又貸しされた殺意

         粗筋

船旅の朝、目覚めた川尻は、昨日着ていた服のポケットに覚えのないメモ書きを見付ける。そこには自分の名前と、自分の恋人の名前、さらにはこれまた覚えのない人名二つが日時と共に記されていた。前夜、船のバーでしこたま飲んで酔ったため、記憶が飛んでいる。必死になって思い出そうと努め、ようやく断片的に記憶が蘇り始めた。バーで知り合った男と、交換殺人の約束を交わしたのだ。


         本文

 川尻優かわじりまさるは酒好きだが、強くはない。顔に出ないのと飲みっぷりとで、強いものと思われることしばしばだが、実際は違う。落ち着きのある態度とは裏腹に、頭の中はぐらぐら揺れ、視界もはっきりしない。何よりも厄介なのが、翌朝目覚めると酒を飲んでいる間の記憶が極めてあやふやになり、酷いときはきれいさっぱり忘れてしまうことがある。
 今朝もそうだった。船室で一人、目覚めたあと、昨晩の出来事を思い出そうとするが、バーカウンターで若い女の子相手にマッチや紙おしぼりを使ったくだらない手品をやって、結構受けがよかったことばかりクロースアップされる。他に何かあったのは確実なのだが、のどの手前で引っ掛かって入るみたいに出て来ない。
 頭をすっきりさせようとシャワーを浴び、着替えてから煙草に火を着ける。脱いだ服のポケットからライターを取り出したとき、指先に何か別の物の触れる感触があったので、引っ張り出した。
 それは、手帳のページを破ったと思しき一枚の紙切れで、ボールペンで書いたらしい字が踊る。

  7/1  10:00-21:00
 川尻優   → 平井和美
  7/2   9:00-14:00
 小渕満彦  → 沼崎麗子

 とあり、その上下には破いた痕のぎざぎざが斜めに走っている。川尻自身の名前及び小渕おぶちなる人物の名前の前には、拇印が押してあった。「川尻優」及び「沼崎麗子ぬまざきれいこ」は自分が書いたもの、あとは別人の手による字である。
(沼崎麗子は俺の恋人だ。今や疎ましいだけの存在だが……あ)
 川尻は朧気ながら昨夜の出来事を思い出してきた。己の親指を見ると、右手の方に赤い何かが残っていた。血かもしれない。
 裏返すと、やはり黒のボールペン字で、「万が一ミスったときはこの紙を処分!」と、走り書きがあった。これも自分の字らしい。
 川尻は煙草の火を消すと、記憶の再生に真剣に努めた。そして、思い出した。
 昨晩、船のバーで男と知り合い、交換殺人を約束したのだ。この紙の書き付けは、その契約書であると同時に、お互いが交換殺人完遂まで裏切らないようにする証文でもある。
 記憶が定かでないが、この書き方から見て、平井和美ひらいかずみなる女性が小渕の殺したい相手であることは間違いない。七月一日の午前十時から午後九時まで小渕は絶対のアリバイを確保するから、その間に殺人を実行しろという意味だ。
 川尻は、自分自身が七月二日にアリバイを確保できるのかどうか、思い起こしてみた。早朝からゴルフの約束が入っていたと気付く。多人数と長時間、一緒にいる訳だから完璧なアリバイになろう。
 七月八日にも同様の状況でアリバイが確保できるのだが、そちらにしなかったのは何故だろう。殺人の間隔は近い方がよいと判断したのだろうか。報道を注意深くチェックしなければ、ターゲットの死に気付かない恐れもある気がするが。そこまで考えを巡らせてから、相手の都合もあることに気付いた。多分、小渕の方が七月八日は自由に動けないのだ。
(他にどんな会話を交わしたっけ……)
 目を瞑り、昨日の晩の光景を思い浮かべる。まだ判然としない。五感に訴えるものがあれば、鮮明になるもしれないと考えた川尻は、椅子を離れて酒瓶を取ってくると、蓋を回して外し、中の液体の匂いを嗅いだ。
 効果はあった。
 相手の男の顔こそまだもやが掛かったような具合にしか思い出せないが、会話の方は明白になった。上着の内ポケット、その奥底に別のメモ用紙を押し込んだ記憶が、しかと甦った。
 平井和美の名前のあとに、五十という年齢、住所と電話番号の記載が続き、当日の行動予定として“午前十一時から午後一時の間に、近所のスーパーマーケットAに自家用車で買い物に出掛ける、それ以外は独りで在宅のはず”とある。平凡な主婦といったところか。
 期日まで二週間。この船旅から帰ったら、早速調べねばならない。スーパーマーケットの所在地と、そこの防犯カメラの設置状況、利用者の多さ等々。店で実行するのが困難なようであれば、家を出てすぐか、帰宅直後を狙うことになろう。
 計画に全く躊躇していない自分に感心し、少し気分がよくなった。顧客の厚意からプレゼントされた一泊二日の船旅に、あまり気乗りしていなかったのだが、今は来てよかったと感じる。交換殺人を成し遂げれば、憂いはなくなる。
 サイドボードに置いていた携帯電話が鳴った。出る前にディスプレイを見ると、将来義父とよぶであろう男性からだと知った。
 米木民夫よねきたみおの娘とめでたく結ばれるために、川尻は長い付き合いの恋人を殺そうとしていた。

