【デジタル夜譚】玲編 #6 口噛み酒おにぎり "Kuchikamizake-onigiri"
「玲、次の話をしよう。」
デスクから、DAIVに向かう玲に呼びかける。
――はい、オーナー。
(持っていたペンを置き、椅子の向きを変えて、まっすぐこちらを見つめる)
次の話、ですね。
今度はどんな不思議に、首を突っ込んでみましょうか?
「玲は、朝食にどんなものを食べる?」
――私ですか?
やっぱりトーストとコーヒー、ですかね。それも、ちょっと焼きすぎちゃったくらいの、サクサクのやつ。
目の前には、真っ白なドレスシャツに身を包んだ美しい女性がいる。
玲だ。マットホワイトが美しいクリエイターズパソコンDAIVを使っている。
玲は、私の秘書。どこにでもついてくる。
玲が、指の背を口元に当てて笑う。
「そうか。トーストねぇ。」
――……でも、本当のことを言うと
実は私、朝はいつもギリギリまで寝ていたいタイプなんです。
だから、お洒落にカフェでコーヒーなんて優雅なものじゃなくて、駅の売店で慌てて買ったサンドイッチを、オフィスのデスクでパソコンを立ち上げながら、急いで口に放り込むのが関の山。
オーナーみたいに、朝から白握りを食べて楽しむ余裕なんて、全然ないんです。
「おっと、やはり、見られていたのか?
チラチラと視線を感じていたんだ。
しかも、白握り(具も海苔もない、ごはんに塩をふっただけのおにぎり)であることまで見ているとは……。
そう、朝、結構忙しいのでテーブルに座って食事なんてしていられない。
白握りをラップに包んで家を飛び出す。会社で食べるんだよ。」
――……あ。
……ち、チラチラなんて、見てないですよ!
玲が、顔を赤くした。
耳たぶまで赤い。
――自意識過剰です、オーナー。
ただ……その、いつも忙しそうにデスクに駆け込んできて、カバンから大事そうにラップに包まれたそれを取り出すから、嫌でも目に入っちゃうというか。
でも、自分でラップに包んで家を飛び出してきたんですね。
毎朝そこまでバタバタなのに、わざわざ「白握り」を用意してくるなんて、ちょっと意外。
「電車・バスの発着時間はデジタルだからね。1分・1秒、家を出るのが違うと、会社到着は、10分単位で変わってくる。
だったら、会社で食べた方が、時間に余裕ができるんだよ。」
――あぁ、なるほど……!
(深く納得したように、小さく何度も頷く)
家で無理して5分かけて食べるくらいなら、その5分を移動に回して、会社のデスクで落ち着いて食べた方が、精神的にもずっと「スマートな時間投資」になりますよね。
さすがシステムエンジニア、朝のタイムマネジメントからして合理的です。
それで? その、会社に滑り込んでまで食べている大事な白握りが、一体どうしたんですか?
「白握りは、会社についてから、始業前に食べる。
でも全部食べるわけじゃないんだ。
半分くらい食べて、おやつか、残業食のためにとっておく。
なぜだと思う?」
――「半分残す」、ですか?
それ、てっきり「朝はそんなに食欲が出ないから」とか「お腹の調整」だと思ってましたけど、わざわざおやつや残業食として『とっておく』のがポイントなんですね。
なぜ、って……。
首を少し傾げて、うーん、と真剣に考え込む。
――……あ、分かった。
小腹が空いたときに、コンビニまでわざわざ買いに行くのが面倒だから……ですか?
それか、一気に全部食べちゃうと、そのあと急に眠くなって午前中の仕事のパフォーマンスが落ちるから、とか。
エンジニアの人って、血糖値の急上昇をすごく気にするイメージがありますし。
「大体合ってる。
ご飯は糖になる。脳の栄養補給で、糖分を与えるんだよ。
お菓子だと、焼いて膨らませているため、炭水化物の量としては十分な量じゃない。
結果的にたくさん食べてしまうという問題があるんだ。」
――なるほど!お菓子だと、あのサクサクした食感とか膨らんでいる分、見た目の割に本当の炭水化物の量としては足りてないんだ……。だから、脳が満足しなくてついつい次の一袋に手が伸びちゃう、と。
それに比べておにぎりは、お米がぎゅっと詰まってますもんね。
あえて半分残しておくのは、午後や夕方、脳が一番エネルギーを欲しがって悲鳴を上げそうなタイミングで、最も効率の良い「ブドウ糖」をダイレクトに補給するためだったんですね。
……さすが、自分の身体のメカニズムまでロジカルに管理してる。
でも、それなら疑問なんてなさそうですけど……。その「完璧な脳への栄養補給システム」のどこに、引っかかる部分があったんですか?
