【第二のおはなし】 サッカーボールと少年
インド洋に浮かぶ島、マダガスカル。
その北の端に、ノシベという島がある。
エメラルドグリーンの海、白い砂浜、ゆっくりと流れる時間。
フランス人やイタリア人が「地上の楽園」と呼ぶリゾートの島だ。
マディロークリーの海岸沿いに、白い壁のヴィラが建っている。
二階のバルコニーからは、どこまでも続く海が見えた。
老人は毎日そこにいた。
デッキチェアに深く腰を沈め、静かに海を眺める。
それが、ジャン=ピエールの一日のすべてだった。
フランス生まれのこの老人は、長い人生の終わりをこの島で過ごすために、海の見えるヴィラを買った。
メイドのマリーと、運転手のジョゼフが一緒に暮らしている。
体はもう若くない。遠くへ出かける気力もない。
でも、このバルコニーからの眺めがあれば、それでよかった。
その日も、老人はいつものようにバルコニーにいた。
砂浜に、三人の子供たちがいた。
小学生くらいだろうか。
二本の棒切れをゴールに見立てて、PKの蹴り合いをしている。
ボールは、布切れをぐるぐると巻いて作った、手作りのものだった。
老人はそれを見て、少し口元をほころばせた。
懐かしい。
自分も昔、あんなボールを蹴っていた。
フランスの、貧しい街の路地で。
三人の中に、ひときわ目を引く子がいた。
細い体に、大きな目。
ボールを蹴る瞬間、重心の移し方が違った。
軸がぶれない。踏み込みが速い。
この子は、何かを持っている。
老人は身を乗り出して見つめた。
そのとき、砂浜に影が差した。
中学生くらいの男の子たちが、十人ほどやってきた。
「おい、どけ。ここは俺たちの場所だ」
リーダー格の少年が怒鳴りつけた。
この海岸では誰もが知っている、乱暴者だった。
怯えた二人はすぐに後ずさった。
でも、一人だけ動かなかった。
さっき老人が目をつけた、あの少年だ。
「僕たちが先に使ってた!」
声は震えていた。
でも、足は動かなかった。
リーダー格はせせら笑って、少年の足元のボールをひょいと奪った。
仲間たちに蹴り回す。
「悔しかったら取ってみろよ!」
少年は走った。
必死に、ボールを追いかけた。
何度も何度も、転んでも立ち上がって、また走った。
バルコニーで老人は立ち上がっていた。
手すりを、強く握りしめていた。
リーダー格は最後に、ボールを思い切り蹴り上げた。
手作りのボールは高く舞い上がり、
海の上で、ばらばらになった。
布切れが、波間に散っていった。
少年は、その場に崩れ落ちた。
声も出なかった。
ただ、砂の上にうずくまって、泣いた。
お母さんが作ってくれたボールだった。
お母さんはホテルのメイドとして働いている。
朝早くから夜遅くまで。
二人きりの暮らしを支えるために。
サッカーボールを買うお金なんてなかった。
だからお母さんは仕事の合間に、布切れを集めて、一針一針縫い合わせてくれた。
そのボールが、海に消えた。
老人はバルコニーを離れた。
足が痛くても、構わなかった。
階段を降りて、砂浜へ出た。
砂の上にうずくまる少年のそばに膝をついて、そっと肩を抱いた。
少年は顔を上げた。
見知らぬ白人の老人が、目に涙を浮かべて自分を見ていた。
怖かった。
でも、その目がやさしかった。
「家においで」
老人はそれだけ言った。
少年は、その目を信じた。
ヴィラの居間に通された少年は、目を丸くした。
棚にトロフィーが並んでいた。
金色のメダルが、いくつも。
古びた写真が、壁に飾られていた。
フランス代表のユニフォームを着た選手たちの集合写真。
そしてもう一枚。
マダガスカルサッカーの歴史を変えた、あの選手と、若い頃の老人が肩を並べている写真。
少年は震える手で、その写真を指差した。
「おじいちゃん、あなたは…」
老人は首を振って、笑った。
「ただのサッカー好きの老人だよ」
メイドのマリーが、オレンジソーダを持ってきてくれた。
冷たいグラスを両手で包みながら、少年は老人を見た。
「さっきの君の動き、素晴らしかった」
老人は続けた。
「ボールは残念だったね。…ところで、サッカーは好きかい?」
少年は即答した。
「大好きです!将来はワールドカップのマダガスカル代表になるんだ!」
老人は少し目を細めた。
そして携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。
フランス語で、短く、何かを話した。
電話を切ると、老人は少年に向き直った。
「明日の夕方、五時にまたここへおいで」
そして立ち上がり、棚の奥から一つのサッカーボールを持ってきた。
古い、本革のボール。
表面には、びっしりとサインが書かれていた。
老人にとっては、たくさんあるサインボールのうちの一つだった。
でも少年には、世界中のどんな宝物よりも、価値があるものに見えた。
「持っていきなさい」
少年はそのボールを、両腕でしっかりと抱きしめた。
翌日から、少年の人生は変わった。
老人が電話をかけた相手は、マダガスカルで最も優秀なサッカーアカデミーのコーチだった。
少年はそのアカデミーへ入った。
練習は厳しかった。
何度も挫けそうになった。
それでも、あのボールを抱きしめるたびに、また走れた。
それから十五年が経った。
ワールドカップ・アフリカ予選。
スタジアムに、マダガスカルの国旗が揺れていた。
ピッチの中央に、一人のミッドフィルダーが立っていた。
細い体に、大きな目。
ボールを受ける瞬間、重心の移し方が違う。
軸がぶれない。踏み込みが速い。
スタンドの一角に、白髪の老人がいた。
車椅子に座って、目を細めてピッチを見つめていた。
試合前、少年は——いや、もう少年ではない——選手は老人のそばへやってきた。
「おじいちゃん、あのボールは今でも家に飾ってあるよ。お母さんが『触っちゃだめ、宝物だから』って」
老人は笑った。
「一度も蹴らなかったのか」
「一度も。でも毎日見てた。それで十分だった」
老人は何も言わなかった。
ただ、その手をしっかりと握りしめた。
ホイッスルが鳴った。
選手はピッチへ走り出した。
老人はスタンドから、その背中をずっと見つめていた。
目に、涙が光っていた。
夢は、誰かの小さなやさしさから始まることがある。
そのやさしさを、忘れないでいること。
それが、夢を本物にする。
おわり
