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「G線上のアリア」(ヨハン・セバスティアン・バッハ)

 ヨハン・セバスティアン・バッハの数ある作品の中で「管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068」の第2曲アリア (Air)」(通称「G線上のアリア」)と「主よ、人の望みの喜びよ」は現代でも至るところで耳にすることの多い作品です。しかし、これらの作品は作曲当時の「原曲」ではなく、後に「アレンジ」された方が有名になった例でもあります。その二つの時代を渡る旋律をこれから紹介できたらと思います。

 18世紀初頭、ドイツのケーテンという小さな宮廷に、ひとりの作曲家がいました。名はヨハン・セバスティアン・バッハ。当時の彼は、教会のための宗教音楽から少し距離を置き、宮廷のための世俗的な器楽曲を次々と書き上げていました。
 その中のひとつに、華やかな舞曲を集めた「管弦楽組曲第3番 ニ長調」がありました。そして、その第2曲には、ひときわ静かで美しい第2曲「アリア」が収められていました。
 弦楽器だけの編成、ゆったりとした拍子。高いヴァイオリンの旋律は絶え間なく歌い、中音域の弦は穏やかに脈打ち、低音はゆるやかに歩む。まるで、静かな湖面に差し込む光のような、透き通った時間がそこにはありました。
 しかし、この「アリア」は当時それほど大きな話題にはなりませんでした。宮廷の晩餐や儀式で流れる静かな一幕として存在し、やがて時の流れに埋もれていったのです。
 時は流れて19世紀末。
 バロック音楽の再評価が進む中、ドイツの名ヴァイオリニスト、アウグスト・ヴィルヘルミがこの「アリア」に出会いました。
 彼は思いました――
 「この旋律を、もっと深く、もっと温かく響かせたい」。
 そして試みたのは、原曲の調性を下げ、ヴァイオリンの最低音弦である「G線」だけで演奏できるようにすることでした(これがこの曲の「通称」の由来でもあります)。
 また、伴奏も控えめにし、旋律を包み込むような柔らかさを与えました。
 こうして生まれたのが、現代の私たちが知る「G線上のアリア」です。
 この編曲は、原曲の清澄さを残しながらも、ロマン派的な叙情を加え、結婚式、葬儀、映画、テレビCMといった至る場面で人々の心をつかみました。

 ※原曲版に近いです。

 ※ヴィルヘルミの編曲版のチェリストによる演奏です。

 バッハの「G線上のアリア」には、18世紀の宮廷音楽と、19世紀のロマン派的解釈の歴史の二重奏があります。その旋律は、喜びの場にも悲しみの場にも似合う、万能な情感が漂っています。
 私たちは、この作品を場面に合わせて聴き比べたり、聴き分けたりしながら、大切にし続けることでしょう。


ヨハン・セバスティアン・バッハ年表(1685-1750)

 バッハは現代において、「大バッハ」「音楽の父」と呼ばれている。また、数あるバッハの作品の中で「平均律クラヴィーア曲集 第1巻、第2巻」は「音楽のバイブル」とも称されるほど、世界中で広く愛されている。

1685年、神聖ローマ帝国領アイゼナハに音楽一家の末子として生まれる。9歳で母、10歳で父を亡くし孤児に。兄ヨハン・クリストフに引き取られ、音楽を学ぶ決意を固める。
1690年代、兄の蔵書から楽譜を密かに写譜し、独学で鍵盤技法を磨く。
1703、アルンシュタット教会オルガニスト就任。礼拝音楽に独自解釈を加えすぎ批判を受ける。自分の音楽的理想を優先し、規則より表現を重視した。1705年、無断で4カ月の休暇をとり、リューベックでブクステフーデの演奏を聴く。その後、長期の無断欠勤で教会役員と対立した。
1708年、ヴァイマル宮廷楽師に就任。後に楽長となる。宮廷内での昇進争いに敗れ、辞職を願うも拒否され1カ月拘禁1カ月される。自らの成長と活動の自由を求め、逆境でも作曲を続ける。
1717年、ケーテン宮廷楽長に就任。「無伴奏チェロ組曲」、「管弦楽組曲第3番(「G線上のアリア」を含む)」をこのケーテン宮廷楽長時代に作曲。
1720年、妻マリア・バルバラが急死。
1721〜22年、悲嘆の中でも「ブランデンブルク協奏曲」や「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」などの創作を継続した。
1723年、ライプツィヒ聖トーマス教会カントルに就任。カンタータ「心と口と行いと生活によって(「主よ、人の望みの喜びよ」)を含む」を作曲。市参事会と音楽方針で対立。壮大な作品が時に理解されなくなる。しかし、信仰と芸術を融合させる理念を崩さず、創作を続ける。
1727年、「マタイ受難曲」初演。一部聴衆から「規模が大きすぎる」と批判を受けるも、聖書の言葉を音で表現する使命感を優先した。
1730〜40年代、カンタータを多数作曲する。「ゴルトベルク変奏曲」や「フーガの技法」、「平均律クラヴィーア曲集 第2巻」などを制作。流行は次第に変化し、若い世代から「古風」と見なされる。流行に迎合せず、対位法の極限追求に情熱を注ぐ。
1740年代後半、視力が悪化し、眼科手術を受けるも失敗し失明。演奏・作曲に制約が増える。健康悪化の中でも未完の「フーガの技法」に取り組み続ける。
1750年7月28日、ライプツィヒで死去。晩年は地位や名声が低下した。芸術の完成よりも探究の過程に価値を見出し、最後まで創作を続けた。

 バッハには、孤児や拘禁、健康悪化にも屈せず創作と演奏を続けた不屈の探究者としての面と、規則や時代の流行より、信じる音楽表現を貫く理想を優先した芸術家としての面、また、教材も芸術作品として仕上げ、後進育成に尽力した教育者としての面があった。そのすべてが「音楽の父」と呼ばれるに相応しい姿だった。

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