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第一志望の大学へ行けなかった私に、教授が教えてくれたこと

私は大学を退学している。

19歳で病気になり通学できなくなったのだ。それでも29歳の時に同じ大学へ復学するくらいその学校に思い入れがあるのだが、受験を控えた高校3年生の私は違っていた。

好きというより大嫌いだった。

私には別に行きたい大学があった。
そのために予備校の夏期講習へ通い、夜遅くまで過去問を解き、オープンキャンパスにも足を運んだ。あとは受験まで走り抜けるぞと気合いを入れる私の前に、母が立ちはだかった。

「あなたは指定校推薦で大学へいきなさい」

指定校推薦は学校推薦型選抜のひとつだ。
大学と高校のあいだの信頼関係に基づいて行われる試験なので、合格率はほぼ100%といわれている。

私は小さいころから扁桃腺が弱く、おまけにひどい喘息を患っていた。
体育のマラソンはいつもドクターストップがかかり見学していた。
冬の時期を元気に過ごせた記憶がない。
高校受験もぎりぎりのところでなんとか受けられたようなものだ。

そんな私を見ていた母は、もう二度とあんな思いをさせたくないと、指定校推薦で大学へいくよう私に指示してきたのである。
実際のところ予備校のお金も惜しかったのだろう。

しかし、指定校推薦枠に私の志望する大学はなかった。
おまけに、受験で頑張ればいいやと高をくくっていたので、私の内申点はお世辞にも高いとは言えない。誰かが滑り止めで受けるような大学しか選べなかった。

それは絶対に嫌だ。

あと半年必死で頑張るから、受験をさせてほしい。私は土下座に近いかたちで母へ懇願した。

しかし、母が首を縦に振ることはなかった。

大学にはいきたかったので、指定校推薦で、とある大学に入学を決めた。
名前は知っていた。クラスメイトが、その大学へいくくらいなら浪人すると大きな声で話していたから。

受験をして第一志望の大学に落ちれば、諦めがついたかもしれない。
しかし、挑戦さえもさせてもらえたかったことが、私の後ろ髪を長くしていた。

入学式に出るスーツは適当な量販店で買った。式に向かう途中でストッキングが伝線したが、そのままにした。
どうせ第一志望の大学じゃないしという思いが、私を投げやりにさせていた。

登校初日は入学ガイダンスが行われた。
面倒くさいなと思いながら大教室へ向かう。

まず初めに学部長の挨拶が始まった。
どうせつまらない話しかしないのだから、早く終わることを祈った。

学部長はマイクをとり、開口一番に「入学おめでとう」と言った。

もうそういうのいいって。白ける空気が流れる中、学部長はこう続けた。

入学おめでとう。

「そう言いたいところだけれど、果たしてこの中に、この大学が第一志望だった人は何人いるんだろうか」 

意外な言葉が降ってきて、さっきまで隣の子とお喋りしていたあの子も、退屈そうな顔をしていたあの子も、行けなかった大学のことを考えていた私も、一斉に顔を上げた。

会場が静まり返る中、学部長が続ける。

「恐らくこの大学に第一志望で来た人はそんなにいないだろう。多くの人が受験に落ちて仕方なくここにいるか、なんらかの理由でここにくるしかなかったのだと思う」

自分のことだと思った。

「でも、そのことを理由に大学4年間を無駄にするのはやめなさい。ふてくされるのは今日で終わりにしなさい。バイトやサークルもいいけれど、しっかり勉強をして、卒業するときは顔をあげて卒業しなさい。僕はそのとき初めて、みなさんにおめでとう、と心から言いたいと思う」

誰だ、あの人は。捨てようと思っていたパンフレットを広げ、名前を確認した。私の大学生活にようやく光がさした気がした。

大学2年生になり、ゼミに入ることになった。私は迷うことはなく、あの学部長のゼミを志願した。
名前を書くだけで入れるゼミはたくさんあったが、そのゼミは小論文と面接があった。
倍率が高く、入れるかは分からなかったが、あの教授と話してみたいという気持ちのほうが勝った。

