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生まれてから透析になるまでの道のり⑪

2026年6月7日 日曜日 やっほっ くりさんです。
今日は雨かなぁと思ったら、晴れ予報に変わっていたので、朝から草刈り。
つかれましたぁ・・・みなさんはどんな日曜日でしたか?

では、さっそく、⑩の続きを書きましょう(^^♪

⑩1998年夏〜1999年夏。再上京した私は、Lotus 1-2-3でのデータベース構築を機にフリーランスの第一歩を踏み出す。渋谷の新聞販売店での強烈な所長との出会いや、他店を圧倒する営業大爆破を経て、私は世紀末の1999年7月、ノストラダムスの大予言をすり抜けながら高円寺の家賃三万円のボロアパートへと移り住んだ――

突然のめぐり合わせ、そして新天地・栃木へ

1999年(平成11年)7月。 高円寺の木造アパートで暮らし始めた私は、渋谷の不動産屋さんが継続して紹介してくれるデータベースの仕事をコツコツとこなしながら、「さて、次はどう動くべきか」と自身の未来を模索していた。当時は発売されたばかりの『ファイナルファンタジーVIII』に熱中しており、美麗なグラフィックを眺めながら「ゲーム業界に進むのも面白そうだな」なんて夢想していたものだ。

そんな慌ただしい日々の最中、8月に入ると、高校時代の旧友である弓矢くん(仮名)が東京へ遊びにやってきた。……ところが、彼はそのまま私の部屋に居着いて(住みついて)しまったのだ。 彼は大の酒好きで女好き。夜な夜な街へ遊び出かけては、ナンパした女の子を壁の薄い我が家へ連れ込んでくるものだから、私は心底辟易していた。隣の扇風機の音が聞こえるほどの壁である。私のいびきも大迷惑だったろうが、彼の連れ込みも相当なものだった。

9月になり、さすがにこの実質「家賃全額私もち」のルームシェアにも限界が訪れた。私は弓矢くんと真剣に向き合い、「いい加減、寮付きの仕事を探して自立してくれ」と話し合った。しかし、口先ばかりで一向に動く気配がない。 しびれを切らした私は、以前新宿駅の近くで見かけたことのある派遣会社の事務所へ、彼を半ば強制的に連行した。

私はただの「付き添いの保護者」のつもりだったのだ。ところが、弓矢くんの手続きを待つ間、事務所の所長と何気ない雑談を交わしていると、私の経歴を見た所長が目を輝かせた。 「ねぇ君、まさにうってつけの案件があるんだけど、やらない?」

提示されたのは、私のITスキルを活かせる好条件の仕事。しかも、「自営のデータベースの仕事も並行して続けていい」という破格の免責付きだった。 人生、本当にどこで運命の歯車が回るか分からない。弓矢くんの尻を叩くはずが、全く意図しないめぐり合わせによって、私は彼と同じ工場で働くために栃木へと向かうことになったのだ。高円寺の部屋はいつでも帰れるようにキープしたまま、未知の土地、栃木への大移動。胸は不思議なワクワク感で満ちていた。

15畳のデザイナーズ空間と、20世紀最後の「我が世の春」

栃木へ到着すると、派遣会社の担当者が温かく出迎えてくれ、用意されたアパートへと案内された。 ドアを開けて驚いた。工場の近くに佇むその物件は、なんと15畳ほどもある広々としたリビングのワンルームで、目を見張るほどモダンでおしゃれなデザイナーズ空間だったのだ。ちなみに、弓矢くんとは適度に距離の離れた別物件を用意してもらえたため、ようやく静かなプライベートを取り戻すことができた。

工場での私の主な任務は、検査装置(治具)の保守業務だった。具体的には、検査プログラムの組み込みやソースコードの書き換えといった、専門性の高いエンジニア仕事だ。職場には優秀な外国人技術者たちも多く在籍しており、刺激的で実に見晴らしの良い職場だった。

ここから、私の超アグレッシブな二重生活が始まった。 月曜日から金曜日までは、栃木のハイテク工場でエンジニアとして働き、金曜の夜には高円寺の部屋へと戻る。土曜日は東京で不動産関連のデータベース仕事をこなし、日曜日は都内で全力で遊び倒して、深夜に栃木のベース基地へと帰還する――。文字通り、1週間を2倍の密度で生きているような、圧倒的な充実感の中に私はいた。

栃木での夜も華やかだった。高校時代ぶりにディスコ、いや、時代は「クラブ」へと変遷していた。当時は空前のレゲエブーム。フロアではアスワド(Aswad)の『Shine』がヘビーローテーションで流れており、心地よいリズムの波に私も一時期どっぷりと狂ったように嵌まった。

年末を迎える頃には地元の友人や仲間も大勢でき、まるで輝かしき大学時代へとタイムスリップしたかのようなお祭り騒ぎの日々だった。さらには素敵な彼女もでき、文字通り「我が世の春」を謳歌していた。怖いものなんて、この世に何一つない気がしていた。

コンピューターの「2000年問題」も世界的な大騒ぎをよそに何事もなくクリアし、いよいよ20世紀最後の年(2000年)が幕を開けた。

2000年の私は、前年後半の勢いをそのままキープした超安定ドライブ状態だった。栃木の給与と、東京での自営の売り上げを合算した月収は、実に70万円にまで達していた。3月の確定申告の際、弾き出された税金額を見て「ま、まじか……!」と目玉が飛び出るような瞬間はあったものの、それすらも心地よい大人の勲章のように思えた。

20世紀最後の年は、そうして何から何まで順風満帆に過ぎていった。私のこれまでの人生の中で、間違いなく「最高の1年」だった。 ……しかし今にして思えば、あれは、その後に訪れる地獄のような日々の前に、神様がくれた束の間の「嵐の前のプレゼント」だったのかもしれない。

1999年〜2000年の食性:腫れゆく身体と、崩壊の前兆

この2年間、私の食生活における自炊経験は、ただの一度もなかった(完全なるゼロ)。 朝から「すき家」に飛び込んでメガ盛りの牛丼を胃袋にかき込み、マクドナルドに寄れば「100円マック5個一気食い」を日常茶飯事のルーティンとしてこなした。 外国人の友人たちが多かったこともあり、深夜に宅配ピザを囲む確率も跳ね上がった。さらに、新天地の栃木には安くて美味い飲食店がゴロゴロあったため、毎日のようにハイカロリーな美食三昧を繰り返していたのだ。

気づけば、体重は軽々と90キロの大台を突破していた。 だが、それは健康的に肉がついたというレベルのシロモノではなかった。鏡に映る自分は、太っているというより、どこかドス黒く「腫れ上がっている」ような、異様に「浮腫(むく)んでいる」ような、見るからに不健康極まりない異様なフォルムをしていた。

現在の知識を持って当時の自分を振り返れば、そのあまりの愚かさと無知さに激しい辟易(へきえき)を禁じ得ない。身体はとっくに悲鳴を上げ、限界のサインを出し続けていたのだ。 しかし、当時の私は万能感に満たされており、自分の身体の崩壊にミリ単位も気づいていなかった。ただただ、毎日が楽しくて仕方がなかったのだ。

そして――2001年。 いよいよ、これまでの甘い蜜のツケを、血を吐くような苦しみとともに一括返済する「運命の日」が訪れることになる。

(⑫へつづく)

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