なぜ そば湯を飲むようになったのか?
そば湯はお好きですか? 筆者はそば湯も、蕎麦焼酎のそば湯割りも大好きです。そこで、すべてのそば好きに問いかけます。なぜそば湯を飲むのですか? おいしいからですか? 消化にいいからですか? 今月は、『蕎麦食推進クラブさざれ石~勝手に1周年記念』として、先月の「そばと忍者」の続編をお届けします。あくまでも私説ですし、少々長くなりますがよろしくお付き合いください。

前回までのあらすじ
京の御所で誕生したそば切りを、延暦寺で修行していた天海が信州・戸隠の顕光寺に伝えました。今月は、戸隠・顕光寺から出雲の鰐淵寺にそば切りが伝えられるところから始めます。

鰐淵寺
鰐淵寺(島根県出雲市)は、松江生まれの武蔵坊弁慶が修行した天台宗の寺院で、山陰有数の修験道の修行場でした。また、出雲大社の別当寺(神社の管理を任された寺)でもあることから、山陰の政治・経済にも影響を与えました。
戸隠の顕光寺と出雲の鰐淵寺は、どちらも天台宗の重要寺院であり、修験道の修行場であることから、たくさんの修験者が双方を行き来しました。松江生まれの武蔵坊弁慶もその一人で、そういった修験者が戸隠のそば切りを鰐淵寺に伝えたと推測します。それは修行中の食事としてそば切りが重要だったからです。
鰐淵寺に伝えられたそば切りは、信州ゆずりの盛りそばで、辛味大根による「おしぼりそば」で食べられたのだと思います。そのそば切りはあくまでも修験者の食べ物でしたが、江戸時代の初期に鰐淵寺が管理する出雲大社にも伝えられ、大社の参道にそば切りの屋台が建ち並ぶようになります。

釜あげそば
出雲大社では旧暦10月に、日本全国から神様がお集まりになられる「神在祭」が行われます。その祭は、遅くとも鎌倉時代には始まっていたと考えられます。
出雲大社の参道では、江戸時代初期から神在祭のために集まった人達に鰐淵寺から伝えられた信州そば切りを売るようになりました。しかし、あまりにも客が多いために盛りそばでは提供が間に合わなくなりました。
短時間に数をこなさなければならないのであれば、なるべく工程は少ない方が有利です。そこで、茹でたそばは、冷水で洗わずに、茹で汁ごと器に入れて提供することにしました。これが出雲名物「釜あげそば」の誕生だと筆者は考えます。

松平直政
一般的には、 出雲そばの起源は『松江藩主・松江直政が蕎麦職人を信州・松本から連れてきた』ということになっています。これについてはいずれまた書くつもりですが、今回は『松江の割子そばと出雲の釜あげそばの出自は別だと思う』と言うに止めます。

出雲のそば食中り予防
10月の「おしぼりそば」で詳しく書いたように、そば切り(盛りそば)が戸隠から出雲に伝えられる時に、そばによる食中りを防ぐための食べ方=おしぼりそばもセットで伝えられたと思われます。しかし出雲では盛りそばではなく、釜あげそばが主になったためにおしぼりそばは廃れてしまいます。
それで出雲では食中りが増えた…わけではありません。食中りの正体は蕎麦アレルギーと思われるので、それは当然だと今なら分かります。しかし、当時はそうではありませんでした。「おしぼりそばで食べなければ中る」と言われていたのに、そうでもないぞと。それはなぜか? 行き着いた答えは「釜あげそばの白濁汁が食中り予防になる」でした。

横田小そば
少し寄り道しますが、釜揚げそばは「蕎麦の風味」が命です。昔の出雲そばは奥出雲の在来種である「横田小そば」の玄蕎麦を使っていたので風味が強く、釜揚げにしてもおいしかったそうです。しかし、横田小そばは、茎が細くて折れやすい上に、収穫量が一般的な改良品種の半分ほどしかなく、いつしか作られなくなりました。現在は、平成の中頃に地元の人たちが復活させた横田小そばが、少量ながら十割で奥出雲町周辺で食べられます。この蕎麦は現代の蕎麦とは風味が一味違うのでぜひお試しください。

信州の悩み
出雲で釜あげそばが流行っているころ、信州では少し困った事態に陥っていました。と言うのも、食中りを防ぐための「おしぼりそば」で食中りは防ぎきれないと分かってきたのです。

佐久之宮講社
話は変わって信州・佐久です。その昔、佐久に「出雲大社 佐久之宮講社」という講がありました。「講」とは、同じ神仏を信仰する人々が集まって結成した団体です。
「なぜ信州で出雲大社なのか?」ということなのですが、実は出雲と信州には昔々から深い絆がありました。

国譲りの神話
昔々、アマテラスオオミカミに命じられたタケミカヅチなどの神が、出雲にいるオオクニヌシノミコトに国を譲るよう迫ります。 オオクニヌシは息子のコトシロヌシに判断を委ね、コトシロヌシは国譲りに同意します。
しかし、もう一人の息子であるタケミナカタは力比べを挑み、タケミカヅチに敗れて信濃の諏訪まで逃れ、最終的に国譲りに同意します。
こうして国譲りが成ったのですが、オオクニヌシノミコトが隠遁するための館として与えられたのが出雲大社です。そして、力比べに負けて信濃の諏訪に隠遁したタケミナカタの館が諏訪大社なのです。つまり、出雲大社と諏訪大社は親子関係なのです。
この神話は勝った高天原の神々が作ったものなので、穏便に書いてありますが、史実としては戦だったのでしょう。現在も高天原系の末裔である天皇家は出雲大社の本殿に立ち入ることはできません。

