【DAY5】人間関係が限界なとき、できることはふたつしかない
ベシャメルソースを作っていると、鍋は焦げる寸前に、必ずサインを出す。
ふちのプツプツとした泡が、黄色からうっすら茶褐色を帯びる。 小麦粉を炒める、ビスケットのような甘い香りに、ツンとした苦味の気配が混じる。 ふつふつという音が、チリチリという乾いた音に変わる。
どれかひとつでも出たら、もう迷っている暇はない。どんなに丁寧に下ごしらえをしても、手遅れになる瞬間は来る。その一瞬でできることは、ふたつだけだ。
そして人間関係でも、限界の局面でできることは、ふたつしかない。
限界なのに、火の前に立ち続けてしまう
人間関係で行き詰まったとき、多くの人はまず、我慢を選択肢に入れる。
自分がもっと耐えればいい。相手の求める温度に合わせ続ければ、関係は壊れずに済む。そうやって、必死に熱さに耐えようとする。
強火で一気に煮詰めすぎた日。 ずっと沸騰しっぱなしで、頭の中が休まらない日。 とろ火で延々と、身動きが取れなくなった日。 そうした日々のなかでも、ただ火の前に立ち続けてきた。
でも、水分のなくなった鍋を見つめ続けても、焦げが深まるだけ。 料理なら、誰も我慢して鍋を見つめ続けたりはしない。熱い鍋を素手で持ち上げるような無茶もしない。布巾を使ってでも、必ず何かしらの手を打つ。我慢という工程は、調理には存在しない。 そして、火力の見方を覚えても、見ているだけでは鍋は守れない。 人間関係でも、同じはずだ。
できることはふたつ。鍋をずらすか、火を止めるか
焦げる寸前の鍋にできることは、ふたつしかない。
鍋をずらすか。火を止めるか。
鍋をずらすとは、五徳の上で横へスライドさせ、火が直接当たらない場所へ移すこと。コンロから下ろすわけではない。余熱だけが届く位置に、置いておく。つながりは残したまま、受ける熱だけを変える行動。 火を止めるとは、コンロのダイヤルを回して、熱源そのものを断つこと。その火から離れる行動。
どちらが正しい、という話ではない。そのときの鍋の熱さ、残っている水分、自分の残り体力。それによって、打つ手が違うだけ。
このつながりは残したい。あるいは、残すしかない。そう思うなら、鍋をずらす。 もう、関わりごとこの場から離れたい。そう感じているなら、火を止める。
ここから先は、いまの自分に近いほうへ進んでほしい。
鍋をずらしたい人へ
鍋をずらす。それは、つながりを残したまま、受ける熱を変える選択。
職場の最低限の付き合いは、明日も続く。 完全に離れることはできない。でも、これ以上は歩み寄りたくない。 切りたいわけじゃない。ただ、焦げたくないだけ。
そう思うなら、見るべきは火との距離だ。 鍋を五徳の端へ、そっと逃がす。火が当たらなくなれば、泡立ちは静かになっていく。でも、鍋はまだ温かい。 火から離しても、すぐには冷めない。それが、ずらすという選択の良さだ。 では人間関係では、どこまでずらせば焦げずに済むのか。
焦げない距離の取り方を知りたい人は、こちらへ。
火を止めたい人へ
火を止める。それは、鍋をずらしても焦げ続けてしまう、と感じるときの選択。
距離を置いてみても、張りつめたままで息が抜けない。 朝、職場へ向かう足が、日ごとに重くなっていく。 この場所にいる限り、すり減り続ける気がする。
そう感じるなら、ずらすだけでは足りないのかもしれない。 カチッとダイヤルを回せば、熱源は断たれる。荒れていた鍋肌は、ゆっくりと静けさを取り戻していく。 ただ、それは大きな判断だ。勢いで回すダイヤルではない。眠れない日が続くなど、心身のサインが強く出ているなら、判断より先に休んでほしい。誰かを頼るのも、火を扱う技術のうちだ。 そのうえで。我慢でも、見切り発車でもなく。火を止める前に、何を考えておけばいいのか。
それを確かめたい人は、こちらへ。
ずらすことも、火を止めることも、逃げではない。鍋を焦がさないための、ごく普通の調理の判断。 料理を続けるために、料理人は毎日、そうやって火と付き合っている。
まずは3秒、直感で選んでほしい。先に読むのは、鍋をずらす話か、火を止める話か。
焦げる前に手を打つ。それも、料理の腕のうちだ。
次は、落とし蓋で火の通る範囲を決める話。
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