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多田元吉(1829-1896) ヒマラヤへの命がけの調査が日本の茶産業を変えた【第25回 農業維新! レジェンドたちが未来に遺した言葉】 著者:竹下大学


左:多田元吉肖像(出典:静岡県発行『こどもお茶小辞典』より転載、原典:多田元吉翁顕彰会)、右:多田元吉翁顕彰碑(出典:静岡市ホームページ)

清国から戻って53日目、47歳の旧幕臣は再び旅立った。行き先は、まだ日本人が誰も踏み入れたことのないインドヒマラヤ山麓の茶産地。国産茶の命運を背負わされて。

明治初期、茶は生糸に次ぐ日本最重要の輸出品であった。しかし、欧米で巨大な需要を誇る紅茶について、日本は何も知らないに等しかった。そこで政府が白羽の矢を立てたのが、静岡で茶づくりに取り組んでいた多田元吉だ。

元吉は現地で何を見て何を思い、何を持ち帰ったのか。富国強兵を支えた殖産興業、現代の世界的なお茶ブームにもつながる、近代日本茶業の転換点をたどってみよう。


帰農した旧幕臣に託された、国内茶産業の命運

多田元吉は1829年(文政12)、上総国富津村(現千葉県富津市)で網元を務める下級武士多田東八の次男として生まれました。長男は元吉が生まれた年に亡くなっています。その後、元吉の名前が歴史に登場するのは1860年(万延元)、神奈川奉行の下級役人としてでした。

1858年(安政5)の日米修好通商条約でまずアメリカと、翌年にはオランダ、ロシア、イギリス、フランスの順に締結され、外国との貿易が開始されました。開国直後の日本からの輸出品目第1位は生糸。続いて茶でした。

1867年(慶応3)の大政奉還、王政復古の大号令、翌年の江戸城無血開城。徳川宗家は新政府に命じられて、駿河・遠江・三河70万石の領主に下げられました。このとき元吉は、徳川家臣団のひとりとして、単身で静岡に移住しています。そして多くの没落士族と同じように、40歳でやむを得ず帰農の道を選んだのでした。

1869年(明治2)、元吉は安倍川の右岸、丸子の山林を切り拓き茶畑を作り始めます。そして規模拡大を図り、同時に製茶技術も身につけていったのです。家族も呼ばずひとり粉骨砕身した6年間。元吉の茶畑は50町歩に達し、帰農した茶農家としては異例の成功者となっていました。

内務卿の大久保利通は、農業を基盤にして商工業を発展させる方針を掲げ、殖産興業を担う勧業寮には1874年(明治7)に製茶掛が設けられました。同時に国産紅茶製造プロジェクトが立ち上がり、茶産業の先進国であり輸出事業に成功した清国への官員派遣が決定します。目的は、現地の動向調査だけではありません。日本の技術水準がどこまで通用するのかを見極めることでもありました。

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