会社を辞めて転職した50代うつ病人間の漫書
会社を辞めた。
辞めた理由はうつ病と、半日だけ取得した残業削減休暇。
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うつ病は10年前に発症した。
大きな仕事が始まる矢先に課長の大病が明らかになった。
課長の状況はステージⅣ。原発部位の理由もあり、唯一治療が可能な病院は三次救急のある大学病院だけだった。
課長の休職後の人員補充はなく、忙しさと寂しさと不安と棘が私の心身を蝕んだ。
名ばかりの就業制限の中で、昼飯も食わず働き、17時に退勤手続きをして、22時まで「会社で休憩」していた。
「休憩」中は「暇」だったので、仕事で使うパソコンを弄ったり図面を見たり、現場のトラブル対応などをしながら過ごした。
それでも仕事を続けられたのは、闘病を続ける課長の存在と、私自身の若さのおかげだったと思っている。
数か月後、人事に関する2件の連絡があった。その連絡のあと、私は事務所を出て自動倉庫にある空調機械室で一人の時間を過ごした。
空調機械室にはウエスがあったので、困ることはなかったし、誰も来ない場所なので憚ることもしなかった。
お見舞いでお邪魔した私を、エレベーターの扉が閉まるまで見送ってくれた、そんな課長だった。
それから幾つもの橋を渡ったが、橋の下を流れるものは水でも感情でもなく、乾いた時間だけだった。今でもそれは変わらない。
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数年後、父が他界した。私は半日だけ休んで喪主を務めた。
(就業規則では10日休めるが、私は半日だけ申請した残業削減休暇≒無断欠勤で済ませた ∵期限付き法定業務の対応:業務に支障が有ってはならない)。
当該業務に関し代務者を指名できるほどの余力は職場にはなく、関係各位にはご迷惑をお掛けすることとなった。
家族や親戚にも迷惑をかけた。父には詫びることさえ叶わなかった。
火葬後の父の遺骨の入った骨壺はカバー越しでも暖かく、私は膝に温もりを感じながらカバーを濡らすものを堪えられなかった。
私は半日の残業削減休暇≒無断欠勤によって懲罰の対象となり、新しい上司も降格処分となった。
おそらく進退伺を出すべきであったのだろうが、当時はその余裕さえなかった。
だから私は遅すぎる進退伺を提出するよりも、職務を引き継げる体制を整えてから自主退職しようと密かに思った。
「理不尽」という言葉かある。このとき私は何度この言葉を叫んだのだろう。
新しい上司の降格処分の原因が私にあるのなら、私はどうすべきか、、、、決まっている筈の結論を言葉にして実行するのが怖かった。
潮時という言葉がある。この言葉を意識し始めたのはこのころだったのかも知れない。
2024年は仕事始めからトラブルの連続だった。
特に、引き継いだ直後の設備で発生した不具合は、復旧まで数か月・修繕費:数千万円・売上機会損失:数千万円の大トラブルとなった。
トラブル対応には、現場対応、社内外の対応も含めて膨大な時間をつぎ込んだ。
私の体は残業時間が睡眠時間を上回ると体重が減り始め、疲労が限界に達すると不整脈が発生する。
不整脈の症状があるのに立ち上がると貧血のような状態になる。現場の高所作業でそうなると特にあぶない。怖かった。
45℃を超える真夏の現場の乾燥炉の点検架台で貧血の症状が出たときは本当に危なかった。
帰宅して入浴中に湯船から出て立ち上がる時も同様の状態になることが増えた。
勤務簿上での残業は月に17時間くらい。サービス残業は月に160時間以上。こんな状態が続き、体重は1月からの7ケ月で13キロ減少した。
家族に当たり散らすことが増えた。申し訳ないと思いながらも、それを止められない。
処方される薬の量と種類を増やしてもらえば改善できるかもしれない。薬に頼る一途の希望も残っていたように記憶している。
しかし、小さな出来事をきっかけにして私は家族に酷く当たり散らしてしまった(嗚呼…もう思い出したくないんだ)。
その後、何度か妻と話し合いをした。これまでのこと、これからのこと、なにをするべきか、、、
こんな私を見捨てなかった妻には本当に感謝している。
こうして私は会社を辞める決意を固めた。
会社にて、
辞める意思は直属の上司(後任の課長)と部長に口頭で伝えた。
課長は休職や配置転換を提案してくれたが、その場で結論には至らず、後日改めて話し合うこととなった。
翌日、課長と再び話し合った。どうやら課長も転職を検討しているらしい。会社に不満もあるらしい。
その発言はおそらく私のガス抜きが目的なのだろうけれど。
私は試されていたのかもしれない。
誓って言うが、この間、辞める意思は課長と部長以外には口外しなかったし、業務には真摯に取り組んだ。
その間およそ1ヶ月、会社側の動きは無かった。過ぎていく時間が惜しかった。
だから私は就業規則や法令等および、各種判例に基づいて且つ、記録に残る形式で辞める意思を改めて部長にお伝えした。
そこからの部長の動きは速かった。
辞める意思の口外有無の確認、慰留、自社の優位性、辞めるデメリットの説明などのため、矢継ぎ早に面談の場を設けてくれた。
