第11話『母の声を聞いた気がした』
夜が明ける頃、俺はまだ家に帰れずにいた。
団地の非常階段に腰を下ろし、微かな朝焼けを見上げながら、さっきまでの凛との会話を何度も反芻していた。
俺の中で、あの夜の記憶は確かにあいまいだった。
でも、なぜか胸の奥に、ひどく冷たい“感覚”だけは残っている。
「お母さん……」
口に出すと、思っていたよりずっと柔らかい響きだった。
もう長いこと、口にしていなかったのに。
母のことを、ずっと封じ込めてきた。
「事故だった」「誰のせいでもない」
そう言われて、俺自身もそう思い込もうとしてきた。
でも凛が言った。
“あの夜、お前もいたんじゃないか”――と。
「……俺は、何を見た? 何を、忘れてる……?」
頭の奥がズキンと痛む。
――ぎぃっ。
古い鉄の扉が開く音。
驚いて振り返ると、そこには陽葵が立っていた。
「……陽葵?」
「……探した。……全然、連絡くれないし」
「ごめん」
陽葵は、目の下にクマを作っていた。
ちゃんと寝ていないのは明らかだった。
「凛と、会ったんだろ?」
「……ああ」
「何か、聞いた?」
陽葵の目はまっすぐだった。俺は、目を逸らした。
「……あいつ、谷口と揉めたあと、現場に戻ったら……俺と、あんたの母さんがいたって」
陽葵の瞳が、わずかに揺れた。
「……それ、本当なの?」
「……わかんねぇ。俺も記憶が曖昧なんだ。母さんが死んだあの夜と……谷口の夜が、重なって……何が現実か、どこまでが俺の記憶なのか、自分でもわからなくなってきてる」
陽葵はしばらく黙っていたが、やがてそっと腰を下ろした。
「私ね、母が何かを隠してるって、ずっと思ってた。谷口のことも、昔のことも。でも聞くたびに“関係ない”って。……あの人、いつもそうだった」
「……」
「私の父のことも、結局なにも教えてくれなかった。全部、『あんたに関係ない』って……」
俺は、ゆっくりと陽葵の方に体を向けた。
「……俺たち、誰かの秘密の中に閉じ込められてんのかもしれないな」
「うん。そうかもね」
陽葵の横顔はどこか遠くを見ていた。
まるで、過去の景色をなぞるように。
そのときだった。
ふっと、風が吹いた。
風の中に、誰かの声が混じったような――気がした。
“燈……ごめんね”
俺は、反射的に振り返った。
でも、そこには誰もいなかった。
「……母さん?」
陽葵が怪訝そうに俺を見た。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない。空耳だ」
でも、あの声は、確かに“母の声”だった。
そしてその声には、初めて――悲しみと、愛があった。
俺の中に、何かが静かに揺らぎ始めていた。
