敬老パスの旅、十八区をめぐって 横浜散歩 #10港北ニュータウン 時間を掘りあてる旅
1月14日、木曜日。晴れ。天気予報が「3月下旬から4月上旬の暖かさ」という。厳冬期は博物館か美術館をメインにと考えていたが、そんな心配が無用なほど暖かく、薄手のセーター1枚でも汗をかくくらいの一日になった。今日の行き先は都筑区。自宅のある青葉区の隣だから準生活圏のはずだが、日常的に訪れることはほとんどない。緊急事態宣言下の1月、人出の少ない時期に足を踏み入れるのには、むしろ好都合である。
都筑区を散歩の舞台に選んだのは、港北ニュータウンの造成工事という、一見散歩向きとは思えない話に理由がある。1970年から20年間にわたる埋蔵文化財の発掘調査で、旧石器時代から近世に至る268もの遺跡が発見されたというのだ。宅地開発とは通常、土地の過去を消す行為だと思っていたが、都筑区ではむしろ逆の結果をもたらした。土を掘ることで、それまで誰も知らなかった時間の層が次々と姿を現した。その時間の層が、今日の散歩の主題になる。ただし開発が常にそうだとは限らない、ということも今日わかることになる。

あざみ野を8時26分に出て、市営地下鉄ブルーラインでセンター北駅へ。緊急事態宣言下だが、通勤時間帯の電車は混み合っている。センター北駅の自由通路の下で、バトントワリングの練習をする女子高生がいた。天井が高いのでバトンを投げ上げても問題ない、と気づいた彼女の目のつけどころに感心しながら、まず杉山神社へ向かう。927年(延長5年)の延喜式に記された式内社で、この辺りの地名の由来が一千年以上前に遡るという事実を、駅前のショッピングモールの大観覧車を眺めながら考えると、時間の感覚が少しぐらつく。近くの慈眼寺をのぞいて、いよいよ横浜市歴史博物館へ向かう。

開館時間まであと10分ほどあったので、隣の大塚・歳勝土遺跡公園を先に見学した。弥生時代中期の環濠集落と方形周溝墓が国指定史跡として保存・復元されている。歳勝土遺跡では方形周溝墓が25基発見され、5基が復元されている。木の棺が土の中に埋まっている断面を見ながら、この住宅街の地面の下に2,000年前の墓が存在するという事実の奇妙さをあらためて感じた。

大塚遺跡では85軒の竪穴式住居が発見され、7棟と高床式倉庫1棟が復元されている。復元された住居の中に入り、土間に立つと、2,000年前の暮らしがここにあったという実感がにわかに湧いてくる。吉野ヶ里遺跡までわざわざ出向かなくても、ここに来れば十分だ、というのが率直な感想で、入場無料というのも太っ腹である。

都筑民家園には江戸時代中期の長沢家住宅が移築されており、サクッと見学して歴博へ戻る。

横浜市歴史博物館、入場料シニア100円。旧石器時代から横浜開港まで、横浜という土地の歴史を通観できるこの博物館が、今日の散歩に最もふさわしい場所であることは、展示室に入った瞬間にわかった。
展示を進むうちに、これまでの横浜散歩で訪れた場所と館内の展示が次々と結びついてくるのが、なんとも不思議な感覚であった。先月訪れた金沢区の称名寺の貝塚から出土した獣や鳥の骨がガラスケースに並んでいる。昨年11月に泉区・栄区を歩いた際に埋め戻されていて見られなかった上郷深田遺跡のふいごの羽口や鉄滓が展示されている。

鶴見区の道念稲荷神社で「コロナにも御利益があれば」と思いながら読んだ「蛇も蚊も」行事の蛇形が、思ったよりずっと大きな実物として目の前にある。鎌倉時代の展示には「各地から鎌倉に通じる道は鎌倉道と呼ばれ、この横浜散歩シリーズでも一部を歩いています」という解説パネルまで現れた。展示室の壁が、9回分の散歩日誌のようになっている。ばらばらに歩いていたつもりの点が、ここで一枚の地図に組み上がっていく感覚は、博物館という場所でしか味わえないものである。