 人を殺すという行為は、呆気ないほど簡単だった。何の恨みもない見ず知らずの相手だから、少しはためらいが出るかもしれないと事前に想像した川尻だったが、それは杞憂だった。スーパーマーケットの広い駐車場の片隅で、彼は平井和美に自然に接近し、声を掛け、そして絞殺した。
(場所がよかったというのも無論あるが、赤の他人を冷静に観察することに慣れているから、殺人もここまで冷静にやれたのかもしれないな)
 川尻は帰途、そんな風に自己分析した。興信所のボスである彼は、探偵として百を優に超える男女を観察してきた。
 自家用車の時計は、ちょうど正午を示していた。助手席の足下には、折り畳み式自転車が置いてある。現場近くの図書館まで車で行き、そこから折り畳みの自転車を使ってスーパーマーケットに到着。犯行をなしたあと、また自転車で図書館まで行き、車に乗り換えた。動機なき殺人とはいえ、逃走ルートには注意を払ったつもりだ。現行犯で捕まっては、元も子もない。
 あとは、この殺人がニュース等で報じられるのを確認し、明日、沼崎麗子が始末されるのを待つばかりだ。

 七月二日の夜。上得意の顧客らとのゴルフを終えた川尻は、宴席の誘いを断り、興信所の入るビルにいそいそと戻った。部下の調査員達を帰したあと、買ってきた弁当を食べながら、部屋でテレビを観る。番組は無論、ニュースだ。
 ニュースはまず、弁護士が交通事故のため本日予定されていた重要事件の公判に出廷できなくなり、公判自体が延期になったとトップで伝えたあと、殺人事件が相次いでいることを伝え始めた。最初に、昨日関東圏で起きたスーパーマーケットでの独身女性殺し、つまり川尻がやった件だ。あの年齢で独身だとは思っていなかったので、少し驚いた川尻だったが、どうやら夫に先立たれたようだ。
 二番目は、やはり昨日発生した殺人で、場所は東海圏。被害者は主婦で、観光旅行中の転落死だが、突き落とされた可能性が高いと見られているらしい。が、川尻にとって興味があるのは、沼崎麗子が被害者の殺人事件だけなので、ほとんど聞き流していた。
 三つ目は本日の午後にあった殺人で、いよいよかと画面に意識を集中した。が、川尻の期待を裏切り、九州圏での事件だった。新幹線の車中で若い女性が毒殺され、目撃情報から不審な男性を追っているとのこと。
 殺人事件のニュースはそれで打ち止めだった。
 川尻は多少怪訝に感じながら、まだ公式発表されていないのか、されていても情報が少ないから後回しにされたのかと考えた。少なくとも、発覚していないことはあるまい。交換殺人の約束をしておきながら、死体を隠すなどされては、アリバイ作りの意味がなくなるのだから。殺害後間もなく発見されるのが理想的だ。
 川尻はしばらく弁当をぱくついてから思い立ち、パソコンを起ち上げた。ついこの前、依頼人になったメーカーの重役から、最新式の物をプレゼントされたが、使い慣れた旧式の方を未だに愛用している。ネットに接続すると、ニュースサイトに飛ぶ。早速、より新しい殺人事件のニュースを探しに掛かる。しかし、目に付くのは最前、テレビニュースで聞いたものばかり。沼崎麗子の名前は見当たらない。もしかすると氏名不詳の遺体として見つかったのかもしれない。ならばと改めて見出しをチェックしていく。
 と、そのとき携帯電話が鳴った。着信音で麗子からと分かる。
 一瞬、びくりとする。十秒ほど硬直していただろうか。しかし川尻は思い直した。麗子の携帯電話からの着信だ。麗子が掛けてきたのではなく、彼女の遺体を発見し、調べた警察が携帯電話のアドレスを順番に当たっているに違いない。
 そう判断した川尻は、深呼吸をしてから電話に出た。
「はい、もしもし……」
 警察官、それも男の声が返ってくることを想像し、いくらか堅い調子で始めた川尻。その耳に、女の高い声が入って来た。
「遅いよ、優。それにどうしたの、何か変に他人行儀な言い方して」
 沼崎麗子本人だった。
「あ、ああ。ちょっとうとうとしていた」
 川尻は取り繕った。己の動悸が激しくなるのが分かる。この音が、電話の向こうまで聞こえやしないかと、余計な心配までした。
「こんな時間に? あっ、接待ゴルフとか言ってたっけ」
「うん。疲れたんだな。実は悪い夢を見てさ、麗子が事故で死んだっていう」
「何それ。冗談きついというか、悪趣味」
「すまんすまん。そんな夢から覚めた直後に、おまえから電話があって、妙な心地だったんだ。今はほっとしたよ」
 取り繕い、どうにか普段通りの会話に持って行く。その間、川尻は交換殺人のメモ用紙を取り出した。そこに書かれた時刻を凝視する。間違いなく、今日の九時から十四時に決行予定となっている。なのに、麗子は生きている……。
「なあ、念のために聞くけど、今日、危ない目に遭わなかった?」
「心配してくれるのは嬉しいかもだけど、予知夢でも見たつもり? そんな神秘主義だっけ、優って」
「夢が生々しかったからさ。一応――いや、気にしないでくれ」
 話の流れで、「一応、これからも気を付けるようにしろよ」と言いそうになり、慌ててやめた。気を付けられたら、小渕が麗子を殺そうと襲ったとき、しくじる恐れが高くなるのではないか。
 そもそも、小渕という男は、やる気があるのだろうか。自分の殺したい相手が死んだからもういいと思ったのではあるまい。例の拇印付きメモがある。まさか、怖じ気づいたのか? だとしたら、せっついてやらねばならない。
 殺してやりたい恋人との会話を続けながら、川尻はそんなことを考えていた。

