第5話【法人乗っ取り】静かなる予兆
第5話【法人乗っ取り】
「お金があったことは幸運でした。しかし、それだけでは社会福祉法人は設立できません。」
私は率直にそう申し上げました。
設立趣意書、定款、各種規則、運営規程、事業計画。
それらを一つひとつ整え、県の福祉課と何度も事前協議を重ね、ようやく設立認可にたどり着く。
そのご苦労には、本当に敬意を表します。
「よく、ここまでできましたね。」
理事長は少し照れたように笑いました。
「私は社会科の教員でしたから、文章を書くことは苦ではなかったんです。」
そして、少し遠くを見るような目になりました。
「すべては息子のためでした。この子の下には娘もいます。私が先に逝ったあと、娘に大きな負担を背負わせたくない。その一心でした。」
その言葉に迷いはありませんでした。
当時は今のように、アパートを借り上げるグループホームなど多様な選択肢はありません。
入所施設といえば、大きな寮のような施設が多く、自宅からも遠い場所ばかりでした。
「近くに入所施設を造るのは現実的ではありませんでした。だから、まずは通所施設から始めようと思ったんです。」
「当時は両親もまだ現役で農業をしていました。農業と福祉をうまく結びつければ、働く場もできるのではないかと考えました。」
「なるほど。」
私は思わずうなずきました。
「農業と就労支援ですか。一石二鳥ですね。」
理事長は静かに微笑みました。
「ところで、サービス管理責任者や職員さんは、どうやって集められたのですか。」
「大学時代の友人が障害福祉の仕事をしていました。彼女がいなかったら、この法人はできていません。」
「その方の紹介で職員も?」
「ええ。そのご縁で少しずつ集まってくれました。」
「それは運が良かったですね。」
「運というより、二人三脚でした。」
私はさらに尋ねました。
「理事や評議員は、どのようにお願いされたのですか。」
「その友人にも理事になってもらい、父兄会の方々、地域の福祉施設の方々にもお願いしました。」
私は深くうなずきました。
設立時としては、極めて自然で堅実な人選です。
地域の信頼を集め、一つひとつ積み上げてきたことが伝わってきました。
だからこそ、不思議だったのです。
――なぜ、この法人が後に「乗っ取り」とまで言われる事態に陥ったのか。
理事長のお話を聞けば聞くほど、その疑問は大きくなっていきました。
私は監査の仕事を長くしてきました。
組織というものは、善意だけでは守れません。
どれほど人格者が集まっていても、どれほど立派な理念を掲げていても、それだけでは十分ではないのです。
その言葉が喉元まで出かかりました。
しかし、その時は飲み込みました。
まだ、この法人で本当に起きたことを、私は何も知らなかったのです。
