眷属さま蒐集譚・護神ノツルキ
『五十鈴とツルキ』
第一章 天より剣、地に降る
朝靄(あさもや)に包まれた、天河の山深く。
まだ陽も昇りきらぬ刻――
そのお社の前に、 一本の剣が突き立っていた。
霊(ひ)を宿すかのように、青白く光りながら、ひとりの少年が傍らにうずくまっている。
白い装束。濡れたような白銀の髪は肩にかかり、腰には不釣り合いな青い鞘が。
ただただ、静かだった。
鳥の声も、風のざわめきも、ただ遠く。
その気配を、稲荷の社が感じ取った。
白と黒の仔犬が、山から駆けてきた。
それは、周囲、丹生の里の聖獣。
稲荷社の前にて、
「天から、剣が降りてきたよ」と告げる。
やがて、本殿へと続く石畳を、
黒髪の白狐が歩み出る。
黒髪に赤い瞳、柔らかな笑みを絶やさぬ巫女装束。
その名は――五十鈴(いすず)。
彼女は、仔犬たちに促されるまま、天河のお社へ向かった。
静かに社を出て、朝陽の中で少年を見つけた五十鈴は、
そっと膝をつき、彼の頬に手を添えた。
「……来てくれたのね」
そう呟いたのは、五十鈴か、
それとももっと古い記憶か。
五十鈴は静かに、少年の頬をなで、微笑んだ。
「おかえり。……じゃなかったわね、
ふふ。はじめまして。」
少年は、うっすらと目を開き、
五十鈴の姿を見て、何も言わず、また目を閉じた。
まるで――安心したかのように。
第二章 五十鈴とツルキ
五十鈴がその子を社へ連れて帰ったのは、
まだ山に春の雪が残る頃だった。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、あの子を放っておけなかった。
お社の囲炉裏で湯気が立つ。
五十鈴は、膝に掛け布をかけ、
そっと少年を寝かせていた。
少年はまだ言葉を発しない。
けれど、目は冴えている。
「名前は、あるのかしら」
問いかけても、返事はなかった。
ただ、少年の手には、ずっと離さずに握られた刀。
青い鞘に、銀の鍔。
目を離すと、彼ごと消えてしまいそうな剣。
五十鈴は静かに微笑み、言った。
「じゃあ……ツルキ。そう呼んでも、いいかしら」
少年はわずかに瞬き、顔を背けた。
否定はしなかった。
日々は静かに流れた。
ツルキは、五十鈴の傍で何も言わずに過ごした。
食事を出せば、黙って箸を取る。
外に出れば、剣を持って静かに立つ。
けれど、どこか――空のように、遠い。
五十鈴は、笑顔を絶やさなかった。
言葉は少なく、ただ、そっと隣に座り、
火をくべ、湯を沸かし、髪を梳いてやった。
「この世にはね、いろんなものがあるの。
見えるものも、見えないものも、
たくさんね」
五十鈴は、語ることを強いなかった。
ただ、話す時はゆっくりと、陽だまりのように語った。
ある晩、山の風が強かった。
五十鈴が戸を閉めて戻ると、
ツルキは縁側に座っていた。
その手の中には剣。
いつものように、じっと握っている。
「……眠れない?」
返事はない。
けれど、五十鈴が隣に座ると、
ツルキは――ほんの少し、体を寄せた。
その温もりに、五十鈴はそっと微笑んだ。
「大丈夫。ここは、あなたの帰る場所よ」
その夜、ツルキは五十鈴の膝に頭を預け、
静かに目を閉じた。
風の音が、いつしか遠のき――
夜は、優しい闇に包まれていった。
彼が普通の子供でないことなど、最初から分かっていた。
けれど、五十鈴は気に留めなかった。
この子はこの子。
神と人の間にあるとしても、
剣と運命を背負う者でも。
ただ、今は、そばにいるだけでいい。
心のどこかに、ずっと昔から知っていた感覚があった。
この子は――「待っていた」子だと。
第三章 松尾丸(坂上田村麻呂)
都から馬で三日、
山を越え谷を渡り、
その少年はやってきた。
「おーい!五十鈴さーん、いるー!」
春の山に響く、よく通る声。
朱の鳥居をくぐって、ばたばたと走るのは――
名を松尾丸(まつおまる)。
都・京の名門に生まれ、やがて武官となる運命を背負った少年だった。
将来の坂上田村麻呂である。
「……また来た…」
ツルキは小さく呟いた。
五十鈴のそばで縁側に座り、
相変わらず感情を見せない。
「また、とはひどいなあ。
ちゃんと教えを受けに来てるんだぜ?」
松尾丸は笑いながら、ツルキの隣にどかりと腰を下ろす。
「俺は将来、最高の武官になるかもなんだぞ?
