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世界に初めて生まれた私というものの新しさ。

世界に初めて生まれた私というものの新しさ、それは事実としてあるはずだ。たかだか八十億分の一の何の才能も持ち合わせていないような存在であったとしても、永遠に続くかのようにある世界において、今まであったことは一度もなく、史上初として今ここにある事実はなんら揺らがない。

でも、その新しさはきっと他からすれば所詮は既存の枠組みの中での新しさでしかない。人口の統計に+1されるだけの、類型化可能なとるに足らないものだ。これも事実である。

そもそも人にとっての新しさは、必ずどこか古びてないといけない。認識の構造がそうなっているから。新しい色、新しいファッション、新しい考え方、新しい生き物のように既にある種類の中での新しさしか、人は認識できないのだ。全く新しい何か。分類すらできない「  」があったとしても、人にはそれを新しいと理解する力がない。一つの枠組みの中で、もうある他のものと比べられて初めて、その新しさを認識し頭でも理解できるようになるのである。

けれども、これは認識の限界がそうであるというだけの話だ。確かに人はそうしてしか、何かの新しさを認めることができない。でもそれと、そのもの自体の新しさがどうあるのかは偏に別の話だ。

私は、自分は決して何にも分類できない全く新しい「  」であると思う。少なくとも自分の何もかもを既存の枠組みにバラシて入れるだけでは、余るものがあると、そう強く感じている。何の種類とも言えない、どこに入れてもしっくりこないような、まだこの世界で形ある言葉になったことのない部分がずっと、ここに残り続けている。

だから、書いて書いて書きまくっているのに、一向に終わりはやってこない。言葉は全て借り物だ。自分がつくったわけじゃない。どれも遥か昔からあったものばかり。この世にある言葉で自分を語ること自体が、その真っ新なものを古びた枠組みに押し込めてしまう。ピッタリ表すことのできる言葉は決して存在しない。

自分にできることはただ、既存の言葉の新しい組み合わせをひたすらに試していくしかないのだろう。自分だけにしか通じない言葉を新たに作ったところで仕方がない。結局その説明のためには、また今ある言葉を借りないといけなくなるのだから。とにかく、引き続き書いて書いて書きまくるしかない。もはや、死ぬまで書いてもしっくりこなかったというそれだけが、この新しさを証明してくれるように思う。世界で初めてここにある事実を、せめて自分だけでもなかったことにはしたくない。

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