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雛蕎麦


    副材料を混ぜて作る蕎麦を変わり蕎麦といいます。有名なものは柚子の皮を混ぜた柚子切り、桜海老を混ぜた桜海老切り、卵を混ぜる玉子蕎麦切、伊勢エビのすり身を混ぜた海老蕎麦切り、そして抹茶を混ぜる茶蕎麦切りです。のちほど詳しく書きますが、昔はこの変わりそばが雛祭りに華やかさを添えていました。

更科そば

 一般的には、更科そばの発祥は1789年(寛政元年)に麻布永坂町で創業した「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」だと言われています。しかし、お馴染みの日新舎友蕎子の『蕎麦全書』(1751年)には、

 馬喰丁三丁目横町、甲州屋さらしなそばあり。信濃蕎麦の心ならん。人々是を賞す。(中略)浅草並木町爺屋更科そば、横山丁甲州屋を学びしなり。

 と、1751年の段階で二軒の「さらしなそば」の店を上げています。これは記録にある布屋太兵衛の店よりも前のことです。とは言え、更科蕎麦のパイオニアを探るのが本稿の目的ではありません。更科蕎麦を持ち出したのは、その特徴である色白そばが眼目だからです。

株式会社おびなたHPより

色白そば

 蕎麦の実は、上の図のように外側の殻、次にあま皮、さらに内側に胚乳と胚芽が存在しています。これらの異なる部分を挽いて得られる粉がそば粉で、主に3種類に分類されます。

 ソバの実を挽いて最初に得られる粉が「一番粉」です。一番中心部から出てくるのが不思議かもしれませんが、中心部が一番柔らかいので、実が割れたときに真っ先に出てきます。一番粉は胚乳の中心部分で、その成分はほとんどがデンプンなので、色が白く、ほのかな香りと上品な甘味があります。半面、タンパク質がほとんど含まれていないため、そば打ちには高い技術が求められます。その一番粉で作られるのが白い「更科そば」です。

二番粉

 ちなみに、二番粉はわずかですが内層粉や外層粉も混ざるので、淡い緑やクリーム色しています。香りや風味も豊かで、食感、香りのバランスが良い蕎麦になります。業界では「並粉」と呼ばれ、一般的に広く使われています。

三番粉と挽きぐるみ

 ここまで来たら三番粉にも触れないわけにはいきません。二番粉の後に得られるのが「三番粉」です。この粉には あま皮や外層部分が多く含まれ、タンパク質やルチンなどの栄養成分も豊富です。そば粉の色はグレーがかった黒に近く、繊維質が多く含まれています。風味は一番粉や二番粉に比べて最も強いので、三番粉を使う「やぶ蕎麦」には根強いファンがたくさんいます。

 これら一番粉、二番粉、三番粉の全てが含まれる「全層粉」を使った、風味豊かなそばを「挽きぐるみ」と呼びます。

更科そばと変わりそば

 なぜ更科そばを持ち出したのかと言えば、多種にわたる変わりそばのほとんどは更科そばが登場したことで誕生したそば・・だからです。二番粉、三番粉、あるいは挽きぐるみに桜海老や抹茶を混ぜてもきれいに発色しません。また、柚子の皮を混ぜても、蕎麦の香りに負けてしまいます。そのため、変わりそばのほとんどは更科そばのお店で扱われます。

クローン雛人形

雛蕎麦

 1830年(文政13年 )、「嬉遊笑覧きゆうしょうらん」 という随筆が刊行されました。著者は喜多村信節という国学者です。同書は各巻上下2章から成る全12巻と付録が1巻で、江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲について詳しく解説したものです。その中に江戸の雛祭りと蕎麦についての記述があります。

