ショートショート もうひとりからの合図
チカッ チカッ チカッ
「お母さん、三回だよ!」
「オッケー!」
山の上に向けて、懐中電灯で返事を送る。
チカッ
「今週は、大丈夫そうだね」
そう言いながら、私は少しだけ胸の奥に引っかかりを感じていた。
毎週のことなのに、その違和感の理由は思い出せない。
この町に引っ越してきて、二年が過ぎようとしている。
手続きの時、18歳以上が使えるという大きな懐中電灯を渡された。
詳しい説明はあったはずなのに、ほとんど思い出せない。
ただ一つだけ、はっきり残っている言葉がある。
「自ら合図を送ることは、お控えください。」
その意味だけが、耳の奥に残り続けていた。
山の上に何があるのかは、誰も知らない。
隣のマダムに聞いても、「まあ、いいじゃない」と微笑んでいる。
「笑顔溢れる」がモットーのこの町は、出会う人たち、みんなが笑顔だ。そして、どこかぼんやりとしている。彼らの笑顔を見ると、山の上のことは、【知ったらいけない】気がしてくる。
もうひとつ、不思議なことがある。
この町は、たまに霧が出る。
霧が出る日は、町中の本が飛び回っている。
家にある本たちは、背表紙を広げ、一斉に窓から外に飛び出ていく。
もし伝書鳩を飼っていたら、こんな感じなのかなと毎回思う。
霧の中、本たちはぶつかることもなく自由に飛び回っている。
本が好きな娘は、その様子に初めは興奮していた。
「この町に、引っ越してきて良かったね!」
しかし、ここ最近どうも顔が暗い。
「お母さん、最近ぼんやりしていること多くない?」
「そう?疲れてるのかな」
娘は真顔で、私を見つめる。
「この前、ノンタンの本が帰って来なかったよね。」
「え?ノンタンの本ってウチにあった?」
娘は、ハッとして俯いた。
「あったんだよ。お母さん、やっぱり忘れちゃったんだね。ノンタンの本は、お母さんが毎晩読んでくれていたって言ってたよ。言葉の練習のために」
本棚から、絵本が減っていっているのは、気付いていた。
でも、何があったのか思い出せない。
「ごめんね、お母さん、忘れちゃったみたいだね。ノンタンのどんな本だった?」
「ううん、もういい。
お母さん、わたしの本はだいぶ減ったんだよ。」
娘は、泣きそうな顔をしながら薄く笑った。
そして、自分の部屋に入っていった。
いつの間に、あんな表情をするようになったのだろう。
ついこの間まで、雲切りハサミの話で喜んでいたのに。
「肩が痛いなー。誰か、トントンしてくんないかなー」
娘に聞こえるように言ったが、返事はなかった。
ふと、本棚の右上をみた。
私の本のスペースだ。
引っ越しの時に、随分と本を減らした。
あれ?私の本も何冊か減っている?隙間がある。
どの本が帰ってこなかったのだろう。
澁澤龍彦の本はある。
吉本ばななは何冊か減っている。
あ、“キッチン”がないな。
“キッチン”は去年飛んでいって帰ってこなかった。庭に飛び出した瞬間に、捕まえようとして失敗したんだった。あの時は、おでこを角で殴られた。
痛かったな、あれ。
…痛かった?
この事は、なんで覚えているんだろう。
娘の絵本のことは、思い出せないのに。
頭の中に何かがあったはずなのに、
答えを探しにいくけど、何も見つからない。
ぼんやりと、本棚の隙間を見続けた。
次の日曜日、いつものように娘と庭に出る。
チカッ チカッ チカッ チカッ チカッ
うわっ、五回光った。久しぶりの霧がくる。
私も、チカッと一回点灯させ返事をした。
「霧がくるね。また本たちが飛んで行くね」
娘は、ずっと黙っている。
「どうしたの?」
俯いたまま、ポロポロと泣き出した。
「霧がくると、お母さんが忘れちゃう。
わたしとの思い出が、どんどんと減ってしまう」
ひっくひっくと泣く娘に、かける言葉を探す。
頭の中の思い出を探し出そうとする。
娘が泣いているときに、かけていた言葉。
なんか、絵本のフレーズだった気がする。
ああ、思い出せない。
「ごめん、娘ちゃん。
お母さん、いつの間にか随分と忘れちゃってる」
娘を抱きしめる。
まだ、こんなに小さい身体だったんだ。
娘の頭に、頬を寄せる。
小さい頃から使っているシャンプーの香り。
この前見た表情が、すごく大人っぽくて、私は
勘違いしていた。
「お母さん、”パンぼうや”も帰って来なかったんだよ。あの本を読んで、一緒にいっぱい笑ったんだよ。一緒にパンを焼いたんだよ」
本棚の隙間を思い出す。
霧が出るたびに、増えていく隙間。
見て見ぬフリをしていた。
どうして、この町の大人が笑顔で過ごせているのか気付いたような気がした。
「娘ちゃん、お母さんね、
娘ちゃんが大切過ぎて、怖いんだよ。」
娘を包むように抱きしめたまま、
真っ暗な山の上を見た。
「怖さに向き合いたくなくて、手放していたみたい」
大人って、強いんだか、弱いのだか。
「娘ちゃん、もうここには住めなくなるかも」
娘が顔を上げる。
濡れた頬を、私の袖で拭く。
「大丈夫だよ。
お母さんと一緒なら、どこでも大丈夫」
懐中電灯を握りなおした。
送ったらいけない合図。
チカッ チカッ チカッ チカッ チカッ
五回点灯させた。
真っ暗な山の上に、ポツンポツンとあかりが灯り始めた。
複数のあかりは、ふわりふわりとひとつに集まっていく。
あかりは、ひとつの大きな塊となり、山の上で旋回したと思ったら、流れ星のように我が家に降ってきた。
「わぁ、お母さん、こっちに来たよ!」
娘の表情は、光に反射してキラキラしていた。
幼い頃の表情となにも変わらなかった。
視線を山の上に移すと、
ぼんやりとした光が、幾つかふわりふわりと漂っている。
胸がチクンとした。
そっか。そこにいたのか。
「お母さん?」
ううん。
目を閉じ、思いきり息を吸って、夜の空気を身体に入れた。
ただ…ま..。
おかえり…。
胸の奥で、ふたつの声が響き合っていた。