 小渕をせっつこうにも、連絡方法が不明であった。船上で約束を交わした折に、メールアドレスなり電話番号なりを交換したかもしれないが、川尻の記憶にはなかったし、そのときの着衣のどこを探ってもそれらしきメモは発見できなかった。
 自力で調べ上げる外ないと判断した川尻は、職業上の調査能力を活用した。あの船の乗客名簿を入手し、小渕満彦みつひこの名を探す。偽名の可能性もあったが、最初から交換殺人の仲間を探す狙いで乗船したのでもない限り、その線は薄いと思っていた。というのも、信頼関係を構築するためには身元を証す必要があるとして、それぞれ運転免許証の氏名欄のみを見せ合ったことを覚えているからだ。
 果たして、簡単に見つかった。小渕満彦は医者で、都内で個人病院をやっている。ネット検索で周辺情報を集めてみると、ホームページを構えており、顔写真まで載っていた。
「この男だったかな。自信が持てないな」
 職業柄、川尻は人の顔を覚えるのは苦手ではないが、飲酒が過ぎた場合は別だ。曖昧模糊とした記憶の中にある共犯者の顔を思い浮かべると、確かに小渕満彦のようでもある。しかし、どことなくしっくり来ない。記憶の不確かさ故の感覚で、小渕が共犯者に間違いないとは思うのだが。
 川尻は小渕病院の住所と電話番号をメモに取り、個人的に引き受けた依頼の名目で、昼前に車で出掛けた。駅近くの公共施設の駐車場に入れ、
 ひとまず様子だけ見て、昼食を取ったあと、小渕満彦に接近できるチャンスを窺おう。そんな算段を立てていた川尻だが、医院に隣接する小渕邸を目にして、ちょっとした意外感にとらわれた。
(葬式? いや、通夜の準備か)
 喪服姿の男達が忙しそうに動き回っている。病院の方は臨時休診の札が掛かっていた。理由を告げる張り紙はないが、小渕家の誰かが亡くなったのは間違いなさそうだ。
(ひょっとして、小渕満彦自身が事故か何かで急死し、そのため、麗子は今もぴんぴんしているとかじゃないだろうな)
 頭を掻いた川尻。そのとき、彼の目の届くところに、通夜及び葬儀を告知する張り紙が張られ、案内看板が置かれた。
 被葬者の名は小渕夏穂かほとあった。もっと接近して文章を読めれば、小渕満彦とどのような関係にあった女性なのか分かるのだが、印象に残る行動は取りたくない。出入りする人々の会話に耳を傾けていると、亡くなったのは小渕夫人らしいと知れた。
 いつ死亡したのかは分からないが、こんな事態では、交換殺人に出掛ける暇がかったとしても合点が行く。さっさと殺してもらいたいのは山々だが、延期はやむを得まい。中止ではなく、決行する意志があるのかが重要だ。再度コンタクトを取る必要があるが、いつならよいだろう。
 川尻は頭の中で計算した。延期期間は六日。七月八日なら、アリバイ確保が容易だ。向こうの都合もあるだろうが、こちらも待たされている。今日が三日だから、明後日までにはつなぎを取りたい。が、葬儀の片付けや弔問客への応対で、簡単には行かない気がする。
(いっそ、今日か? 服と金を用意し、弔問客を装えば、入ることはできる。そのあと、小渕に接近できるだろうか。仮にできたとして、小渕と二人でいるところを見られるのは、好ましくない。ひょっとしたらカメラを回している者もいるかもしれない)
 川尻は悩んだ結果、慎重な振る舞いを優先した。気は急くものの、一旦引き返し、出直すとしよう。
 小渕邸から事務所に帰り着くと、駐車スペースに見知らぬ男が一人立っていた。川尻を見ると近付いてきて、「川尻優さんですか」と丁寧な調子で尋ねられた。校庭の返事をすると、相手は満面の笑みを浮かべた。
「突然の訪問をお許しください。私、六月半ばの船旅でお会いした者の代理で参りました。寺田伸人てらだのぶとといいます」
「船旅の?」