面接は集団面接だった。
このゼミを志願した理由を聞かれ、ある一人の学生が喋り出した。

その子は偏差値の高い高校を出ていた。
周りが有名な大学へ行く中、受験に失敗し、浪人することになった。
しかし2回目の受験も失敗し、この大学へくることになったのだが、そんな自分をずっと許せずにいた。しかし、入学ガイダンスの時に先生の言葉を聞いて、少しずつ前を向けるようになったと。

やっぱり、私だけではなかったんだ。

想いが届き、彼女と私は先生のゼミへ入ることができた。

そのゼミは厳しいことで有名だった。
課題の本を読んでレジュメを作り、みんなで討論するのだが、ちょっとでも手を抜くと先生から容赦なく指摘が入った。

しかし、先生が一番嫌がったのは、当たり障りのない発言をすることだった。

人と同じことを言うな。よく考えろ。自分の言葉で話せ。

100人以上集まる入学ガイダンスで「おめでとう」と言わなかった先生の言葉には説得力があった。

自分の言葉で表現することの楽しさに、そして難しさに、私はどんどん魅了されていった。
しかし、そんな矢先、私は免疫異常の病気になり、2年間休学したのち大学を退学した。
3年生になることは叶わなかった。

どこでも勉強はできると、先生がパソコンをプレゼントしてくれた。ゼミ生のみんなもお金を出してくれたという。

あんなにいきたくなかった大学が、いつしか私の母校になっていた。
愛すべき母校。

元気になったら絶対にここへ戻ってやる。

その言葉通り、私は29歳の時に同じ大学へ復学した。
3年生からやり直すことを許されたのだ。
幸運なことに、先生はまだ在籍していた。
厳しさは相変わらずだったが、懐かしさと、嬉しさで、再びゼミの門をたたいた。

2回目の学生生活は仕事をしながらだったので、休む回数も多く、単位が取れずに留年をした。

また卒業できないかもしれない。

気を抜いたら振り落とされそうだったのでしがみついた。
図書館で仮眠したり、教室でたまたま隣に座った人にノートを見せてもらったり、嫌な顔されたり、そりゃそうだと思ったり、授業のあとに教授へ質問しにいったり、レポートをこまめに出したりして、なんとか卒業をもぎ取った。

私が卒業したのは9月だったので、3月の卒業式に出ることはできなかった。

学位記は事務の窓口でもらった。
袴も桜もない、実にあっさりとしたものだった。

でも、十分だった。

卒業が決まって報告へ行ったとき、先生が自動販売機で缶コーヒーを買ってくれた。それを片手に昔の話をしていたら、レジュメを初めて作ったときのことを思い出した。

いつもは口達者な先輩たちに圧倒され、ゼミ中は頷くのがやっとだったので、レジュメであっと言わせたい気持ちと、あっと言わせられるだろうかという不安で落ち着かなかった。
先輩たちのように縦横無尽に議論が発展するレジュメを書きたいと意気込んだものの、想いが空回りするばかりで完成したものは散々だった。これではダメだ。ゼミ生に意見を求めたり、ゼミが始まるギリギリまで推敲した。

私の発表が終わるとゼミ室がシーンとした。
ああ、ダメだったんだと肩を落とした瞬間、先生が「やれば出来るじゃないか」と頷いた。この言葉で生きていける。そう思った。

それを10年越しに先生へ伝えたら、大げさだなと笑っていた。
祝杯の缶コーヒーはとっくに飲み終わっていたが、この時間を終わらせたくなくて、いつまでもコーヒーが残っているふりをした。

翌年、先生が大学を定年退職したので、ゼミのみんなとパーティーを開いた。
そこで一人の子が「先生、毎日暇じゃないですか?何しているんですか?」と聞いた。
先生はすかさず「そうやってみんなが聞くような詰まらない質問をするんじゃないよ」と、突っ込んだ。

人と同じことを話すな。
よく考えろ。
自分の言葉で話せ。

noteを書くたびに、先生の言葉が聞こえてきて、私は背筋を伸ばす。





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