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【短編小説】俺は直美

俺は直美だ。

「なおみ」じゃねえ。

「ちょくび」と呼ぶ。

医学部を卒業し、初期臨床研修を終えたあと、そのまま美容医療へ進む医師のことを指す。

2004年に始まった新医師臨床研修制度。

昔みたいに大学医局に縛られなくてもよくなった。

俺たちは自由だ。

自由に進路を選び、自由に稼げる。

だったら、わざわざ大学病院で馬車馬みたいに働く理由なんてない。
美容医療を選べば、自分の腕と数字で稼げる。誰の庇護も、誰の顔色もいらない。
俺は誰よりも効率よく生きる。それが、貧しさから抜け出すための、俺なりの賢い防衛策だった。

上の顔色を伺って派閥争いに明け暮れ、いつか「白い巨塔」の財前五郎のように過労と闘争の果てに散ることもなければ、かといって「ブラックジャック」に出てくるような、派閥から外れ、誰からも忘れられている「椎茸先生」のような哀愁を漂わせる必要もない。

俺は誰よりも効率よくスマートに生きる。

それが賢い人間のやり方だと思っていた。




母は看護師だった。

中学卒業後、准看護師の学校へ進み、働きながら正看護師になった。

貧しかったからだ。

年の離れた妹もいた。

進学なんて選択肢はなかったらしい。

総合病院で働いていた母に一目惚れしたのが、外科医だった父親だった。

代々医者の家系。

祖父も曾祖父も医者。

そして父方の祖母は、俺が生まれた瞬間に言ったらしい。

「この子は絶対に医者にしなきゃ」

そして続けた。

「看護師だった〇〇さんに教育は任せられないわ」
生まれてすぐの俺を取り上げられそうになり、母は俺を連れて家を出た。

後から聞いた話では、父は浮気を繰り返し、モラハラも酷かったらしい。

母は看護師の習性で、父の罵詈雑言や浮気の証拠を、体温表をつけるのと同じ正確さで、時系列に沿って記録していた。


離婚はあっさり成立した。


俺は勉強ができた。

努力もした。

だが、努力だけで医者になれたとは思っていない。

何せ頭の出来は父親譲りだ。母の「記録」のおかげで養育費もたんまりもらっていた。

世の中は努力を過大評価しすぎる。

スポーツ選手なら誰もが才能を認める。

大谷翔平を見て「努力すれば誰でもなれる」
なんて言う奴はいない。

なのに勉強になると急に「努力が足りない」になる。

寝る間も惜しんで勉強しても受からない奴はいる。

何浪もしている奴もいる。

俺はそういう連中を見るたび思っていた。

『辞めればいいのに。』

『向いてないんだろ。』

俺が冷やかにそいつらを見ていると決まって返ってくる。

「貧乏人のくせに!」という捨て台詞。負け犬の遠吠え。

俺は鼻で笑っていた。

ある日。

家に帰ると母がテレビを見ながら泣いていた。

ニュース番組だった。

ある議員の発言が問題になっていた。

「豊かな子は自衛隊とかには行かない」

画面では批判の声が飛び交っていた。

母は黙ったままテレビを見ていた。

俺はその横顔を見ていた。

母が何を思い出しているのか分かった。

「貧乏だから看護師になったんでしょ」

母は何度もそう言われてきた。

患者からも。

医者からも。

親戚からも。

俺は何か言おうとした。

「そんな奴ら気にするなよ。」

そう言おうとした。

でも言葉が止まった。

俺もずっと同じことをしてきたからだ。

何浪もする奴を見下した。

向いていない奴は諦めろと思った。

努力を笑った。

職業を選ぶ理由を値踏みした。

俺は母を傷つけた連中を軽蔑していた。

なのに。

俺自身も誰かを切り捨てる側だった。

テレビの向こうでは、まだ議論が続いていた。 


母は静かに涙を拭いた。

俺は何も言えなかった。

『貧乏だから看護師になったんでしょ。』

『向いてないなら諦めろよ。』

俺の頭の中で、いくつもの言葉が重なった。

その夜、初めて自分が直視したくないものを見た気がした。
――俺もずっと、同じ値踏みをしていたからだ。




俺は直美だ。

誰よりも賢く生きるつもりだった。

だけど本当に未熟だったのは、たぶん俺の方だった。

俺は直美だ。

誰よりも賢く生きるつもりだった。

だけど。

人を値踏みしないことの方が、

国家試験より難しいらしい。





議員の発言をきっかけに議論が渦巻く中、私の頭をよぎったのは、社会の大きな話ではなく、もっと個人的で、密やかな痛みでした。
※今回の物語の着想については、よぼせよさんのこの記事に触発された部分が大きいです。併せて読んでいただければ、よりこの物語の背景を感じていただけるかもしれません。

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