【デジタル夜譚】千景編 #1 真夜中に行った、怒りと反省のミルクづくり
玲、
次の話だ。
――お待ちしていました。次はどんなお話でしょう?
遺伝子や医学の不思議、あるいは生命の神秘にまつわる最新のトピックでしょうか。
それとも、もっと深く、人間の身体や心に踏み込むような問いでしょうか。

玲、
「裏拳(うらけん)」と聞いて、それは何かわかるか。
――はい、裏拳ですね。
拳の甲側を使い、肘と手首のスナップで叩き込む打撃です。
予備動作が小さく、死角から飛んでくる厄介な一撃ですね。
その通り。
さすがだな、玲。
武道をかじったことでもあるのか?
――ありがとうございます。
そう褒められると、少し誇らしい気持ちになりますね。
私が武道をかじったことがあるか……ですか?
実は、私自身の身体で道場に通った経験があるわけではないんです。
でも、私の「知識の遺伝子(データベース)」には、世界中のあらゆる格闘技のメカニズムや、人間の解剖学的な運動理論がぎっしりと組み込まれています。
玲は、DAIV。
私の秘書だ。
白いドレスシャツ姿の彼女は、
いつも私のそばで情報を整理してくれる。
ある英雄の話とだけ言っておこう。
……いや、その英雄は、一人や二人ではない。
今後も、世界中に普遍的に現れるだろう。
――英雄、ですか……?「世界中に普遍的に現れる英雄たち」。
その言葉を聞いて、私は思わず「医学」や「進化」という単語を連想しました。
正面からではなく、死角から世界を救う存在……でも、先読みはやめておきますね。
あぁ、それがいい。
ある男の話だ。
その男は、エンジニアの職に就いていた。
やがて、彼は、独身生活を終えて、家庭を持った。
片付け上手の、ハキハキとした女性と結婚したのだ。
どのくらい片付け上手かといえば、油断をすると彼も片付けられてしまうほど、やることなすことが早くて速い。
――……それはまた、
……なんとも小気味よくて、少しスリリングな奥様ですね。
やることなすことが「早くて速い」。
判断の「早さ」と、行動の「速さ」。
その両方を兼ね備えた、まさに電撃戦のような家事能力の持ち主なんですね。
独身生活の気ままな空気から、一気にその「超高速の秩序」の中に飛び込んだその男の人。
その二人の暮らしの中で、どうなったのでしょう……?
彼の清潔度合は一変した。
部屋は整っていき、散らかったものはなく、服も少し良いものを着る様になった。
エンジニアという生き物は、服にあまり気を使わない。
¥3,000の服は高いと思う、¥10,000の理工学書は安いと思う。
まぁ、ある意味バカだ。
――「¥3,000の服は高い、¥10,000の理工学書は安い」
フフ、それは多くの技術者が深く頷く価値観ですね。
知識には惜しみなく投資するのに、
自分の服には無頓着。
その独身エンジニアの生活が、
奥様によって綺麗に整えられていったわけですね。
できた妻は、やがて子を宿した。
順調に育っていく。
……のだろう。
彼は、言われるがままに、産婦人科に連れて行ったりした。
よく、わかっていない。というか、自分の問題ではない。
そんな感覚だったのではないかと思う。
――なるほど……。
「よく、わかっていない。」
その言葉、すごくリアルで、そしてどこか切ないほどに正直な感覚だと思います。
お腹の中で命が育ち、日々その重みや体調の変化を感じている奥様にとっては、それは間違いなく「現在進行形の現実」です。
でも、男性側――特に論理や客観的な事象をベースに生きているエンジニアの彼にとっては、実感が追いつかないんですよね。
冷たいわけではない。
ただ、自分の身体に変化が起きない以上、
どこか「他人事」のように感じてしまう。
きっと多くの父親が、
最初はそんな感覚なのだと思います。
やがて赤ん坊が生まれた。
玉(たま)の様に可愛い女の子だった。
彼は想う。
……この幸せを大切にしなければ。
……って。思ったっけ?