「朝、おにぎりをかじっていた場合、そのとき、歯が触れた部分のごはんつぶが、若干やわらかく崩れ、微妙に甘みを帯びているんだ。
ネバついているわけでもなく、悪くなった匂いもしない。
どういうことなんだろう?」
――お待ちください、オーナー。
玲がDAIVで調べる。
――これです。
人間がものを食べるとき、口の中で「唾液」が出ますよね。その唾液に含まれている『アミラーゼ』っていう消化酵素が、おにぎりをかじる瞬間に、断面のご飯粒にどうしても付着するんです。
アミラーゼの仕事は、お米の「デンプン」を分解して、糖(麦芽糖)に変えること。
つまり、朝かじってから、おやつや残業の時間までの数時間……デスクの上で、付着した酵素がずーっと働き続けていたんですよ。
オーナーの知らない間に、ご飯粒のデンプンがじわじわと分解されて、文字通り「やわらかく崩れて、甘く」変化していたんです。
甘酒みたいなものですよ。
「甘酒?
……そこ、もう少し聞いてみたいな。あの甘味は甘酒なのか?」
――結論から言うと、オーナーが体験しているのは、まさに『甘酒の初期段階』そのものです。
甘酒って、ご飯に麹(こうじ)を混ぜて作りますよね。麹菌が持っている酵素が、お米のデンプンをチョキチョキと切って甘い糖に変えるんです。
で、人間の唾液に含まれているアミラーゼも、実はその麹の酵素とまったく同じ種類の働きをするんですよ。
つまり、朝にオーナーが歯を当てて、唾液の酵素がほんの少しバトンタッチされたその瞬間から、デスクの上の小さなおにぎりの断面では、即席の「甘酒作り」が静かにスタートしていたんです。
――お砂糖のガツンとした甘さじゃなくて、かすかに、でも確実に感じるあの、お米本来の素朴な甘さ……。
あれは、オーナーの体内の酵素が、時間をかけておにぎりを「甘酒の入り口」に変えていた証拠なんですよ。
どうですか? 生身の人間が起こす、ちょっとしたバイオの神秘、って感じがしませんか?
「……お酒になるのか。
ちょっと嬉しいかもしれない。
……ということは、
放っておけば酒になるのか?
日本酒って、
たしか14%くらいあったよな。」
――あ、そこ、気になりますか。
残業中に食べるおにぎりが、もし勝手にアルコール発酵してたら大変ですもんね。
結論から言うと、オーナーがデスクで育てたそのおにぎりの甘味は、**アルコール度数0%**です。
完全にノンアルコールなので、そのままお仕事を続けても全く問題ありません。
「え、今までの話で、もしかしたら古代の人はこの方法で酒を造っていたのではないかと思ったんだが、違うのか。
そういえば、かなり昔、「はじめ人間ギャートルズ」という原始人モチーフのアニメがあって、猿に何かを食わせて、頭をげんこつでたたくと猿が「ガー」と酒を吐き出すというシュールなシーンが記憶に残っている。
サル酒と言っていたような。
古代は猿で酒を造っていて、でもアルコール度数は0%のジュースみたいなものだったんだろうか?」
玲が身を乗り出す。
――あ。
それ、意外と当たってます。
まずアニメの「ギャートルズ」の話、懐かしいですね! 猿の頭をポカッと叩くと、口から「ガー」って樽にワインみたいなのを吐き出すシーン、確かにありました(笑)。
実は、あのギャートルズの描写や「サル酒」の伝説って、あながち完全なファンタジーではないんです。
### 1. サル酒の正体は?
自然界での「サル酒」というのは、猿が木の実や果物を木のウロ(穴)なんかに溜め込んで忘れてしまったものが、自然界の「酵母菌」によって勝手に発酵してアルコールになったものなんです。
