小樽紀行 後編 飲めぬウイスキー
6月2日、朝7時過ぎにホテルを出た。曇りときどき晴れ。宿の朝食は取らず、2時間ほど街を歩くつもりでいる。
中央通りを海へ下り、色内大通りへ入った。明治の末から昭和の初めにかけて建った商館と倉庫が、通りごとに残っている。石造りのものが多く、朝の光の当たり方で、壁の色がそれぞれ違って見えた。屋根に大きなシャチホコを載せた一棟もある。北運河沿いの旧大家倉庫は、そのなかでも最も古い部類だという。
石狩湾へ抜ける月見橋を渡り、旭橋のあたりまで来たとき、7時半に突然サイレンが鳴って驚いた。北海製罐小樽工場の予鈴である。小樽にただ一つ残った製缶工場だと聞いた。

街に時刻を告げる音が残っているのは、そこにまだ人が働いているからである。
運河の水は動かず、鴎が倉庫の屋根に並んでいた。漁協の卸売市場では、ホッケと水ダコが荷卸しされていた。部外者立入禁止の札の外から、しばらく眺めた。台車の音と、水を流す音がしていた。
通りがかりに飴屋六兵衛本舗という店を見つけた。会社の創立は1918年だが、初代は江戸期に富山で飴屋を始め、1891年に小樽へ移ってきたという。おまけにいただいた飴玉が、昔ふうの、すっきりと上品な甘さで、土産に買い込んだ。隣の美園アイスクリームも1919年の創業で、北海道で初めてアイスクリームを製造した店だそうである。
富山から小樽へ、というのは唐突なようで、そうではない。北前船の時代から、北陸と蝦夷地の往来は盛んであった。その朝、通りがかった北陸銀行小樽支店の窓にも、そのことを説く掲示が出ていた。銀行の名も、店の系譜も、同じ海の道の上に乗っている。
旧手宮線の跡へ出た。1880年、手宮と札幌のあいだに石炭輸送のための鉄道が敷かれ、小樽の港は扱う荷が増えた。沖で艀に積み替えるのでは追いつかず、艀が倉庫の際まで入れるようにと掘られたのが小樽運河で、1923年に完成している。その手宮線も役目を終え、1985年に廃止された。いまは草の中に線路だけが残っている。

朝食は、街のセイコーマートで買ったメロンパンとりんごジャムパン、それにソフトカツゲンで済ませた。ソフトカツゲンは道民が愛してやまない北海道限定の飲料で、飲んでみるとヤクルトに似た味がする。それをホテルのロビーで広げて食べた。満足である。
食後、もう少し歩いた。商工会議所も、ホテルも、倉庫も、多くは明治から昭和の初めのもので、いまは別の用途に使われているか、使われないまま立っている。歩いていると、街全体が博物館のようで、興味深いと同時に、どうしても哀愁が混じる。
9時に宿へ戻り、支度をして9時40分に発った。海岸沿いの道を北へ、祝津へ向かう。
9時55分、鰊御殿に着いた。
西積丹の泊村の鰊親方であった田中福松が、1891年から7年をかけて建てた家である。1958年にこの地へ移された。30坪の家なら20軒は建つだけの材が使ってあるという。柱も梁も、いまでは見ることのない寸法で組まれていた。
全盛期の2月から5月には、120人ほどの漁夫がここで寝起きした。主人一家の居る側と、漁夫の寝る側は、きっぱり分けられている。館内には漁の道具と、番屋の暮らしの道具が並んでいた。修学旅行の生徒が数人、退屈そうに通り過ぎていく。

鰊は、産卵期に海を白く濁らせて押し寄せた。群来という。その群来が、1950年代に、ぱたりと来なくなった。原因については諸説あるが、要するに来なくなったのである。
この建物は、来なくなったもののために建てられた家だということになる。
高島岬の突端に日和山灯台が立っている。1883年の初点灯で、木下惠介の「喜びも悲しみも幾年月」の撮影に使われた。沖にトド岩が見える。野生のトドが棲むというが、この日は姿がなかった。
11時過ぎ、旧青山別邸に寄った。
青山家は1859年に山形から渡道し、留吉、政吉の親子二代が鰊漁で巨万の富をなした。三代目の政恵が1917年から6年半余りをかけて建てたのが、この別邸である。欅は酒田から大量に運ばせた。床の間には紫檀と黒檀、天井には神代杉の幅広を張り、襖絵は狩野派の流れを汲む絵師たちが競って描いたという。三方に庭があり、内部は撮影禁止であった。
鰊が海から上がるたびに、その金が欅や神代杉や紫檀に姿を変えて、この家に積み上がっていったものらしい。
なお、三代目政恵のその後については、消息がない。残っているのは家だけである。
昼は祝津の青塚食堂に入った。私は刺身定食、妻は八角焼き定食を頼んだ。八角というのは、断面が八角形をしているところから来た名だそうで、見た目はいささかグロテスクだが、数の少ない上等な魚である。サービスにホッケのすり身揚げが出た。店はあっという間に満席になり、外に列ができた。
昼食を終え、余市へ向かう。
13時、ニッカウヰスキー余市蒸溜所の正門をくぐった。前日、15分の差で外から屋根だけを眺めた、あの門である。

乾燥棟にピート、すなわち泥炭が展示してある。あのスモーキーな香りの出どころである。粉砕・糖化棟、発酵棟と進み、蒸留棟に入ると、ポットスチルが並んでいた。そのなかに一つだけ小ぶりのものが混じっている。創業当時から使われているのだという。
余市は日本で唯一、石炭の直火でポットスチルを焚いている。10分おきに石炭をくべるのだそうである。小樽が運ばなくなった石炭を、ここではまだ燃やしていることになる。
創立当時の事務所の看板には、大日本果汁株式会社とある。ニッカとは日果の略である。竹鶴政孝がこの地を選んだのは、気候と水と大麦と、そして石炭が揃っていたからだが、ウイスキーは仕込んでから売り物になるまでに何年もかかる。その何年かを、この会社はりんごの果汁を売って食いつないだ。社名はその名残である。
構内には、妻リタの名を冠したリタハウスと、旧竹鶴邸が残っている。竹鶴邸は玄関だけが公開されていて、和洋折衷の内装が覗けた。貯蔵庫は何棟も並び、一号貯蔵庫の中には樽が黙って積まれている。

見学が終わると、テイスティングの時間になった。
私は車を運転して千歳まで戻らねばならない。したがって、ウイスキーは飲めない。出されたりんごジュースを、ありがたく頂戴した。
14時に余市を出た。しばらく走ると雲行きが怪しくなり、雨がぽつぽつと落ちてきた。2日間、とうとう降られずに済んだのが、帰り道になって、ようやく間に合ったというように降り出したのである。
新千歳で車を返し、早めの夕食に海老そばを食べた。羽田には19時に着いた。着陸の少し前、関東平野の北に黒い雲があり、時折その中を稲妻が走っていた。群馬に大粒の雹が降ったと、あとで知った。
歩数計は、前日が17,925歩、この日が17,396歩を示している。鰊は去り、石炭を運んだ鉄道も消え、艀の通わなくなった運河に観光船が浮いている街を、二日かけてそれだけ歩いたことになる。その街で、朝の7時半には、いまもサイレンが鳴る。
余市の貯蔵庫には、まだ樽が眠っている。あの中で過ぎていく年月にくらべれば、私が飲むまでに待つ何年かなど、数えるほどのものでもない。
(2022年6月1日~2日)
