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敬老パスの旅、十八区をめぐって 横浜散歩 #15旭区 鶴ヶ峰・帷子川 重忠に会う水の道

6月15日、火曜日。晴れ。関東地方は前日梅雨入りしたはずだが、雨の気配がない。上空に寒気が入り、真夏日にはならなそうだという予報である。これはチャンスとばかりに、かねて計画していた旭区散歩に出かけることにした。敬老パスで市営地下鉄と路線バスを乗り継ぐこの旅も第15弾、これで横浜18区のうち16区を回ることになる。

あざみ野からセンター北、中山と乗り継ぎ、鶴ヶ峰行きのバスに飛び乗る。いつも鬼門の中山駅で、今回もバス停を探して南口へ走らされ、別系統の行列に並びかけて慌てて乗り換えた。神奈川中央交通のバスに揺られ、対向車とすれ違うのもやっとという細い道を30分ほど行くと、鶴ヶ峰に着いた。ここに来るのは初めてだった。旭区自体、ゴルフ帰りの渋滞抜け道として通過する以外、ほとんど縁のない土地である。

目当ては、水である。旭区若葉台に発し、横浜駅周辺で東京湾に注ぐ帷子川を、水道橋のたもとから遡ってみようと思い立った。この一帯には鎌倉武将・畠山重忠の伝承が点在しているとは聞いていたが、正直なところそれはついでのつもりだった。歩き始めてすぐ、その順序は逆転する。

帷子川はさっそく姿を見せた。紫陽花の季節、右岸の遊歩道をしばらく行くと、旭区総合庁舎の敷地の隅に、ただの井戸としか見えない一角があった。首洗い井戸とある。案内板の文字を読み進めるうち、足が止まった。元久2年(1205年)、鎌倉に至急参上せよという虚偽の命でここまで呼び出された畠山重忠が、北条勢の大軍に待ち伏せされて討ち死にした。享年42。知勇兼備の武将として幕府創業を支えた男の最期の場所が、この何の変哲もない道端である。水を追うつもりが、この土地の記憶に足を止められた。

その先、帷子川捷水路トンネルの上に畠山重忠公碑が立ち、傍らに故事にちなむ「さかさ矢竹」が植えられている。首塚は重忠の首が祭られたと伝わる場所だ。碑の一つ一つは大きくない。だが順に辿っていくと、討たれた男の最後の数時間が、道の起伏そのものに刻まれていることがわかってくる。

重忠の気配を背負ったまま、帷子川親水緑道に入る。太鼓橋、吊り橋、大きな池に錦鯉が泳ぎ、等々力渓谷を想わせる心地よい緑道であった。

アオサギが水面をじっと窺い、大判のカメラを構えた三人組がカワセミを待っている。素人の私のカメラでは水色の背をとらえるのは至難の業だったが、しばらく橋の欄干にもたれて、彼らと同じ方向を眺めていた。戦の記憶と、川面の静けさが、同じ道の上で無理なく同居している。

帷子川分水路分流堰まで来る。1997年の洪水対策で、ここから地下トンネルを経て横浜港まで水が流れる。深さは最深部で約60メートル。地上には見えないものほど、長く流れているのかもしれない。

八王子街道を北へ、支流の中堀川を遡ると白根不動尊に着く。洞窟に泉が滲み出し、境内の隅に万葉集の歌碑があった。防人として九州へ発った服部於由と、その妻・呰女の返歌を刻んだものである。妻を残して去る男と、その帰りを待つ女。今朝見た重忠夫妻のことが、不意に重なった。

坂を登った先の鶴ヶ峰配水池は、道志川系統の配水拠点として旧浄水場跡地に整備されたものだが、その片隅にもう一つの墓があった。駕籠塚。畠山重忠の内室「菊の前」が、夫の戦死を聞いてこの地で自害し、駕籠ごと埋葬されたと伝わる。夫が討たれた井戸から、妻が命を絶ったこの塚まで、地図の上ではほんの数百メートルしか離れていない。朝からの自分の足取りが、そのままこの夫婦の距離を測っていた。

鶴ヶ峰神社を経て、重忠の霊堂と伝わる薬王寺に着くと、境内には郎党134騎を埋葬したと伝える六つの塚があった。数字だけなら記録にすぎないが、134と口の中で繰り返すうち、それは急に人の重さに変わる。

重い話ばかり追っていると、腹も減る。正午、目当てのラーメン屋はまさかの定休日で、やむなく飛び込んだネパール料理店のサグチキンカレーセット880円が、思いのほかの当たりだった。中世から一気に現代へ戻り、香辛料で汗をかいてから、午後の道へ出る。矢畑・越し巻きと呼ばれる古戦場跡で北条勢の矢の雨を想い、清来寺で重忠所持と伝わる観音像の埋められた鐘楼塚に手を合わせる。重忠を追う道のりはここまでとし、あとはまた水に戻る。

今宿団地沿いの遊歩道でようやくカワセミをカメラに収め、帷子川と矢指川の合流点を過ぎると御殿橋に出た。徳川家康が鷹狩の際に渡ったと伝わる橋である。鎌倉武士が討たれた道の続きに、江戸を開いた将軍が休んだ橋が架かっている。この先も古い社寺が点々と続くが、いずれも渋滞抜け道としてゴルフ帰りに何百回と車で通った道沿いにあった。車の窓からは、その存在に一度も気づかなかった。

川幅がいよいよ用水路のように細くなった頃、大貫谷戸水路橋に着いた。トレッスル橋脚を組んだ水路橋で、今朝方バスの車窓から見上げた梅田谷戸水路橋、鶴ヶ峰の第3鋼路橋とともに「三つ子の兄弟」と呼ばれる。1952年、川井浄水場から旧鶴ヶ峰浄水場までの導水路が築かれたとき、同じ形式で同時に架けられた。相模湖の水源から西谷浄水場まで、原水は何十キロもの道のりを、こうした鉄骨の橋やトンネルを乗り継いで運ばれてくる。夕方の逆光の中、細身の橋脚が畑を大股にまたいでいく姿は、土木構造物というより、水を運ぶ生き物の脚のように見えた。ゴルフ帰りにいつもこの下を潜りながら、正体を知らずにいた。しばらく畑の縁に立って、見飽きるまで眺めた。

足の疲れもあり、水源そのものを探すのはこの辺りで切り上げ、若葉台団地の周回路からバス停へ向かう。若葉台中央からバス、中山でグリーンライン、センター北でブルーラインと乗り継ぎ、あざみ野に帰着した。

畠山重忠が呼び出されて討たれた井戸と、その妻が後を追った駕籠塚は、歩けば十数分の距離でしかなかった。その上を水道の原水を運ぶ鉄橋が渡り、鉄橋の下を私は何百回もゴルフ帰りの車で素通りしてきた。車は場所をただ通り過ぎる。歩く速度まで落として初めて、土地は物語を語り始める。あの夫婦の距離も、地下の水路も、畑をまたぐ鉄の脚も、歩かなければ見えなかった。

(2021年6月15日)

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