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優しすぎるという毒

一部の小学校で通知表の廃止をしているというニュースを目にしました。
(参照:「通知表」廃止する背景は?評価にモヤモヤ、あったほうがいい…賛否も #エキスパートトピ(なかのかおり) - エキスパート - Yahoo!ニュース

まず、「通知表は、文部科学省が義務付けているものではなく、各学校の判断で作成されてきた」とのことなので、制度としては問題がないという前提でのお話です。

通知表廃止のメリットとして、「子どもの主体性を伸ばし、優劣に一喜一憂せず、学びを楽しむ姿勢を育てやすい」こと、「教員の負担軽減も大きく、評価作業や記入、確認する時間が減る」ことが挙げられている。
デメリットとしては、「子どもの学習状況や生活態度を簡潔に伝える手段が減ること」とされ、保護者からも「子どもの様子を知りたい」「社会に出る上で、競争や評価は必要」といった保護者の意見が挙げられているそうです。このデメリットの対応として、導入した学校の多くは個別面談を行っていると言います。

以上が現状の整理、ニュース記事からわかることの整理です。

まず、メリット、デメリットの双方とも理解ができるかと思います。
確かに評価に囚われることにより、本来不得意でなかったものを不得意だと認識する弊害はあるでしょうし、教員の負担は軽減した方がいいと思います。
子どもの様子を知りたいという意見も個別面談で解消できるデメリットと考えられます。

ではなぜ私が気になったのか。
それは、「社会に出る上で、競争や評価は必要」という保護者の意見に近いかと思います。

この廃止の背景には、「結果よりも成長の過程を重視する教育方針がある」といいます。

元々の私の考え方も「結果より過程」を重視する傾向にあります。
しかし、私の友人には結果の重要性を語る人もいます。
この友人と話すうちに、確かに結果を出すことも重要だと認識するようになりました。
とりわけ、社会に出たときに過程も大事ですが、結果を出すことも重要です。
どれだけ努力しても、結果が伴わなければ人に伝播しなかったり、経済的なメリットを出せないことも多いでしょう。

運動部で練習に必死に取り組むが試合ではあまり活躍しない部員と練習では時折手を抜くが試合で結果を出す部員のような関係性でしょう。
教育現場であれば特に過程を重視することは理解できますが、どこかで結果を出さなければその部員はいずれ試合に使われなくなるでしょう。

また、他人から評価をされることも重要です。
自分の軸がなく他人からの評価だけを気にしている人は問題ですが、「自己肯定感が下がる」という理由で廃止するのであれば、一方で評価されることで「自己肯定感が上がる」という通知表がよい子どもは軽視していいのかという疑問が湧きます。
私がこのニュースで目に留まったのは、通知表の低い生徒側への意見の偏りを感じたからです。

これは近年の日本への危惧でもあります。
確かにできない層を救い上げることも必要でしょう。
しかし、その結果、できる層の上限を下げることは全体のパイを縮小させているのではないでしょうか。
少なくとも、できる層の努力は見なくていいのか、となります。

とはいえ、記事によると概ね小学校低学年での導入のように見えます。
本ニュース単体で見るのであれば、今後、通知表の廃止が小学校高学年や中学校にまで導入されるのであれば疑問ですが、基礎を作る段階、まず勉強を嫌いにならない段階である小学校低学年であれば理解できるのかなと思います。

一方で、できない側への偏りが拡大していくことについては2つの警戒をしています。

一つには、先で述べたように、すべてを過程や感情の保護に置き換え、競争や客観的な評価の必要性が見過ごされ、結果として国際的な競争力の低下や、社会適応力の低い人材の輩出につながるように感じるのです。

もう一つには、過保護になりすぎて、失敗する経験を奪い過ぎてはいないかということです。
通知表は優劣をつけるというよりも、フィードバックに近いもので、そのフィードバックを受け止めること、受け止めたうえでどうするか、ということも重要ではないでしょうか。

過程よりも結果を重視する友人とは別に、後輩のためにできるだけ失敗しない道を作ろうとする友人もいます。
しかし、優しさは使い方次第で毒のようにゆっくりと可能性を狭めていくことがあります。

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