「昔からそうだから」で続ける葬式は、いったい誰のためなのか
2026年7月19日 日曜日 どうもっ くりさんです(^^♪
今日は、叔父叔母の1周忌の法要でした。私も56歳ですので、近しい人々がどんどん死んでいきます。葬儀に参列する機会も多くなり、法事も多くなりましたが、その度に、いつ私の番がくるのだろうと思います。私は、通夜も葬式も要らない、火葬できる時間になったら速やかに火葬して、海か山に散骨して、墓には入れて欲しくない派閥です。
私のことはさておき、
人が亡くなると、悲しむ暇もないほど慌ただしく物事が動き始めます。
葬儀社を決め、親戚に連絡し、通夜を行い、翌日は葬儀と告別式。その後は火葬場へ向かい、骨を拾い、会食をして、参列者に挨拶をする。 遺族は大切な人を失ったばかりで心身ともにボロボロのはずなのに、まるで大きな一大イベントの「運営責任者」のように立ち回らなければなりません。
そこで「もう少し簡単に、静かに送ることはできないだろうか」とふと口にすると、決まって周囲から返ってくる言葉があります。
「昔からそうしてきたから」 「きちんと二日間やってあげないとかわいそう」 「親戚に何を言われるか分からない」
しかし、そもそも私たちが「普通」だと信じ込んでいる今の葬式の形は、本当に大昔から変わらず続いてきた「伝統」なのでしょうか。
日本の葬式は、時代に合わせて何度も形を変えてきた
日本人の死者の送り方は、歴史を紐解くと最初から一つだったわけではありません。地域によって土葬もあれば火葬もあり、遺体を一定期間置いてから葬る「もがり」のような方法もありました。仏教が伝わる遥か以前から、独自の死生観で先祖を祀る文化も存在していたのです。
仏教と葬儀の結びつきがここまで強まった大きな転機は、実は江戸時代にあります。 江戸幕府の宗教政策(寺請制度)によって、人々は必ずどこかの寺院の「檀家」になることを求められました。当時の寺は、信仰の場であると同時に、現代でいう「戸籍を管理する役所」のような役割を担わされたのです。 この仕組みの中で、葬儀、戒名、法事、お墓という一連のシステムと寺院の関係がガチガチに強くなっていきました。つまり、私たちが「日本古来の伝統」と思っているお葬式の仕組みの一部は、純粋な信仰だけで生まれたのではなく、当時の「社会制度」によって定着した面が大きいわけです。
また、「通夜」も本来は、親族や近所の人が遺体のそばで夜通し過ごす「夜伽(よとぎ)」という極めてプライベートなものでした。現在のように、葬儀会館に集まって決められた時間に僧侶がお経を読み、その後に「通夜振る舞い」の食事をする、というビジネス化された形とはずいぶん違います。
さらに明治末から大正期にかけて、都市部では長々と列を作って墓地へ向かう「葬列」が姿を消し、現在につながる「告別式」が広がっていきました。そして戦後、白木祭壇や葬儀会館、専門の葬祭業者によるサービスが全国に一気に普及します。国立歴史民俗博物館などの研究でも、戦後の葬儀は「火葬の普及と葬儀の告別式化」「葬儀事業者のサービス業化」という視点から分析されています。
私たちが「普通の葬式」と呼んでいるものは、実は戦後の高度経済成長期あたりにカチッと整えられた、比較的新しい「パッケージ」に過ぎないのです。
葬式という「儀式」がおかしいのではない
誤解のないように言っておくと、私は葬式そのものが無意味だとは全く思いません。 ちゃんとした儀式という区切りがあることで、大切な人が亡くなったという残酷な現実を、時間をかけて少しずつ受け入れられる人もいます。親戚や友人が集まり、故人の思い出を語り合う時間に心が救われることだってたくさんあります。
文化庁の資料でも、日本で一般的とされる仏式葬儀は、通夜と翌日の葬儀・告別式という二日間の形として紹介されています。
おかしいのは、葬式そのものではありません。 その儀式本来の意味を考えないまま、「こうしなければならない」という形式だけを他人に押しつけることです。
故人が本当にそれを望んでいたかも分からない。残された遺族には経済的な余裕も、体力的・精神的な猶予もない。それでも「世間体」や「親戚の目」のために、無理をして数十人を呼び、立派な祭壇を作り、二日間の大がかりな儀式をやり遂げる。
それは本当に、故人を心から大切にしていることになるのでしょうか。
すでに「弔い方」は変わり始めている
現代は、家族葬、一日葬、直葬(火葬式)、無宗教のお別れ会など、それぞれの事情に合わせた本当にさまざまな方法が選ばれるようになりました。近年の社会学的研究でも、少子高齢化や都市化、過疎化にともなう人口移動などを背景に、従来型の派手な葬儀から、家族葬や一日葬、直葬への移行(小規模化・個人化)が顕著に指摘されています。
ちなみに、厚生労働省の令和4年度の統計によると、現在の日本の火葬率は99.97%。世界的に見ても圧倒的な数字です。
かつて地域ごとに多様だった死者の送り方が、近代以降に国やビジネスの手によっていったん「標準的な二日間のパッケージ」に統一され、そして今、令和の時代になって再び「それぞれの家族に合った多様な形」へと戻ろうとしている。歴史の流れで見れば、今の変化はその方が自然なのかもしれません。
立派な葬式を望む人は、盛大にやればいい。家族だけで静かに静調に見送ってほしい人は、それでいい。一度火葬だけを済ませて、遺族の心が少し落ち着いてから、改めて親しい仲間でお別れ会を開く方法だって素晴らしいと思います。
大切なのは、形式の大きさや、かけた金額ではありません。 「故人が何を望み、残された人がどのようにその別れを受け入れ、前を向けるか」です。
「昔からそうだから」という理由で頑なに守られている文化も、歴史をたどれば時代に合わせて何度も姿を変えています。文化とは、凍らせてカチコチに保存するものではなく、その時代を生きる人が意味を問い直しながら、しなやかに受け継いでいくものではないでしょうか。
葬式は、世間や親戚に見せるための「発表会」ではありません。
誰かが亡くなったときに、遺族が疲れ果てて後悔しないためにも。 私たちが元気なうちに、「自分はどんなふうに見送られたいか」「家族をどう見送りたいか」を、リビングでコーヒーでも飲みながらサラッと話しておく。 そこから始めるだけでも、日本の死をめぐる文化は、もっと生きている人に優しいものになるのではないかと思います。
みなさんはどんなふうにこの世界とお別れしたいですか?
この機会に考えてみてくださいね。
それではまた明日。くりさんでした(^^♪
**************************************************
糖質制限を広める活動をしています。
低糖質のスイーツなどを楽天ROOMで集めています。
食べるものに困った時はご利用ください。
PR)楽天ROOM
Tシャツつくりも始めました。覗いてくださるだけでも励みになります。
よろしくです。
いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただき感謝です。もしこの記事が心に響きましたら、サポートをいただけると大変励みになります。いただいたお気持ちは、より良い創作のための活動費として大切に活用させていただきます。これからも温かく見守っていただけたら嬉しいです。いつも本当にありがとうございます。