ショートショート ねこんぶ
「お母さん、この猫ね、私の話している言葉が分かるの」
娘が、野良猫と一緒に帰ってきた。
グレーと白が混じった毛で、賢そうな顔をしている。
「そうだろうねぇ。良い顔している。
こんにちは、ねこんぶ」
猫は顔を背ける。
ねこんぶという名前はダメなのか。
「お母さん、この子の名前はアクアだよ」
それ、推しの子やな。
今ドはまりしているから、すぐその名前を使う。ちょっと気恥ずかしくて言えない。お母さんは、アクアとは呼べない。
「こんにちは。
いつも娘ちゃんと遊んでくれて、ありがとう」
猫は、じっと私の顔を見る。
にゃあと言って、どこかに行った。
「なんで、一緒に帰ってきたの?」
「知らない。ついてきたの」
その日以来、毎日娘と一緒に帰ってくるようになった。
でも、私がこんにちはと声をかけ、三秒ほど目を合わせると、すぐどこかにいなくなる。
これは、猫のお知らせではないのか?
なんだか落ち着かない。
良い知らせ?悪い知らせ?それとも……宝くじ?
*
その日は、様子が違っていた。
娘と一緒に帰ってきたねこんぶが、私と目を合わせない。そして、その場から動こうとしない。
とうとう、その日が来たのか。
ねこんぶは、私と目を合わせないまま歩き出した。チラッとこちらを振り返る。
私も覚悟を決めてついていく。
「娘ちゃん、お母さん、行くよ」
「え?行くってどこに?私も行くよ」
「いや、それはダメだよ。危険な場所かもしれない。お母さんだけで行く。ごめん」
「いやだよ、お母さん。私も一緒に行くよ」
二人でドラマチックな会話をしていると、ねこんぶが短くニャッと鳴いた。
「はいはい、今行きますよ……」
娘と手を繋いで、後ろを歩く。
草がぼうぼうと生えていて、風に揺られている。
「緑は目に良いわよねぇ」と思っていたら、
次第に色が変わっていき、緑から赤に、赤から黄色に、色がぐるぐる回り始めた。
「娘ちゃん、草が、草が……面倒な色になってる!」
「お母さん、この草、目が痛くなる」
「うるさーーーい!」
ねこんぶが突然大きな声を出した。
「お母さん、アクアが喋った!」
「え?ちょっと待って。お母さん、頭の中がパニック。ねこんぶの声が想像と違い過ぎる!」
「うるさーーーい!」
ねこんぶの声さ、モザイクがかかっている人の声じゃん?
ちょっと、不気味なんだけど。
お母さん、そこが怖いのだけど。
心の中で叫ぶ。
でも、また怒られるから黙る。
「あのな、どうして、ついてきてもらったか分かる?」
ねこんぶは、真っ直ぐに私を見る。
私も見つめ返す。
「どうして、それが正解だと思う?」
ねこんぶが、静かに言った。
その瞬間、
カラフルな草から色が消えた。
音が消えた。地面が無くなった。
世界は真っ白になった。
全ての境界線がなくなり、現在地が分からなくなる。
娘の手をしっかりと握る。
心臓の音がうるさい。
手を握る以外、動くことが出来ない。
呼吸のタイミングが分からない。
ねこんぶが、ニャッと短く鳴く。
一気に力が抜ける。
世界に色が戻り、音が戻り、自分が戻った。
私は、その場にへたりこんだ。
鼻で空気を吸って出す。
何度も何度も。
「じゃ、そういうことだから。またね」
そう言い残して、ねこんぶは去っていった。
私は、ドキドキしていた。
世界が無くなるって、やばいな。
おえー。吐きそう。
境界線がないって、自分がいなくなるのね。
「娘ちゃん、大丈夫だった?」
「え?なにが?」
あー、そうなの。お母さんだけなの?
「お母さん、なんでそこに座ってるの?
アクアについて行かなくていいの?」
そうだな。
ちょっと、今、動けません。
もう、ついて行かなくていいです。
心臓に悪いわ。
「お母さん、アクアと何か話していたの?」
ん?話す、というか、聞かれた?教えられた?
ねこんぶの瞳に耐えることが出来るかを、確認された。うん。これだ。
「娘ちゃん、そのまま、真っ直ぐに大きくなりなよ、って言っていたよ」
「ふーん。よく分からない」
だよねぇ。まだ分からなくて大丈夫だよ。
お母さんも、よく分からない。
分かっているつもりが、一番怖いみたい。
娘と手を繋いで帰る。
緑の草の香りを感じる。
風はソヨソヨと優しく身体に触れてくる。
ああ、色がある。匂いがある。音がある。
良いねぇ。
「お母さん、今日の月、すっごく大きいよ」
もう、月が出てるの?そんな時間?
ご飯作らなきゃ。大人は忙しいのだよ。
そっか、ねこんぶ。
とりあえず、今は世界を受け入れろ、かな?
知らんけどね。
