【徒然日記】博愛を手放せない私の、生きづらさ
今日は、私の生きづらさについて。今回は次の企画に参加しています。
「私にとっての生きづらさってなんだろう?」
企画の記事を考えていたはずなのに、途中からその問いがじっと私の心の奥を覗き込んでくる。
思い返してみると、私はいわゆる自分の“特性”と呼ばれるものに、今はあまり苦しんでいない。
物をすぐなくすことも
忘れ物の多さも
疲れるとやや落ち着きがなくなることも
――生活の節々でちょっと顔を出すけれど、私にとっては“自分の仕様”だ。
大事なものはひとまとめにしておく。
外出時は、いつもの肩掛けかばんに財布と携帯を必ず同じ場所に入れる。
疲れている日は無理をせず、予定を軽めにする。
こだわり始めると止まらなくなるときは、自分で「それは余裕のある日にしよう」と決めておく。
こうして振る舞いを工夫していけば、私は私のまま、わりと機嫌よく暮らしていける。
だから、同じような特性に悩む人に出会ったときには、素直に「上手に付き合っていければ大丈夫だよ」と伝えられる。実感として本当にそう思っているから。
けれど、それでもなお胸の内には、どうにも扱いづらい“別の種類の生きづらさ”が残っている。
これまでのエッセイにも小分けに書いているけれど、私は「分かり合いたい」という強い願いを、なかなか手放せない。
嫌なことをした相手にも、どこか分かり合える接点があるのではないかと探してしまう。
距離を取りたがる人にも、つい小さなおせっかいを焼いてしまう。
そんなふうにして、人との間に橋を架けようとする気持ちが、私の中にはどうやらとても強く根付いているみたい。
博愛的でいたいという願いは、たぶん悪いことではない。
むしろ平和を信じる心が、そこに息づいていると思っている。
ただ、人と人の間には、努力だけではどうにもならない溝がある。
ときには、どれだけ手を伸ばしても届かない心がある。
その現実を突きつけられたとき、私は少しだけ生きづらさを感じる。
理想を諦めたくない気持ちが、自分の中のどこかを締めつけてくる。
それでも、この頑固な願いを嫌いにはなれない。
そんな自分を好きだと言ってくれる人がいることも、私を励まし続ける力になっている。
きっと私の生きづらさは、「分かり合いたい」という願いそのものの重さなのだと思う。そしてこの重さは、人生の奥行きのようなものかもしれないとも思っている。
この生きづらさと、焦らず、無理せず、上手に歩調を合わせていく半生でありたい。
そんな未来を思い描きながら、今日も私は自分を整え、世界のほうへゆっくりと手を伸ばしていく。
~追記~
マガジン登録いただきました!他の方の記事も参考になります。素敵な企画ありがとうございます…!
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