「自分の常識」で裁判を語る愚かさについて。
著名人の刑事事件が報道されるたび、SNSや一部のコメンテーターによる「居酒屋談義」のような意見がタイムラインを埋め尽くす。
特に、検察が懲役7年を求刑したといった具体的な数字がニュースになると、「実刑は重すぎるのではないか」「有罪だとしても、そこまでの厳罰は必要なのか」といった論調が散見されるようになる。
しかし、こうした発言に触れるたび、呆れた気持ちを抱かざるを得ない。そこにあるのは、法制度に対する致命的な知識不足と、自らの体験に基づく「常識」を過信し、裁判という厳格な事実認定の営みを軽視する浅はかさを感じるからだ。
◼︎刑法の枠組みを無視した「感情論」
まず、法的な前提の決定的な欠落について触れなければならない。例えば、不同意性交等罪の法定刑は「5年以上の有期懲役」と定められている。法律が定める刑の下限自体が「5年」なのだ。(なお、今話題になっている件は不同意性交等罪と不同意わいせつ罪の併合罪として起訴されており、7年という求刑もこの2罪を合わせたものである点は留意する必要がある)。
刑法において執行猶予を付与できるのは、言い渡される判決(宣告刑)が「3年以下の懲役」等の場合に限られる(刑法25条)。つまり、法定刑の最低ラインである5年の段階で、何の減軽もなければ当然に実刑となる構造になっている。
もっとも、法定刑の下限自体を動かす手段が一つだけ存在する。「酌量減軽」(刑法66条)である。裁判所が特別な事情を認めれば、法定刑の下限を半分まで下げることができ、5年が2年6月まで下がれば理論上は執行猶予の対象(3年以下)に入る。
実務上、この酌量減軽が認められるには、被害者との示談が成立し、宥恕(ゆうじょ=許し)を得られたかがとても重要になる。つまり「有罪だが実刑は行き過ぎではないか」「有罪だが執行猶予でいいのではないか」という主張が論理的に成立する余地があるのは、被害者との関係において実際に和解が成立しているかということである。
ここで見落とされがちなのが、「示談・宥恕」と「本人の社会的制裁」の違いである。
酌量減軽の実務的な根拠になり得るのは、被害者との示談が成立し許しを得られたという、被害者との関係そのものに関わる事実である。一方、「有名人としての仕事を失った」「社会的に叩かれた」といった、被害者とは無関係に本人だけが受けた事後の不利益は、量刑を多少調整する一般的な事情の一つにはなり得ても、それ単独で酌量減軽を導く根拠にはなりにくいのである。
したがって、被害者との示談・宥恕という具体的な事実を伴わないまま「有罪は認めるが、実刑(あるいは執行猶予)はどうか」と語ることは、法定刑5年という前提と、3年以下でなければ執行猶予がつかないという制度を、そもそも理解していない発言に等しい。
この罪で有罪を認めるということは、被害者との示談・宥恕という特別な事情を同時に指摘できない限り、実刑を受け入れるということと本来セットなのだ。
◼︎「行為の種類」を自分の感覚で格付けする誤り
こうした言説にしばしばみられるのが、行為の種類ごとに「これは合意なしにはあり得ない」「これなら分かる」と、自分の感覚で構成要件をふるい直す発想である。
刑法177条が定める「性交等」は、条文上①性交、②肛門性交、③口腔性交、④膣・肛門への身体の一部または物の挿入(陰茎を除く)の4類型と明記されている。
つまり口腔性交は「わいせつな行為」という別カテゴリーではなく、性交そのものと並んで「性交等」の構成要件行為に明文で含まれている。これは2023年の刑法改正で明確化された点であり、解釈の余地がある論点ではないはずだ。
したがって「性行為ならあり得るが、口淫行為なら合意なしにはイメージできない」という意見があるとしたら、そもそも条文が置いている区分と一致しない。
行為の種類によって「これは信じられる/信じられない」と個人の感覚で格付けする作業は、法律上何の意味も持たないばかりか、立法者が同一の罪として一体的に扱うと定めた行為類型を、勝手に細分化して評価し直しているだけだ。
さらに、この種の疑問には手続法上の誤解も潜んでいるように思う。
刑事裁判には「不告不理の原則」があり、裁判所は検察官が起訴した訴因についてのみ審理・判断する。検察が不同意性交等罪と不同意わいせつ罪の併合罪として起訴した以上、裁判所が独自の判断で「これは全体としてわいせつ罪相当だ」と読み替えて判決を出すことは、訴因変更の手続きを経ない限りできない。
つまり争点はあくまで「起訴された各罪の構成要件(同意しない意思の形成・表明・全うが困難な状態での性交等、またはわいせつな行為)が、行為ごとにそれぞれ満たされるか」であり、行為を自分の感覚で再分類して「これはわいせつ止まりではないか」と論じることは、審理の対象そのものを取り違えているように思う。
◼︎「自分の常識」という無価値な物差し
さらに根深い問題は、裁判の事実認定という緻密なプロセスに対し、個人の「常識」や「イメージ」で語る行為だ。
「そんな状況で起きるはずがない」「自分の知る現場感覚ではあり得ない」こうした言説は、一見すると経験に基づいた説得力のある意見のように聞こえるかもしれない。
しかし、その実態は単なる個人の主観であり、認知の歪みに過ぎない場合が多い。
刑事裁判における事実認定とは、物理的証拠、当事者や目撃者の供述の信用性、前後の状況証拠などを一つひとつ精査し、客観的な証拠関係から「疑わしい点は何か」「何が事実として認められるか」を積み上げていく、極めて慎重かつ客観的な作業であるはずだ。
そこに、イチ市井の「自分ならこうする」「自分の知る業界ではこうだ」という個人的なイメージが介在する余地は本来存在しない。
現実の犯罪は、しばしば個人の想像力を容易に超える。威迫や立場的優位性による心理的フリーズ、暴力を伴わない抑圧状態など、現代の法実務や心理学が明らかにしてきた被害の実態を踏まえずに、「自分の頭の中で理解できるかどうか」を判定基準にすることには、慎重であるべきだろう。
◼︎二次加害の構造と、発信者に求められる倫理
客観的な法的知見や裁判の事実認定を軽視し、根拠のない疑念を公の場で振りかざすことは、単なる知識不足の露呈にとどまらない場合がある。
現実に傷ついた被害者の尊厳をさらに損ないかねない「二次加害(セカンドレイプ)」につながる危険性を、発信者は常に自覚する必要がある。
裁判という制度は、個人の感情や根拠のない常識から離れ、公平・中立なルールと証拠に基づいて客観的な事実を確定するために存在する。
法的な構造を学ぶ努力もせず、証拠の積み上げという泥臭い事実認定のプロセスも尊重せず、ただ自分の「イメージ」と「感情」だけで法や事件を論じる振る舞い。
私たちは、そうした言葉がいかに危ういものであるかを自覚しなければならない。発言の手軽さと引き換えに失われかねないのは、制度への敬意であり、他者の痛みに寄り添うための客観性なのだから。