山籠もりも立派な修行なんだ。そっちはどうだ、剣の坊ちゃん」
「……」
「なにその顔、ふーんしか言えないのかよ?」
ふたりは年も近く、正反対だった。
松尾丸は陽気で口数が多く、
まるで春風のように社を駆け回る。
ツルキは静かで寡黙、
時折、剣を見つめてじっとしている。
それでも、なぜか不思議と、馬が合った。
山では、ふたりで鹿を追い、
川では、服を脱いで水をかけあい、
夜になれば、囲炉裏を囲んで、松尾丸が一方的に喋り続ける。
「なあ、ツルキ。お前、泣いたことあるか?」
「……ない」
「そっか。俺はあるぞ。
この前、父上に叱られてさ。あれは泣いたなあ」
「ふーん……」
「だからさ、たまには泣いてもいいんだぜ?」
ツルキはその時、ふっと視線を落としただけだった。
ある日のことだった。
稽古の後、松尾丸が五十鈴に駆け込んできた。
「五十鈴さん!ツルキが……泣いてる!」
「……え?」
五十鈴が慌てて社の裏手に行くと、
木陰にうずくまったツルキがいた。
剣を抱え、背中を向けていたが――
小さく肩が揺れている。
「どうしたの?」
答えはなかった。
だが、稽古での敗北。
剣の重さ、自分の未熟さ、そして――
自分ではどうにもならない感情。
それらすべてが、心の奥で膨らんで、溢れてしまったのだ。
五十鈴は、何も言わずにそっと背中に手を当てた。
そして、そっと抱きしめ、頭を撫でてやった。
ツルキはそのまま、五十鈴の膝に顔を埋めて泣き、
そして――眠った。
五十鈴は、目を細めて見つめた。
この子が泣くなんて。
この子が眠るなんて。
その夜、五十鈴の胸は、あたたかく、どこか痛かった。
松尾丸は笑った。
「なんだよ、お前も人間らしいとこ、あるんだな」
ツルキは、ただ一言。
「…うるさい」
けれどその声は、ほんの少し――やわらかかった。
第四章 別れの時
夏が過ぎ、秋が来て、また春が巡った。
ツルキは相変わらず、あの剣とともに。
五十鈴のそばで、静かな時を生きていた。
松尾丸は、そのたびに山を訪れ、
けれど、もう稽古だけではなくなっていた。
「俺さ、来年、都で、武官として仕えるってさ」
松尾丸は、ぽつりとそう言った。
「もう、そんな歳か……」
ツルキの声も、いつもより少し低く響いた。
「うん。まあ、そういう家に生まれたからなあ。出世の道だってさ」
「……もう…行くのか」
「うん。でも、また来るよ。
山は逃げないだろ」
そう言って、松尾丸は笑った。
けれど、ツルキはわずかに目を伏せた。
その夜、五十鈴は湯を沸かしながら、ツルキに言った。
「寂しくなるわね」
ツルキは火を見つめていた。
「……何も…変わらない」
「そうかしら? 松尾丸くんは、歳を取るわよ」
「……それは、関係ない」
五十鈴は湯気の向こうで、少しだけ寂しげに微笑んだ。
翌朝、松尾丸が馬に乗って出立した。
「五十鈴さん、世話になりました。
ツルキ、お前も元気でな」
ツルキは、無言で頷いた。
そして――背を向けた。
馬の蹄の音が遠ざかっていく。
「寂しいのね」
五十鈴が、ツルキの背にそっと声をかける。
「……いや……そんなこと……」
けれどその声は、少し震えていた。
五十鈴は歩み寄り、ツルキの肩にそっと手を置いた。
「あなたは変わらない。
だけど、周りは変わるの。
人も、季節も、時も、全部――」
「……なら、ぼくは、何になる…」
その問いに、五十鈴はすぐには答えなかった。
しばらくして、静かに言った。
「剣を持つ者は、剣を超える者にならなければならない。
変わらぬまま、変わり続けるこの世を見つめるために」
ツルキは黙って聞いていた。
そしてふと、五十鈴の手に自分の手を重ねた。
それが、感謝であったのか、ただの温もりだったのか、
誰にも、わからなかった。
時が――流れた。
各地では、戦の風が吹き始め、
山には、新たな修行者の気配が現れ始めていた。
ツルキは剣を持ったまま、
静かに山の上に立ち、
遥か彼方、京の空を見つめていた。
その目に、誰かを思う光があった。
第五章 喪失と光
松尾丸の訃報は、ある冬の朝、
都から届いた。
