ドビュッシーの周辺 2 パリ音楽院3人組+
少年ドビュッシーが入学したパリ音楽院は、当時すでに70年以上の歴史を持つ世界で最も老舗の音楽教育機関だった。ドビュッシーは、ここに12年の長きにわたり在籍し、自らの感性にそぐわない規則には反抗を示しながらも徹底的に伝統的な音楽の基本を学んだ。各科の教授たちとの興味深いエピソードには事欠かないが、ここでは、ドビュッシーの仲間(友人)たちのことに触れてみたい。
パリ音楽院時代の友人としてまず取り上げたいのは、次の4人である。
ポール・ヴィダル(1863-1931)、ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)、レーモン・ボヌール(1861-1939)、ルネ・シャンサレル(1864-1937)である。
ポール・ヴィダルとガブリエル・ピエルネは、ドビュッシーと一緒に”3人組”としていつもモンソー公園などに出かけては音楽の課題を話し合ったりしている。
ヴィダルは、人見知りがちなドビュッシーに対して当初から級友として好意を持っていた。
ドビュッシーにローマ賞へ応募するように勧めたのもポール・ヴィダルである。彼は、ドビュッシーより1歳年下だったが、ドビュッシーより1年早くローマ賞受賞者となり、ローマ留学を果たす。ヴィダルは、この時、モロー=サンティ夫人の声楽サロンのピアノ伴奏の仕事をドビュッシーに譲っていった。
ヴィダルの見込み通り、パリ音楽院のピアノ伴奏科を短期間でプルミエ(一等賞)を得て終了していたドビュッシーの腕前は卓越したものであった。このサロンでドビュッシーは人気者となり、後に多大の霊感の源となるヴァニエ夫人と出会うことになる。
ポール・ヴィダルは、1年遅れでローマ賞受賞者としてローマにやって来たドビュッシーと共に老巨匠リストの前で2台ピアノの演奏を披露している。
ガブリエル・ピエルネもドビュッシーより1歳年少であったが、マルモンテル先生のピアノクラスからの友人である。後にパリのコロンヌ管弦楽団の常任指揮者としてドビュッシーの作品を多く手掛けることになる。ドビュッシーの最期の葬列にも加わっている。
レーモン・ボヌールは、ドビュッシーより1歳年長である。作曲家エルネスト・ショーソンとも親しく、後にショーソンと知己を得たドビュッシーも一緒に川遊びに興じる写真が残っている。ボヌールは、ドビュッシーから《牧神の午後への前奏曲》を献呈されることになる。
興味深いことに、ピエルネもボヌールも、ドビュッシーがすべての面で貴族的な趣味および嗜好を持っていた、と述べている。
ルネ・シャンサレルは、ドビュッシーより2歳若く、5人の中で最も年少であったが、ドビュッシーとはマルモンテル先生のピアノクラスからの友人でピアノも達者であったらしい。
ドビュッシーが3度目のローマ賞応募の時、最終審査でシャンサレルは第二ピアノとして、第一ピアノのドビュッシーを支えた。
ドビュッシーのローマ留学の第4作品になる予定だった《ピアノと管弦楽のための幻想曲》は、当初、ルネ・シャンサレルのピアノで初演されることになっていた。ところが、指揮者ヴァンサン・ダンディの判断で第一楽章のみ演奏されようとしたためにドビュッシーはこの曲を引っ込めてしまった。全曲演奏でないと認めないというドビュッシーの姿勢は一貫しており、《ペレアスとメリザンド》の初演に際してもその姿勢がみられる。
《幻想曲》は初演の機会を逸するが、曲自体はルネ・シャンサレルに献呈されている。
最後に、もう2人触れておきたい人物がいる。ポール・デュカスとジャック・デュランである。この2人については、また、個別に取り上げるので簡単に紹介しておきたい。
ポール・デュカスは、管弦楽曲《魔法使いの弟子》でよく知られている作曲家であるが、パリ音楽院の作曲科ギロー先生のクラスではドビュッシーの3歳後輩である。パリ音楽院時代からドビュッシーの最期まで変わらぬ友情関係があった。ドビュッシーは、音楽以外の話にも広く付き合うことができるデュカスを近しく思っていた。
ジャック・デュランもパリ音楽院でドビュッシーの3歳後輩であり、ドビュッシーがローマ賞に挑戦している時、最終審査での《放蕩息子》を聴衆の一人として目撃している。有名な楽譜出版社の御曹司で、経営を引き継いだ後、生涯ドビュッシーの後援者となる。ドビュッシーの死後、彼の書簡集を出版している。
