芸の輝きと病の影──『国宝』が問いかける現実
吉田修一の小説『国宝』を一度しか読んでいないのに、強烈に記憶に残っている場面がある。 主人公のライバル・俊介が糖尿病のために両足を失い、命の火がみるみる弱っていった姿だ。
文学の中の物語だと思っていたはずなのに、現実の医療現場に立っていると、その光景と重なる患者さんに何度も出会ってしまう。
糖尿病による足の切断(アンプタ)は、決して珍しいことではない。 そして、切断した後の生命予後は厳しい。
統計的には、足を失った患者さんの5年生存率は、がんと同じくらい、あるいはそれ以上に厳しいと言われている。足を切ったから死ぬのではない。
足を切らざるを得ないほど全身の血管がボロボロになっていることが、その後の予後を厳しくしている。
ここで触れているのは、あくまで私が医療現場で見てきた一側面であり、学術的な厳密さや個々の症例を網羅するものではない。
それでもなお、日々の現場で繰り返し目にしてきた現実として、どうしても伝えたい。
糖尿病は「静かに進む病気」だ。 血糖のコントロールが崩れ、神経がやられ、血流が途絶え、足先が壊死していく。痛みを感じにくいため、気づいたときにはもう取り返しがつかないことが多い。糖尿病が「サイレントキラー」と呼ばれる所以である。
手術室でアンプタの処置をするたびに、「もっと早く気づけたら」「もっと生活を変えられたら」と思わずにはいられなかった。
「わかっている」という名の魔法の呪文
牧田善二先生のベストセラー『医者が教える食事術 最強の教科書――20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』の中にはこんな言葉がある。
食事や生活の指導をしても、皆「そんなこと、わかっている」と言う。けれど実際には、不摂生を止められない。それは「情報として知っているだけで、実は何もわかっていない」のだと。
医療現場にいると、この言葉の重みに打ちのめされる。 「タバコは体に悪い」「糖質は血管をボロボロにする」 そんなことは誰もが知っている。けれど、その「知識」と、自分の行動を変える「理解」の間には、深くて暗い川が流れている。
糖尿病が恐ろしいのは、今この瞬間に激痛が走らないことだ。
だから人々は「まだ大丈夫」、と知識に蓋をしてしまう。「わかっている」という言葉は、現実から目を逸らすための魔法の呪文になってはいないだろうか。
偉そうなことを書いている私も、仕事終わりのiQOSだけはどうしてもやめられずにいる。患者さんを指導しながら、心の一角で「私もまた、わかっているようで、何もわかってねー‥」と、苦い煙を飲み込む。
医療現場に立ち、アンプタが決まった瞬間の患者さんの絶望を間近で見ている私でさえ、自分の嗜好品ひとつ御しきれない。それほどまでに「習慣」と「病の影」は、私たちのすぐ隣に、当たり前の顔をして座っている。
手術室でアンプタが決まった瞬間、患者さんは初めて、牧田先生の言う「本当の意味での理解」という場所に強制的に引きずり込まれる。 「わかっていたはずなのに、まさか本当になくなるなんて思わなかった」 でも、その時にはもう、すべてが遅すぎるのだ。
もちろん、糖尿病はすべてが生活習慣のせいではない。体質や遺伝、抗いようのない原因で向き合っている方も多い。けれど、どんな理由で始まった病であれ、最後に向き合う『現実』の重さは同じなのだ。
俊介は、病で両足を失っても家族に支えられていた。 けれど私が見てきた患者さんは独居の男性が多く、切断後の生活も、その後の手続きも、常に孤独と隣り合わせだった。
切断した足は「人の一部」として火葬されるため、火葬手続きがいる。
俊介のように芸を極めた人の足であれば、その骨の一片すら「宝」のように思えるかもしれない。
しかし現実のアンプタでは、昨日まで自分を支えていた体の一部が、「廃棄物」ではない、けれど「遺体」として扱われることもない、どこにも属さないまま、「処理対象」として煙になる。
なお、切断された四肢の扱いは全国で一律に決まっているわけではなく、病院や地域によって異なる。(自治体によっては「埋葬許可証」が必要なケースもあれば、「手術による摘出物」として扱われるケースもある。)
それでも多くの場合、それは「廃棄物」としてではなく、人の一部として扱われ、静かに処理されていく。
お経をあげることもあるが、多くはそうではない。
静かに、誰にも知られずに煙になることのほうが多い。
火葬場に運ばれるその過程に家族がいなければ、病院スタッフが淡々と事務的に手続きを担うことになる。
俊介はまだ、恵まれていたのかもしれない。
現実には、支えのないまま病と孤独に向き合う人が、静かに、そして確実に存在している。
「好きなことをして早く死にたい」と思うなら、それは個人の自由だろう。
私もその考えには賛成である。 だが、楽に死ねるかどうかなんて神様にしかわからない。 糖尿病は「早死にするならそれでいい」と軽く考えられる病気ではない。
血流障害と感染、神経障害が複合し、切断→入退院→合併症の連鎖が始まる。切断は終わりではなく、新たな苦労の始まりだ。 失った足を慈しむ暇もなく身障手続き、辛いリハビリの日々。 車椅子で生活するにしろ義足を使うにしろ、これまでの生活とは一変する。日常は医療と手続きに擦り切れていく。
現実は、必ずしも“安らかな最期”を約束してくれない。
実際、海外の研究では「divorced(離婚経験あり)かつ男性」が下肢切断リスクを上げる要因の一つとして挙げられる報告がある。独居者のフットケア難しさは、訪問看護や糖尿病ケアの現場で繰り返し指摘されている。
ただ、それは「独身男性=問題」という意味ではなく、「一人で管理し続けるのが難しい状況にある人が、結果として重症化しやすい」という事実である。
現場で目にするケースとして独居の方が進行しやすいと感じるだけで、特定の誰かを責めているわけではない。
むしろ、家族の支えがどれだけ大事かを実感して、みんなが自分の体を『国宝』みたいに大事にしてほしいと思って書いた。
独居男性と言いつつ私も一人暮らしでオッサンみたいな生活をしているのでもちろん他人事ではない。
Xのフォロワーさんから「病院であった怖い話を書いて。」とリクエストがあったので、この話を書いてみました。
え、そっちの「怖い」じゃない?
しかし、どんな怪談よりも、病と向き合い、自分自身が欠けていく現実のほうが、ずっと怖いと思うのです。
私は霊感は全くありません。周りは病院で寝るとラップ音がしてこわいと言いますが私は全く気付かず寝ています。そんな自分にとって一番怖い話は、いつも医療現場で見つめてきた、この「現実」でした。
俊介の輝きは芸術の中にありました。 でも、私たちが本当に、死ぬまで添い遂げ、守り抜かなければならない『国宝』は、他ならぬ自分自身の体ではないでしょうか。

映画は観ておりません。徳次が出ないと聞いたから。
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