文には短く「病没」とあったが、
五十鈴はすぐに察した。
戦(いくさ)だったのだ、と。
ツルキは、何も言わなかった。
(……蝦夷…アテルイとの時が、最後か…)
剣を手に、山に入り、三日戻らなかった。
そして、戻ってきたとき――少年の顔には、影が差していた。
五十鈴が囲炉裏で湯を沸かす音だけが、夜の社に響いた。
ある晩のことだった。
山の空が、いつもと違う色をしていた。
黒でも、青でもない――
深く、深く、沈んだ夜。
遠くから歩いてくる気配がした。
ただの人ではない。
山も風も、霊(ひ)も、ざわめいていた。
五十鈴は、静かに社の扉を開けた。
「……来た…わね」
その男は、ひと目見て、異質だった。
背は高く、痩せても太ってもおらず、
目は深く静かで、星を呑んでいるようだった。いや、星を呑んでいた。
衣は擦り切れ、旅の塵にまみれていたが、
その存在そのものが――「山の気」を変えていた。
「空海と申す」
名乗った声は、まるで風のようだった。
「ここに、剣の子がいると聞いた」
五十鈴は黙って頷き、
そして、社の裏手へと彼を導いた。
そこに、ツルキはいた。
剣を構えていた。
初めてだった。誰に対してでもなく――
心から、敵意を向けたことは。
だがその男を見た時、ツルキの中に、剣が“抜かれた”。
見えない剣。
「……なんだ、お前は」
「名は空海。学ぶ者であり、越える者であり――仏を超えて、仏を問う者だ」
ツルキの目が、わずかに揺れた。
「……ほう…」
「そなたは、何を背負ってここにいる?」
「……わからない」
「ならば、ともに問おう。剣は問うことができる。
だが、答えるには魂がいる」
空海は、ツルキの前に座り込んだ。
五十鈴は、そのやりとりを静かに見守っていた。
その夜、社の囲炉裏では火が強く燃えた。
三人は囲むように座り、言葉はほとんどなかった。
ただ、空海の気配に呼応するように、
ツルキの目は冴え、魂が何かを感じ始めていた。
火の向こうで、空海が口を開いた。
「神も仏も、人も、みな“流れ”だ。
形は違えど、本質はひとつ」
「剣も?」
「剣も、そうだ。そなたの剣も――
問うているのだろう?」
ツルキは、自分の膝の上にある剣を見つめた。
問う。
剣が、何かを――問うている?
その夜、ツルキは眠らなかった。
火が落ち、闇が深まり、
空海がいつの間にか、座したまま眠っている頃、
ツルキは、その剣を、静かに抜いた。
鞘から出た刃は、音もなく光を放った。
五十鈴は、静かに息を飲み――
ただ、それを見守っていた。
翌朝。
空海は、山を降りると言った。
「高野の地へ。道は見えた。
塔を立てねばならぬ」
「また来るのか?」
ツルキの問いに、空海は笑った。
「そなたが来るかもしれぬな。
その剣とともに…ふふ…」
そして彼は、霧の中へ消えていった。
五十鈴が、ツルキの隣に立った。
「……どうだった?」
「……強かった。でも、剣は抜けた」
「抜けたのね」
「ああ。……ちょっとだけ、楽になった」
五十鈴は微笑み、ツルキの肩に手を置いた。
そしてその肩が、ふっと沈むのを感じた。
それは、ツルキという少年が、
人として初めて「力を抜いた」瞬間だった。
空海が山を去った数日後。
早朝の霧がまだ谷を包む頃。
彼はいつものように静かに立ち、
五十鈴の目をまっすぐに見つめた。
「行ってくる」
それだけを言うと、
五十鈴は何も問わず、にこりと笑って頷いた。
高野への道は、険しかった。
けれど、ツルキにとっては、山道も谷も、風も全てが教えだった。
道そのものが“問い”であり、
足を進めることが“答え”だった。
途中、ひとりの修験者とすれ違った。
彼は立ち止まり、ツルキをじっと見つめた。
「その剣は、何を斬る?」
問われて、ツルキは言った。
「……斬らずに、見極めたい」
修験者は笑って道を開けた。
高野の地に辿り着いたとき、
空海はまだ小さな庵にいた。
「来たか」
ただそれだけの言葉に、
ツルキはわずかにうなずいた。
その日から、ツルキは空海の傍で過ごした。
塔が建てられ、経が唱えられ、
山の中に“結界”が張られていく。