午後の散歩へ出かける。センター北からグリーンラインで川和町へ。駅周辺は昔ながらの住宅地で、しばらくのどかな田園散歩が続く。月出松公園の中に加賀原遺跡がある。縄文時代早期の落とし穴7基、中期の竪穴住居跡17軒などが発見されているが、今は埋め戻されており、見るべきものは何もない。ただ公園の台地から、丹沢・大山の向こうに富士山が見えた。1万年前の落とし穴の上に立って富士山を眺めるというのも、なかなか珍妙な体験である。

昼食は「支那蕎麦屋 藤花」のために、このルートを選んだと言っても過言ではない。特製塩らぁ麺1,050円、満足であった。食後、緑産業道路(県道140号)を進む。

ラーメン街道と呼ばれるほどラーメン店が多い道沿いに、横浜車輌工業の製品駐車場があちこちある。同社のトレーラーは海外でも「ヨコシャ」と呼ばれ普通名詞化しているという。「ホンダ」が東南アジアでバイクを指すのと同じ現象で、知らなかった横浜の顔がまた一つ増えた。

折本貝塚の標識を探すが、それらしいものは何もない。第三京浜道路の建設時に緊急調査されたが、大部分が破壊されたためだという。道路ができて貝塚が消えた。冒頭で「開発が遺跡を発見した」と書いたが、こちらは正反対の話になる。港北ニュータウンでは土を掘って268の遺跡が現れ、折本貝塚では道路を通して貝塚が消えた。どちらも「開発」という一言で括られるが、その中身はまるで違う。かろうじて「折本貝塚橋」という橋の名だけが残っていた。橋の名が遺跡の最後の痕跡というのも、寂しいような、しかし現実的な話だと思いながら通り過ぎた。

しばらく歩くと、シニア向け大規模分譲マンションの前に出た。父母が晩年を過ごした場所である。父が他界して16年が経つが、久しぶりに両親と散歩した「せきれいのみち」を歩いてみようと思い立った。

父はここに暮らすようになってから、体を動かすのが好きになったと言っていた。せきれいのみちを歩き、せせらぎ公園に出て、カモを見る、という短い散歩を、当時の父はずいぶん気に入っていた。今日、同じ道を一人で歩く。せせらぎ公園に入ると、穏やかな冬の日差しの中でカモがたくさん飛来していた。振り返ると両親が暮らしたマンションが見える。父と歩いたとき、この川の下に何が埋まっているかなど、もちろん知らなかった。茅ヶ崎貝塚は今やマンション隣地で、面影すらない。昔も今も人が住んでいる、ということだけはわかる。

最後の目的地、茅ヶ崎城址公園に到着した。空堀・郭・土塁が良好な状態で残る中世城郭遺跡で、14世紀末から15世紀前半に築城されたと推定されている。後北条氏による築城と考えられているが、出土遺物は扇谷上杉氏との関わりを示唆しているという。

中郭、西郭、東郭、北郭と一つ一つ歩いて回ると、土塁が思いのほかしっかりと残っており、北郭に立つと往時の城の輪郭が体で感じられるほどである。港北ニュータウンの開発によって数百の遺跡が発見される一方で、この城址は住宅開発に囲まれながらも形を保っている。埋められた時間と、地上に残った時間。同じ土地の上で、どちらも今日の訪問者を迎えている。センター南駅へ歩き、ブルーラインであざみ野へ帰着。前日のゴルフに引き続いての散歩だったので、かなり疲れた。
帰りの地下鉄の中で今日を振り返ると、歩いた道のあちこちに時間が重なっていた。1万年前の落とし穴、2,000年前の竪穴住居、中世の城址。歴博の展示室では9回分の散歩が一枚の地図になり、折本では開発が時間を消した跡を見た。そしてせきれいのみちでは、父と歩いた記憶が川面に揺れていた。カモの浮かぶせせらぎ公園を振り返ると、両親が暮らしたマンションの窓に冬の午後の光が当たっていた。
(2021年1月14日)