諏訪大社と佐久
佐久の旧山田郷は、かつて諏訪大社(上社)の神領でした。その神領に鎮座するのが、現在も諏訪大社との関連が深く、神事も行われている山田神社です。また、佐久市内には諏訪大社から分霊された諏訪神社が多数あり、諏訪大社との深い繋がりがあります。そういった土地柄なので、諏訪大社の親である出雲大社への信仰が篤いのも当然でした。

佐久・篠澤家
佐久之宮講社の歴史は長野県の講としては最も古く、おそらく室町時代には存在していたと思われます。講社長の篠澤家は紀伊国造(律令制以前の地方豪族で、紀伊国の政治や祭祀を司る役割を担っていました)の末裔で、滋野姓望月氏の一族です。ちなみに、滋野姓は海野氏・根津氏・望月氏に別れ、その海野氏の中で、現在の長野県上田市真田町地域に住み着いた一族が
『真田』を名乗ります。

現代の佐久之宮講社
佐久之宮講社の現在の講社長は、篠澤家の19代当主で佐久ホテル社長の篠澤明剛氏です。篠澤明剛氏は平成3年(1991年)に出雲大社教布師の資格を取り、権少講義(教導職の官位)を拝受し、新たに佐久之宮講社を設立しています。

釜あげそばの噂
昔々から、佐久之宮講社の関係者は定期的に出雲大社を訪れていました。当然、出雲大社参道の釜あげそばも食べたはずです。そして釜あげそばが「そばの食中り」に効くという噂は佐久に伝えられます。

佐久のそば
佐久では今から70年ほど前までは商売としてのそば屋はありませんでした。それまでの佐久では、そばは家庭料理や振る舞い料理で、江戸時代初期までは日常的におしぼりそばを食べていました。
記録によると、佐久之宮講社でも、講社員の集まりで、講社長の奥様が手打ちそばを振る舞われていたようです。その席上でも そばの食中りは話題になったのですが、おしぼりそばに代わる毒消しはありませんでした。そこに出雲の釜あげそばの噂がもたらされます。
『釜あげそばで食中りを防げるらしい』と言うのですが、当時の信州にかけそばはありませんでした。そこで『釜あげそばの汁=茹で汁だけ飲めば良い』となりました。これすなわち『そば湯』です。
尚、かけそばの原型である『ぶっかけそば』は、1750年ごろ(第9代将軍家重のころ)に江戸で誕生するので、釜あげそばはそれよりもかなり前に登場していたことになります。

江戸のそば食中り
所は変わって江戸のそば事情です。
以前に詳しく書きましたが、信州から盛りそばが伝えられた江戸では「おしぼりそば」ではなく、山葵でそばの食中りを予防していました。しかし、庶民が手軽に山葵を使えるわけもなく、また例え山葵で食べても、当たり前ですが食中りは防げませんでした。
何しろ当時の江戸は世界一の人口密集都市です。分母が桁違いに大きいので、確率的にも信州や出雲とは比べ物にならないほどそばによる食中り(そばアレルギー)が多かったのは当然です。

朗報
「そばで中る
ことがあるんだってよー」
「おめえ、怖いのか?」
「ばか言いねぇ、食中りが怖くてそばが食えるか」
なんて言いながらそばを食べていた江戸っ子に朗報がもたらされたのは元禄10年(1697年)でした。
「蕎麦切りを食べた後で蕎麦湯を飲まねば病気になる、また過食して腹が飽脹しても蕎麦湯を飲めば害がないというが、まだ試していない」
と、『本朝食鑑』に掲載され、話題になります。
また、寛延4年(1751年)に刊行された「蕎麦全書」では次のように書かれています。
先年所用で信州諏訪辺を通る事有り。信濃そばの名物振りを聞いていたので、旅宿でそばを所望したが、其そば製大きによし。成程名物程の事有り。そして、そば後直に蕎麦湯を出して飲しむ。江戸ではそば切を人に振舞う時は、定って吸物とて豆腐の味噌煮を出す。能麪(麺)毒を解すと云伝ふ。然るに其分け有やと尋ねたところ、「そば後直に蕎麦湯を飲む時は食するそば直に下腹に落着て、たとえ過食すとも胸透きて腹意大きによろしき物也。当地の風俗皆か様なり」とのことであった。其後、気を付れば、成程食能落着て、腹意の宜敷事を覚へたり。帰郷の後、信濃風とて・・そば湯を出して饗応せしに、江戸などにてはせぬ事故、中々珍敷一興なりとて皆賞しけり。
当時の江戸では、そばは消化が悪く、痛みやすいので食中りになると考えられていました。そこで、「そばの後には麺毒を消すために豆腐の味噌煮を吸物として出す」と書いてありますが、これは屋台ではなく、料亭や格式高い蕎麦屋でそばを出すときの話です。大多数の、担ぎ屋台でしかそばを食べられない庶民レベルでは打つ手なしといった状況でした。

そば湯はメジャーに
山葵を使うのは盛りそばで、そもそも庶民には山葵は手が出ない代物でした。豆腐の吸物でも食中りは防げないし、屋台のかけそばなら尚更だと、皆がうすうす気づいていたところに、「どうやらそば湯で食中りが防げるらしい」という噂が聞こえてきます。
「いいこと聞いた!」
「そば汁を出しやがれ!」
「俺を殺す気か!」
とまで言うようになり、そば湯は江戸でも常識となりました。めでたし、めでたし。