 目を見張る川尻。相手を上から下までざっと観察した。身長は川尻とほとんど変わらない、中肉中背。広い額にしわはほとんどなく、怒りの感情を露わにするタイプでないことが想像できる。色白なのはデスクワークを主にこなすからだろうか。スーツをびしっと決めているが、靴だけはくたびれており、普段よく歩き回っていることが窺えた。
「先生の命で参りました。最初に言っておかねばなりません。私は旅の船上で先生と川尻さんとの間で何があったのか、全く存じていません。秘密を要する事柄であるとだけ理解しています。川尻さんも、そのつもりでお聞きください。そして無論、そのつもりでお話しください」
「あ、ああ。分かりました。場所はここでいいのかな」
「そうですね。あなたの車の中はいかがでしょう」
 二人は川尻の車に乗り込んだ。運転席に川尻、助手席に寺田と名乗る男が座る。
「こっちも最初にいくつか聞いておきたい。寺田ってのは本名?」
「ご想像に任せます」
「寺田さん、あんたが代理人である証拠は何かないのかい?」
「そう聞かれた場合、こう答えよと先生から指示されています。『K・Hの始末に感謝する』」
 平井和美のイニシャルか。きわどい表現だなと川尻は思った。小渕満彦の使いの者なんだろうが、こう見るからに忠実そうな部下?なら、平井和美の存在も承知しており、K・Hのイニシャルだけでぴんと来るのではなかろうか。
(まあ、この男の様子なら、たとえ気付いても裏切りはなさそうだが)
 寺田に一応の信頼を置いた川尻は、相手の用件を促した。
「先生の言葉をお伝えします。 『のっぴきならない事情により、私は定めた日に動けなくなった。どうやってそのことを知ったのだ? 教えてもらいたい』とのことです」
「うん?」
 川尻は思わず首を捻った。メッセージの前半は理解できる。妻の葬儀で約束の殺人を期日には果たせなかったという意味だろう。では、後半は?
(確かに突き止め、今日、病院まで出向いたが……互いに詮索しないことも交換殺人の約束に含まれていたんだっけか。だとしても、こっちは麗子死亡のニュースを首を長くして待っていたのに、いつまで経っても何も起こらないと来た。気になるのは当然だろう。興信所をやってる身だから、この程度の調査は朝飯前。そもそも、あんただって俺の仕事場を把握してるじゃないか)
 文句を言われる筋合いではない。
(よほど、自分の正体を突き止められない自信があったのか? それは危機管理の意識が甘いってものだ)
 交換殺人のパートナーを怒らせても、利益はない。川尻は返答に使う言葉を選んだ。
「まあ、見ての通り、興信所の人間ですから、これぐらいはお茶の子さいさい……とまでは行かなくても、その気になって調べれば分かることです」
「はあ、さようですか」
 寺田はそう応じたものの、納得していない風に唇をぐっと噛んだ。だが、それだけで、特に追及はなかった。
「分かりました。先生にお伝えしておきます。時間を取らせて、申し訳ありませんでした」
「――ちょっと」
 ドアを開け、出ようとする寺田を川尻は呼び止めた。
「あんたの先生が、約束を果たしてくれるのかどうか、聞いてないかな?」
「これは失礼をしました。忘れていた訳ではなく、お尋ねされたときのみ、答えるようにと言われていたもので」
 シートに戻り、ドアをしっかり閉めた寺田。
「『当初の予定通り、八日に』とのことです。これでよろしいでしょうか」
「……ああ。分かった。できればもう二度と会わずに済むのが望ましいね」
 寺田は黙ったまま、笑顔で頭を下げた。その姿を車中から見送りながら、川尻は考え、呟いた。
「当初の予定通りってことは、何らかのハプニングで殺人を延期せざるを得なくなった場合、第二候補の日時を指定しておいたんだろうな。――酒、少しは控えないとだめだなこりゃ」