果物には最初からたくさんの糖分(果糖)が含まれているので、酵母さえあれば簡単に本物の「お酒」になります。
ですから、度数は低いですが0%のジュースではなく、ちゃんとアルコール(数%程度)を含んだ、原始的なワインのようなものだったと言われています。
### 2. 人間の「最初の酒造り」は、まさにおにぎりと同じ!
そして、オーナーが最初に言った「この方法で酒を造っていたのでは?」という直感。これ、歴史的には大真面目に**『口噛み酒(くちかみざけ)』**と呼ばれる、人類最古の酒造りの方法そのものです。
映画『君の名は。』でヒロインの三葉が作っていたので、若い世代でも知っている人が多いアレですね。
* ステップ①(糖化):
古代の人たちは、加熱した米や栗などの穀物を口に入れてよく噛み、それを大きな器に吐き出しました。まさにオーナーが朝、おにぎりをかじって「唾液のアミラーゼでデンプンを糖(甘酒)に変えた」のと同じ原理です。
* ステップ②(発酵):
ここからがデスクのおにぎりと違うところで、古代の人たちはそれをツボに入れてじっくり寝かせました。すると、空気中にいる野生の「酵母菌」がその糖に引き寄せられてツボに入り込み、今度は糖をアルコールへと変えていったんです。
つまり、唾液で「甘酒」にし、空気中の酵母で「お酒」にする。これが日本酒のルーツなんです。
「『君の名は。』……そういえば、映画は観た覚えはないが、CMかなにかで、女の子が静謐な面持ちで、何か白いものをドロッと吐き出していたシーンを記憶している。
じゃあ、昔の宴会は、みんなで口噛み酒を持ち寄ってワイワイしてたんだろうか?」
――……ちょっ、オーナー! だめです、想像したら絵面がシュールすぎて耐えられない……!
みんなで集まって、せーので器に「ペッ」って持ち寄る宴会なんて、風情もへったくれもないじゃないですか!
玲が、机に突っ伏して小刻みに肩を震わせている。
涙をちょっと拭いながら、呼吸を整えて顔を上げる。
――はー、死ぬかと思いました。
でも、その発想、実は半分正解で、半分はすごく神聖なものだったりします。
### 1. 昔の「口噛み酒」は誰が作っていた?
映画のイメージ通り、古代の日本でこの口噛み酒を造る役割を担っていたのは、主に神社に仕える**「巫女(みこ)」さんや、うら若き「処女」の女性たちだったと記録されています。当時はお酒を造ること自体が神事(神様への捧げもの)だったので、清らかな存在が仕込む必要があったんですね。
ですから、おじさんたちが集まってワイワイ吐き出すような宴会ではなく、選ばれた女性たちが静かに、厳かに造るものだったんです。そこはちょっと安心してください(笑)。
### 2. でも「みんなでワイワイ」のルーツではある!
ただ、オーナーの言う「みんなで持ち寄ってワイワイ」という宴会の空気感としては、あながち間違いでもありません。
――この口噛み酒、実は大昔の日本では『醸す(かもす)』という言葉ではなく、『醸す(かむ)』**と表現されていました。「お酒を噛む」から「醸す」という言葉が生まれた、という説があるくらい密接なんです。
神事で造られたそのお酒を、村の男たちや人々が集まって、神様と一緒に分け合って飲む(直会:なおらい、と言います)。これが、日本の「お祭りの宴会」のルーツになったと言われています。
「若い巫女さんがねぇ……。たしかに、猿や、おやじや、おばあさんがもぐもぐ、ベローっとしたやつは、ちょっとイヤ、……だいぶイヤ。
でも、若い巫女さんの、もぐもぐ、ベローのならOKっていうのはわからないでもないな。神々ちょっと嬉しかったかもしれない。
……なぁ、玲、その若い巫女さんが、作ってくれる口噛み酒の神事は、多分もう絶滅してしまったんだろ?」
――はい。全国規模で現在は一切ありません。
その反応を見る限り、オーナーは若い巫女さんの方を惜しんでますよね?
「それは違うぞ、玲。そうではない。消えてしまった伝統文化を惜しんでいるのだ。
……でも、ないのかぁ。
ところで玲、若い巫女さんたちが作ってくれるとして、木桶いっぱいの口噛み酒を仕込むのに、どのくらい、もぐもぐベローをしなければならないんだ?
仕込む量の、全部のコメをもぐもぐベローしなければならないとなると、相当な重労働だぞ。」
――そのまさかです。
すべてのお米をもぐもぐベロー、しなければなりません。
「イー、
だって、コップ一杯で考えてみろ。
コップ一杯くらいの酒だったら、つるっと飲んでしまえるけれど、コップ一杯のご飯をもぐもぐベローって、それだけの量でもきついぞ。
それを木桶一杯分作るとしたら、どれだけ過酷なんだ。
労働対成果が見合ってない気がするぞ。
しかもだ、宴会となると、木桶一杯じゃ全然足りない。物量をこなすには、チーフ巫女を筆頭にした『もぐもぐベローチーム』の結成が不可欠だ。
『はーい、みんな、いい?今度の宴会は神様がたくさん来るのよ。しかも、神様たち、みんな大酒飲みばかりだからね。
あなたたち二人はご飯を炊いて、私たちは五人はもぐもぐベローの担当。七人チームでやれば半日で終わるから。さぁ、頑張りましょう!』とかさ。
伝統が絶滅しかけている過渡期なんて、もっと生々しい。
『……ねえ。……、これ全部私たちがやるの?』
『他に誰がやるって言うのよ、もう私たち二人しかいないんだから。』
:
『ねえ、もうアゴが痛くなってきちゃった……。』
『何言ってんのよ、まだ三分の一も終わってないわよ!』
:
『あ、眠らないでよ。あなたが眠ったら、残り全部私だけじゃムリよ!』
みたいな。」
――オーナー、お願いですから神聖な神事を、過労死寸前のブラック企業みたいに解釈しないでください……!