 今江戸の俗にひなを取りをさむる時 蕎麦を供ふ。何れの頃よりするにか、いと近きことなるべし。こは長き物の延ぶるなど云ふことを祝ふ心に取りたるなるべし。

《 昨今、江戸では雛人形をかたづけるときに蕎麦を供える。いつからそうするようになったのかは判らないが、ごく最近のことだと思われる。これは、長く伸びるもので長命を祝うものである。》

嬉遊笑覧より

 同書はこの風習がいつ頃から始まったのかは不明としていますが、この部分の記述は昭和初期に刊行された重版にのみ記載されています。

三色そば

   当初、雛人形をかたずける時に供えられた蕎麦はただの二八蕎麦でした。しかし、いつの頃からか、三色蕎麦に変化します。三色とは通常は白・緑・赤で、白はただの更科蕎麦で、緑は茶蕎麦です。上の写真は白の代わりに黄色のクチナシそばになっていますが、これは現代のものです。ここまでやると信号そばなので少々やり過ぎ感がありますが、気になるのは赤い蕎麦の原料は何だったのか?   ということです。

クチナシ?

赤い蕎麦

   文献では「赤い蕎麦」と書いてあるだけですが、上の写真の赤は紅花そばのように見えます。 他に赤系のそば切りとして考えられる素材は「桜海老そば」と「桜そば」があります。桜海老そばはきれいなピンク色に発色しますが、桜の花を使う桜そばはそれほど色が付きません。そこで紅花や食紅を併用して色を補ってやることがあります。今回はそのあたりを深掘りせずに、また別の機会にしておきます。本題は、「なぜ今は雛蕎麦が一般的ではないのか?」です。

五節句の廃止

   明治6年(1873年)、政府はそれまでの太陰太陽暦(旧暦)を廃止し、世界基準である太陽暦を導入しました。先行する欧米諸国に追い付こうとしたわけですが、それと共に五節句の祝日(現在の祝日の概念とは若干違います)を廃止します。

   その理由は、「五節句などの行事は、根拠が曖昧で実用的ではない」ということでした。しかしそれは表向きで、真の狙いは江戸幕府が制定した祝日を否定することで新政府と新時代を印象づけることでした。

国家公務員の給料

    余談ですが、旧暦では3年に1度(正確には19年間に7回)うるう月が入って1年が13ヶ月になります。新暦が導入された明治6年は正にその閏月、「閏6月」が入る年でした。

   その新暦移行は、前年の明治5年11月9日に発表されました。その内容は「今年は12月2日で終わりにします。その翌日(旧暦12月3日)が新暦の1月1日になります」というものでした。実に残り1か月を切ってからの発表という暴挙です。当然日本中が大混乱に陥りました。

    明治政府がこの暴挙に打って出たのは、国家公務員の給料を13か月分支払うのが嫌だったからだと言われています。

上巳の節句から雛祭りに

   しかし、いくら政府が廃止を宣言しても、国民は簡単に五節句を忘れませんでした。五節句とは
▶人日(1月1日)
▶上巳(3月3日)
▶端午(5月5日)
七夕しちせき(7月7日)
▶重陽(9月9日)
ですが、このうち、上巳の節句と端午の節句には雛人形、武者人形・鯉のぼりという象徴的なアイコンがありました。それらは政府が廃止を発表しても形として家庭にあるので、『女の子の節句』『男の子の節句』として残りました。

消えた雛そば

   ただ、政府が公式に節句を否定したため、派手に祝うことがはばかられ、料理やお供えものはすっかり簡素化してしまいました。かろうじて端午の節句では粽や柏餅が、雛祭りでは雛あられや菱餅が生き残っていますが、雛そばは姿を消しました。

   今やすっかり家庭では見なくなった雛蕎麦ですが、 更科系の老舗では今も三色蕎麦を出しているお店があります。今年はもう過ぎてしまいましたが、来年の雛祭りには雛蕎麦をいかがでしょうか。

▶浦島太郎
▶徐福
▶八尾比丘尼
▶ジュゴン
▶ニホンアシカ
▶オオサンショウウオ
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