレビ界全体を覆う巨大な病巣の、ほんの氷山の一角に過ぎないと思う。

▪️終わらない地獄と、新しい時代の始まり

「多額の和解金を受け取った以上、守秘義務を守るのがルールだ」。加害者側が用意した契約書を盾に、今なお声を上げる「A」を「卑怯だ」と叩く声がある。

2026年、公的な文書に「黒」と刻まれてなお、彼女の戦いは終わっていない。彼女の少し突飛に思える告白や、華やかに復帰して活躍する姿を見て、「やっぱり嘘だったのだ」と冷笑し、誹謗中傷と脅迫を続ける無数の匿名の群衆。彼らは、姿の見えない「N」のようだ。彼らが必死に守ろうとしているのは、自分たちが愛してきた「きらびやかなエンタメ界」という虚像であり、そのエンターテインメントが誰かの搾取と絶望の上に成り立っていたという事実から、ただ目を逸らしたいだけに見える。

私自身が陥りかけた「完璧な被害者」を求める罠もまた、この虚像を守ろうとする防衛本能だったと言える。

「A」がどれほど画面の中で躍動しようとも、また、その言動にどれほど傷跡の痛々しさが滲み出ようとも、あの報告書が示した「事実」は揺るがない。

私が彼女の声を「信じる」ということは、ただの感傷的な同情ではない。自分の内なるバイアスを乗り越え、この卑劣な共犯関係から明確に脱却し、個人の尊厳を巨大な組織の論理から取り戻すための、「抵抗」である。

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