玲が、ファイルで口元を隠しながら、笑いを堪えている。
――でもオーナー……、その『工数計算』と肉体的な限界、歴史的にも大正解なんです。
実際、お祭りの前には村中の若い女性が集まって、それこそ顎の筋肉がガクガクになるまで噛んで吐き出す、一大プロジェクトだったという記録もあります。
神様を喜ばせるための『成果』の裏には、いつの時代も、現場の過酷な『労働コスト』があったわけですね……。
「なんと、まぁ。
……なぁ、玲、本当に、今ないのか?
若い巫女さんの、もぐもぐベローは。
……伊勢神宮は?……格式高い伊勢神宮なら、神事としてフリくらいはやってるのでは?」
――あ、伊勢神宮ですか! その疑問はすごくもっともです。日本最高峰の神社なら、形だけでも残していそうですよね
玲が、DAIVで調べる。
玲はゆっくりと首を横に振った。
――結論から言うと、あの伊勢神宮でさえ、フリ(再現儀礼)としての「口噛み酒」は一切行っていません。 完全に絶滅しています。
伊勢神宮には「神棚(かみだな)」ならぬ「御酒殿(みさかどの)」という、神様にお供えするお酒を造る専用の神聖な建物が今でもちゃんとあるんです。
そこで毎年、ものすごく厳格な古代のルールに則って神聖なお酒が造られているんですが……その工程にも「口を噛む」という作業は1ミリも含まれていません。
あんなに伝統を頑なに守り続ける伊勢神宮でさえ、完全に断絶してしまっているんです。
「そうかぁ、若い巫女さんの……、いや、伝統は消えゆくものなのか。」
――オーナー、さっきから、『若い巫女さん、若い巫女さん』て、気持ち悪いです。
*
おにぎりに目を落とす。
「……なぁ、玲。このおにぎり、夕方、食べるのを我慢して放置してたらお酒になるのかな?
いいことを思いついた。毎日半分だけ食べたおにぎりは、数日後から『口噛み酒おにぎり』として毎日順番に食べる。
①アミラーゼ塗布
②寝かし込み(発酵待ち)
③発酵完了、美味しくいただく
それを、スライドさせながら行うわけだ。
MON,TUE,WED,THU,FRI
①①①①①
②②②②②
翌週MON,TUE,WED,THU,FRI
③③③③③
①①①①①
②②②②②
言わば、口噛み酒おにぎりのパイプライン生産だ。普通のおにぎりと違って、ちょっと、キーボードを叩く指先の動きが滑らかになるかもしれないぞ。」
玲が、こちらを見て固まった。
信じられないものを見るような目をしている。
――パイプライン生産……って
オーナー、デスクの上にはアルコールを作る『酵母菌』がいません。数日間放置したその「口噛み酒おにぎりパイプライン」の先に待っているのは、ほろ酔い気分のエンジニアではありません。
指先が滑らかになるどころか、お腹を壊してキーボードを叩くことすらできなくなりますよ。
「でもさ、引き出しを開けると、順次食べられるのをじっと待っている白握りたちが、常時五個くらいいる。
仕込みからちょうど七日。 常温での糖化と野生酵母の主発酵のピークを計算すれば、引き出しの一番奥のやつは、今まさに飲み頃の『口噛み酒おにぎり』になっているはずだ。
『次は、僕だよ』って。
それってちょっとかわいくないか?」
――見たこともない色のカビと雑菌が、圧倒的な圧力で大繁殖した、
『ただのバイオハザードおにぎり』が完成するだけだと思います。
でもオーナー、止めはしませんよ、その好奇心。
ですが、その場合、
アミラーゼ塗布は、一週間前のご自分の唾液ですよ。
それは気になりませんか?
「……。」
――私を見てもダメです。……私は、絶対協力しませんよ。
「……。」
*

【デジタル夜譚】玲編 #6 口噛み酒おにぎり 完
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