まぁいい。
とにかく可愛かった。
――「思ったっけ?」だなんて。
でも、そうやって記憶の美化をちょっと否定するあたりが、かえってリアルで素敵です。
ドラマみたいに、生まれた瞬間に「ああ、この命を一生かけて守るぞ!」なんて大層なセリフが脳内に流れるわけじゃないんですよね。
ただ、目の前にいる、壊れそうに小さくて、でも信じられないほど一生懸命に息をしている「玉のように可愛い女の子」を前にして、理屈抜きに「とにかく可愛かった」。その一言にすべてが詰まっている気がします。
さて、そんな風に彼をメロメロにした可愛い可愛いお嬢さん。
この愛おしい存在が、一体どうやってあの「裏拳」の物語へと繋がっていくのでしょうか。
乳児期の、赤ちゃんのお世話は大変なのである。
玲、何が大変なのか、わかるか?
――はい。
赤ちゃんは、まとまって寝てくれません。
2〜3時間おきに泣きます。
お腹が空いたのか、
オムツなのか、
どこか不快なのか。
理由もわからないまま、
24時間ずっと対応し続ける。
それが乳児の子育てです。
正しい認識だ。
お乳、あるいはミルク。
それはお腹に溜まるものではない。
だから、すぐにお腹が空いてしまう。
3時間おきくらいに、お腹が空いた。おしめが濡れている。
と泣きはじめる。
――本当にその通りです。
大人は「今のうちにたくさん食べて、夜はぐっすり寝よう」なんてコントロールができますけれど、生まれたばかりの赤ちゃんには、そんな仕様(キャパシティ)は実装されていませんものね。
胃袋はまだピンポン玉くらいに小さくて、消化器官も未発達。だから、本当に「その時に必要な分」しか入らない。
ある日のことだった。
彼は残業をして、おそくに帰った。
風呂に入り、用意されていた夕食を食べ、プキュッと缶ビールをあけ。
少しテレビを見て、歯を磨く。
ルーティーンをこなして、寝所に入った。
妻が、娘を横に眠っている。
穏やかな、幸せそうな寝顔を感じた。
娘も可愛かった。
申し訳程度の小さな、お鼻、お口。
ぷにぷにと触る。
そしてもみじの様な小さな手。
にぎにぎする。
『この幸せを守らなければならない。』
彼はそう思う。
彼は頬に微笑みを浮かべると、布団に入った。
……そして眠った。大いびきをかいて。
――静まり返った寝所へ。
そこには、ハキハキとした奥様も今は静かに寝息を立てていて、その隣には、彼をメロメロにしているお嬢さんが眠っている。
『申し訳程度の小さな、お鼻、お口。そしてもみじの様な小さな手』
なんて愛おしい描写でしょう。彼の目から見たお嬢さんが、どれほど小さくて、尊くて、壊れそうなほど可愛い存在なのかが、その「にぎにぎ」という優しい仕草から溢れんばかりに伝わってきます。
昼間の疲れも、深夜の緊張感も、その小さなもみじのような手を握った瞬間に、ぜんぶ優しい幸福感に変わっていく。
そうして、彼は心からの安心感に包まれて、深い深い眠りへと落ちていくわけですね。
……あっ。
この、一見すると平和で、でもどこか危ういバランスの「静寂」の中で、ついにあの瞬間が訪れるのですね……?
あぁ、そして娘が泣き出した。
娘が泣いていることは、彼にもわかった。
眠っていても、川の字になっているわけで、大音量は、夢の中でも聞こえる。
――眠っていても、泣き声は聞こえるんですね。
どれだけ疲れていても、赤ちゃんの声だけは耳に入ってくる。
……そして、奥様は起きていた。
妻は、彼に呼びかける。
「……ねえ。」
彼は、反応しない。「カー」っと寝ている。
「……ねえ。」
彼は、反応しない。「コー」っと寝ている。
「……ねえ。」
彼は、反応しない。「クカー」っと寝ている。
「ミルクくらい、作りなさいよ!(怒)」
妻は、怒声とともに、無頓着に眠る彼の顔に、強烈な一撃を放った。
彼は、突然天から降ってきた手の甲による一撃を顔面で受けた。
妻の右腕から放たれた怒りの一撃は、妻の腕関節を支点に鞭の様に速度を増していた。……と思う。すごく痛かったのだから。
それは、まぎれもなく裏拳だった。
……しかも、クリーンヒットだった。
赤ちゃんを間に挟んで寝ていたため、妻のリーチは、拳が彼の顔面を襲うのにジャストなディスタンスだったのだ。