ツルキは剣を手に、
時には護り手として、時には静かなる見届け人として、
その開山の時を共にした。
「この山は、祈りの塔になる。
現し世と、隠り世の境界だ。
いずれ、幾多の魂がここに集まるだろう」
空海はそう言い、
ある晩、ツルキと共に、奥の谷に向かった。
「ここに、私の“在る”を遺そうと思う」
月明かりに照らされたその場所に、
空海は深く座し、静かに経を唱えた。
ツルキはそっと、剣を立てた。
その剣は、空海の声に呼応するかのように、
一瞬、薄青く輝いた。
「……そなたの剣は、いつか“境”となるだろう。
人と神、過去と未来――
斬るのではなく、つなぐ剣として」
空海の言葉に、ツルキは目を伏せた。
翌朝、空海は姿を消していた。
ツルキは、何も言わずその場に座し、
しばらく山を見つめていた。
そして立ち上がり、
背中の剣にそっと触れ、
また歩き始めた。
高野の霧の中へ――
その姿はすぐに見えなくなった。
けれど、その足跡は、
確かに山に、そして剣に刻まれていた。
第六章 巡る者たち
高野を後にしたツルキは、
静かに歩き始めた。
剣は腰に、心は空へ。
山を越えた先、
金の肌をした大きな男に出会った。
坂田金時。
気は優しく、腕は強く、
その笑い声は山の獣すら静めた。
「鬼を追う。お前も来るか」
そう言われ、ツルキは頷いた。
旅路の果てにいたのは、
人の言葉を知る鬼――
酒呑童子。本物の鬼。
ツルキはその時、
初めて斬るために、剣を抜いた。
それが、最初で、最後だった。
またある時、
京の都を駆ける若武者に出会った。
源義経。
幼さと気高さを併せ持つその眼差しは、
まるで炎のようだった。
「平家を討つ。だが、見えぬ“もの”が戦の裏にいる」
ツルキはその影を祓い、
義経の剣に、ただ祈りを重ねた。
京の空が血に染まった時、
ある男が剣ではなく、
術と呪をもって比叡の山を攻めようとしていた。
名は、細川政元。
飯縄の術。
その瞳は、まるで人ではなかった。
ツルキは剣を抜かず、
五芒星の結界を張り、言霊で応じた。
剣では届かぬ魔が、
この世には確かに存在する。
そうしてツルキは、
必要とあらばどこへでも赴き、
誰にも知られず、誰にも語られず――
ただ静かに、祓いと祈りの旅を続けていた。
帰る場所が、あの山にあることを、
知っていたから。
そして、どんなに長い旅のあとでも、
彼が帰れば、そこには、
にこにこと笑う、五十鈴の姿があった。
剣を下ろし、何も言わず膝枕に身を預ける少年。
それが、ツルキという存在の――唯一の安らぎだった。
第七章 ーいまでもー
その日も、山は静かだった。
鳥の声がし、風が笹を揺らし、
水は変わらず流れていた。
ただ、ツルキは、戻らなかった。
「……安土へ、行ってくる」
そう言い残して、彼が山を降りたのは、
ほんの一月ほど前のことだった。
剣を腰に、表情はいつもと変わらなかった。
でも、五十鈴にはわかっていた。
あれが――覚悟の顔だったことを。
だから、何も問わず、笑って見送った。
あれから、便りはない。
鳥も、風も、剣も、
ツルキの気配を連れてこない。
「……ふふ」
五十鈴はいつものように、囲炉裏に火をくべる。
湯を沸かし、縁側を掃き、山の社を清める。
「今日はね、少し春の匂いがしたわよ」
誰に言うでもなく、空へ話しかけるように。
ある晩、夢を見た。
ツルキが、まだ幼い頃の姿で、
自分の膝に頭を預け、眠っていた。
五十鈴は、その髪を撫でながら、
そっと囁いた。
「おかえりなさい。……ゆっくりで、いいのよ」
その夢から覚めた朝、
五十鈴は、ただ静かに笑った。
時間は流れる。
人々は忘れる。
けれど、ツルキの剣は――
いまもどこかの磐座に、静かに横たわっている。
そして、五十鈴は――
今日も社で、変わらずに、待っている。
その小さな、静かな祈りが、
風となり、草の匂いとなって、
山に、町に、夜に、春に、
そっと満ちていく。
誰も知らない。
ツルキのことも、五十鈴のことも。
けれど、いまでも――
彼女は、待っている。
ただ一言、「おかえり」と言うために。
完