部下が辞めれば部長自身の人事評価が下がる。部長は出向且つ単身赴任の身。次の人事異動が本社栄転なのか地方の事業所左遷なのか、果ては子会社転籍か、、、
本社会議や出張等があるので、職場に顔を出せるのは週に2~3日程度。17時を過ぎれば関係者様との会合がある。
その限られた時間の中で、部長は私のために面談時間を設けてくれたのだ。
部長には申し訳ないと思いつつも、私はゆっくりと丁寧に言葉を選んで辞める意思を伝えた。
会社や上司および同僚には不満はない。
嫌で辞めるのではない。ただ、自分と家族のために辞めたい。
会社や上司および同僚には迷惑を掛けることを申し訳なく思っているとも。
・・・・・・
「分かった」、部長は一言だけ仰った。私は無言で深く頭を下げた。
その後、一連の手続きが内々に進められ、ある日の終業後に部長から数枚の書類を手渡された。
退職願とそれに関連する書類だった。そのなかには、普通の依願退職ではなく、有利な条件で退職できる申請書類も含まれていた。
「結構手続きが大変だったけど間に合って良かった、期限が短いからなるべく早く提出してくれるとありがたい」とは部長の弁。
また、、、自動倉庫にある空調機械室で一人の時間を過ごそうかと思ったが、私には報いる義務がある。
ワザとらしいクシャミと鼻をかむふりをしながら、その場で書類を書いた。
一か所だけ、「これだと前向きな意思表示にならないから」と部長からアドバイスをいただき、書類を修正した。
修正後の書類に目を通したあと、部長は頷いて書類を鞄の中に入れた。
二週間後、部署の定例会議の場で、私は退職する旨を同僚に伝えた。退職理由が不満や嫌なことではないことを、どもりながら説明した。
その日のうちに事業所内に話は広まり、夕方には、他事業所に勤めるかつての同僚からもメールが届いた。
この時点で退職まで80日。
ここからは社内業務の引継ぎや、お取引先様へのご報告・後任者の紹介等に忙殺されることになる。
幸いなことに、表立った悪口は私の耳に入らなかったし、恐れていた諸々も一切なかった。
このあたりは同僚の品格に救われたのかもしれない。
どうやら私の評価というかイメージは、「文句も言わずおとなしく働く便利な何でも屋」だったらしく、退職が公になってからは驚きの声をかけていただくことが多かった。便利な何でも屋として当てにされていたことは嬉しかった。
引継ぎなどに多忙を極め、かつての様に昼飯も食わず働き、17時に退勤手続きをして、23時過ぎまで「会社で休憩」して、土日も「休憩」していたら 一か月の休憩時間が200時間近くなってしまった。さすがにこれは部長と課長に呼ばれてお叱りを受けてしまった。
「労基に立ち入られたらどうする?本社のSE部が君のパソコンの操作ログを全て調べることになったから、今のうちに申告したいことがあれば話だけは聞く」
とのこと。しかしながら、私は「会社で休憩中」に疚しいことは一切していない。動画サイトやSNSの類は一切アクセスしていない。
結局、休憩中のパソコンログオフ忘れということで穏便な事務処理のみで対応いただけた。
体重は1月から20キロ減少していた。立ち上がると貧血が原因と思われる立ち眩みがするが、あと少し頑張れば、、、、5種類の薬を飲みながら何とか乗り切った。
いつまでも終わらなさそうな夏が一瞬だけ秋になってその一瞬が通り過ぎて遠くの山の初冠雪がニュースになるころ、私は会社を辞めた。
机の片づけ、退職の挨拶、お世話になりましたメール、記念品をいただくなどして、思っていたよりあっさりと最終出勤日は終わった。
社員通用口を出て振り返りもせずに帰路に就いたあの時間、見上げた星空、空気の匂い、喧騒の中の静けさ、懐かしい声を、私は徐々に忘れていくのだと思うと少し切ない。
妻からは労いの言葉をもらった。
会社よりも家族を選んだ私の判断を私は信じたい。
幸いなことに、年齢的に苦労すると予想された転職活動も滞りなく進み、再就職先も決まった。
応募した一社が、本当に偶然なのだが、お取引先様の中の一社と緊密な繋がりがあり、私の人となりを評価して下さったらしい。
「文句も言わずおとなしく働く便利な何でも屋」のメリットもバカにはならない。
クソ真面目に働いてきて良かったと思う。
再就職先での年収は150万円以上ダウンするが、今までの給料がもらい過ぎだったと思うし、これからの仕事は、今までのような休日夜間の呼び出しもGW盆正月の仕事もない。
新しい仕事に向き合う中で私の心に余裕が生まれ心身の健康を取り戻すことで、私が家族を傷つけたりせず、家族が私に怯えずに安心できる生活を送れるようになるなら、そっちのほうが良いと思う。
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人生は分からないから面白い。
何が起こるかわからないから何でもやってみる価値があると思うし、やるかやらないか迷ったらやるほうを選択する人生を生きてきた。
年齢がデメリットになる事も稀にあるけど、まじめに積み重ねてきたものは意外なところで自分を支えて守る強固な土台にもなってくれる。
「人生自覚した時が旬、打ち破る気概をもって頑張ってほしい」
卒業文集にそう記してくれた恩師の言葉が身に染みてきてから、いよいよ人生は面白くなってきたのかもしれない。
Life is weird,you know?