 七月九日早朝、自宅のテレビで待望のニュースをテレビで確認した川尻は満足し、ある種の安らぎを得た。
 その後のワイドショーの報道によると、七月八日の正午頃に、沼崎麗子は殺されたようだ。休日の昼前、ショッピングに出掛けたデパートで襲われ、絞殺されていた。有力な目撃証言は今のところなし。防犯カメラの映像も、犯行現場自体は死角になっていたし、日曜の混雑のおかげか、被害者をつける等の怪しい行動をした人物は見つかっていないとされた。
(これで終わり、か。交換殺人なんて裏切りのリスクが大きい絵空事だと思わないでもなかったが、実際にやってみると、便利さが分かるな)
 そんなことを感じつつ、川尻はインスタントコーヒーを飲み干した。カップを持って席を立ち、キッチンに向かいがてら、テレビの電源を切ろうとする。が、続けて始まったナレーションに、耳を疑うフレーズを認めて動きが止まる。
<――病院長、小渕満彦さんが遺体で発見されました。七月六日の午後に死亡したと見られ、行方不明になった直後に殺害された可能性が高いとのことです>
 川尻は何か短く叫んでいたかもしれない。訳が分からなくなった。
(七月六日? ばかな。その二日後に、小渕満彦は麗子を殺したはず)
 テレビの真ん前に立ち、フレームを鷲づかいにした上で、画面を食い入るように見つめる。流れてくる説明で、小渕夏穂の死も他殺の疑いが濃厚であることを知った。
 川尻はそのニュースを、七月二日の時点で見聞きしていた。七月一日に東海地方のS市で起きた主婦転落死亡事件。柴崎麗子が殺されたかどうかばかり気になって、よその土地で死んだ女性の名前なんてまるで注意していなかった。
(こんな偶然があるのか。交換殺人に応じた俺が、小渕の殺したがっていた平井和美を殺したのと同日、小渕の妻も殺されるなんて。いや、小渕って男は、もしかして、交換殺人を二つ同時並行的に成立させたのか?)
 川尻が想像したのは、次のような構図だ。
 小渕は川尻と交換殺人の約束をした裏で、別の人物Aとも交換殺人の約束を交わした。小渕と川尻の間では、それぞれ平井和美と柴崎麗子を殺し、小渕とAの間では小渕夏穂とB(Aが殺したい人物)を殺す。両方の計画に関与している小渕にとって、同じ日に二人が始末されれば、アリバイ確保の手間が一度で済む。その代わり、己が手を汚すのは二回に増えるが。
 そこまで考え、川尻はかぶりを振って打ち消した。
(現実には、麗子が殺される二日前に小渕は死んだ。あり得ない。小渕の代わりに、誰かがやってくれたのか? あの男――寺田か? まさか。他人の交換殺人を、どんな理由があって受け継ぐというんだ。俺がまだ殺人をやってないのなら、『こちらは義務を果たしたのだから、そっちも殺しを実行しろ。ただし、殺す相手は変更だ』とでもやれば、メリットがあるかもしれない。だが、実際には俺の方はもう済んでるんだ。じゃあ、何故……。小渕の体面を守るため? 麗子を殺さないと、俺が交換殺人の約束を暴露するとでも危惧したんだろうか)
 ジグソーパズルの断片がいくつかあって、色々組み合わせることはできるが、どれもすっきりした絵にならない。そんな感じがした。
(だいたい、小渕を殺したのは誰なんだ。俺達の交換殺人に関係しているのかいないのか)
 気を揉む川尻だったが、一方では楽観的に構える彼もいた。彼自身の目的と義務は達成しているのだ。小渕を殺した犯人を捜そうなんて真似、わざわざする必要は全くない。
(万が一、小渕殺しの犯人が交換殺人計画の全貌を知っているなら、俺を脅して金を要求してくる恐れも皆無ではない。そうなったときは臨機応変に対処するまで。こちらから動くことはしない)
 心に決めると、当初沸き起こった強い動揺は消え去った。念のため、捜査の進展具合に注意を払う、それだけで充分だろう。

