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高峰譲吉(1854-1922)リン鉱石10tを自腹で持ち帰り、化学で日本の産業を動かした天才【第28回 農業維新! レジェンドたちが未来に遺した言葉】 著者:竹下大学


左:高峰譲吉(パブリックドメイン)
右:少年時代の譲吉、従者と大阪にて(高峰譲吉博士顕彰会蔵:高岡市立博物館提供)

化学肥料と医薬品。まったく異なるように見えるこの二つの産業の源流に、一人の男が立っている。日本が世界に誇る技術革新型起業家、高峰譲吉だ。

麹菌から得た消化酵素をもとにした「タカヂアスターゼ」と、副腎から生理活性物質を精製・結晶化した「アドレナリン」は、現在の第一三共へ。化学肥料の事業は東京人造肥料会社から発展し、現在の日産化学(サンアグロ)へ。日本の医薬品化学と農芸化学、その両方の礎が一人の人物によって築かれていた。

高峰譲吉は発明家として非凡だっただけではない。化学を産業に変え、制度に結びつけ、資本を動かし、社会に実装する力。そして彼の起業家としての第一歩は、農業の生産性向上という難題に挑むことから始まっていた。


イギリスで「農業を変える鍵」をつかんだ

高峰譲吉は1854年(嘉永7)、越中国高岡御馬出町(現 富山県高岡市御馬出町)で長男として生を受けました。高峰家は代々医者を務める家柄。父精一は加賀藩に仕えた医師でありながら火薬製造責任者も兼任していました。母幸子は裕福な造り酒屋の長女です。医学、化学、醸造、実業――後年の仕事につながる要素に、譲吉は生まれた時から囲まれ、経済的にも恵まれていたのでした。

譲吉は7歳で藩校・明倫堂に入り、1865年(慶応元)、11歳で長崎留学生に選ばれます。長崎で身につけた英語は、世界の最先端技術に直接アクセスするための手段でした。緒方洪庵が開いた適塾や大阪医学校でも学んだ後、譲吉は1873年(明治6)、工部省官費修技生となって工部寮(現 東京大学工学部)へ進み、応用化学科を1879年に首席で卒業しています。

1880年(明治13)、政府派遣留学生としてイギリスへ渡った譲吉が学んだのは、グラスゴー大学とアンダーソン大学でした。ここで掲げられていたのは「半労半学」という教育理念。昼は工場で実際に手を動かして技術を身につけ、夜は教室でその理論的な裏付けを学ぶという方式です。学問と現場の一体化。この指導法は、譲吉にとって初めてのものではありませんでした。6年間学んだ工部寮そのものが、自らがグラスゴーで半労半学を経験した、お雇い外国人教師ヘンリー・ダイアーの構想でつくられた学校だったからです。

学問は現場のためにある。現場を経ない学問には価値がない。
これは、譲吉のその後のすべての行動規範になっていきます。

イギリスで譲吉が強く引きつけられたのが、過リン酸石灰でした。これはリン鉱石を硫酸で処理することで、水溶性リン酸を主成分に変えた化学肥料です。

当時の日本農業は、下肥、干鰯、油粕などに支えられていましたが、その肥効は不十分でした。限られた耕地からの収量増は、富国強兵を進める明治政府にとって切実な命題だったのです。

農作物に必要な成分を科学的に把握し、過不足なく補う。それができれば、農業の生産性は根本から変わる。日本を救う鍵は化学肥料にある。譲吉はグラスゴーでこう確信したのでしょう。

自費でリン鉱石など10tを買い付けた理由

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