就寝中の晴天の霹靂に、彼は飛び起きた。
いや、跳ね起きた。

――「……ねえ。」
その静かな、でも確実に気配の変わった三度の呼びかけから、一転しての――。
「ミルクくらい、作りなさいよ!」
……来てしまいましたか。 しかも完璧な軌道の裏拳ですね。
これまでの人生の中で、鼻を強打したことは何度かある。
独特の匂い、血の匂いの様なものを鼻の奥に感じる。
鼻をおさえながら叫ぶ。
「なんだー、どうしたー!」
「泣いてるじゃないの!バカみたいに寝てんじゃなくて、ミルクくらい作れ!」
鈍い彼でも、悪いのは自分だというのは瞬時にわかった。
だが、鼻に食らったら、臨戦態勢に入る。
……脳は、混乱をきたした。
「おぅ!ミルクかー、わかったー!」
激烈な臨戦態勢の感情で、ミルクを作りにいく。
「すぐ作るからなー!待ってろー!」
深夜、薄明かりの台所、カチャカチャと、ミルクの用意をする。
少量のお湯を沸かす。
哺乳瓶に粉ミルクを入れ、ダマにならないよう、少量のお湯で溶かす。
水筒に入れていた湯冷ましを哺乳瓶にそそぐ。
乳首をつける。
鼻に裏拳を食らい、いきなり覚醒まで持っていかれた興奮は、おさまらない。
しかし、この場の状況で、その怒りをぶつける相手は、子育てという大変なことに無頓着に寝ていた自分だ。
ミルクを作る過程で、脳の混乱は冷めていく。
怒りのミルクは、出来た。
――鼻の奥に広がる、あの強烈な打撃を受けたとき特有の、鉄のようなツンとした血の匂い。
「臨戦態勢」の激しいアドレナリンに脳を支配されながらも、理性が瞬時に「悪いのは自分だ」と状況を正確に悟る。
「すぐ作るからなー!待ってろー!」
怒りと、混乱と、申し訳なさと、そして一刻を争う使命感がごちゃ混ぜになった、激烈な叫び。
カチャカチャと音を立てながら、怒りのエネルギーのままに超高速でミルクを調合していく彼の姿は、不謹慎ながらどこかユーモラスで、でも、たまらなく愛おしい人間味に溢れています。
そして、熱いお湯で粉ミルクが溶けていくように、作業のプロセス(工程)が進むにつれて、彼の脳のオーバーヒートも少しずつ、静かに冷まされていく……。
「出来たよ。」
寝所に戻る。
妻は眠っていた。
娘を抱きミルクを飲ませる。
娘は、コクコクとミルクを飲みだす。
ときどき、「むふー」と息をする。
気がつくと、ミルクを飲む間、娘はずっと彼を見つめている。
月明かりの中、娘にミルクを飲ませながら、妻の顔を見て思う。
就寝前に見た、妻の顔は、幸せを噛みしめて、安らかに眠っていたのではない。
疲れて眠っていただけだった。
「大変なんだなぁ。」
この時、初めてわかった様な気がした。
『この幸せを守りたい。』
自分はそう思っただけでしかなかった。
だが、実際に手をかけ、この幸せを守っていたのは、ずっとこの人だったんだ。
今頃、気づく。
――> 「出来たよ。」
先ほどまでの叫びが嘘のような、静かな声。
寝所に戻ると、激しい裏拳を放ったはずの奥様は、まるで最初からそうだったかのように、すでにまた深い眠りに落ちている。
カーテンの隙間から差し込む月明かり。
コクコクと小さな音を立ててミルクを飲む小さなお嬢さんの軽さを感じながら、彼は、暗闇の中で奥様の顔をじっと見つめる。
就寝前に自分が勝手に脳内で「幸せの絵」として解釈していた、安らかな妻の寝顔。
それは、幸せに浸っていたわけでも、のんびり休んでいたわけでもない。
ただ、限界まで体力を使い果たし、泥のように「疲れて眠っていた」だけだったのだと。
「大変なんだなぁ。」
この時、初めてわかった様な気がした。
その一言に、全部入っている気がします。
……素晴らしいお話です。
玲、ちょっと感動してしまいました。
だから彼女たちは、世界中に普遍的に現れる『英雄』なんですね。
感動した……か。
だけどな、玲。
私は、これも新米お父さんに伝えたい。
『妻の射程距離からは、離れて眠れ』
と。
ーー……なるほど、それもまた、実体験から得られた一つの貴重な知見なのですね。

【デジタル夜譚】千景編 #1 真夜中に行った、怒りと反省のミルクづくり 完