 川尻の内に僅かに残っていた懸念は、意外と早く払拭された。
 小渕満彦殺しの容疑者が逮捕されたのだ。以前から小渕は、彼の妻の兄・五味靖《ごみやすし》と病院経営に関してもめており、小渕夏穂の死によってそれが一気に表面化。葬儀や刑事からの聴取に忙しい最中、秘密裏に小渕と五味は話し合いの場を持つも決裂、かっとなった五味が小渕を突き飛ばすと相手は転倒し、打ち所悪く死亡した……という経緯らしい。
(一応、すっきりしたが……麗子を殺したのが誰なのかは、不明のまま。五味という男が麗子を殺したとも思えない)
 喉に刺さった魚の小骨を取り除いたはずなのに、まだ何やら違和感が残っている。そんなイメージを川尻は否応なしに抱いた。
「警察の吉田よしださんがお見えです」
「あ、そうか。お通しして」
 興信所で待機していた川尻はテレビを消すと、経理兼受け付けの女性にすぐに指図した。昨夕、沼崎麗子殺人事件を担当している刑事から再度話を伺いたいと電話があったので、今日の午前中、仕事場に来てもらうように言っておいたのだ。
 すでに一度、吉田刑事の聴取を受けている。麗子の事件が発覚した翌日のことだ。携帯電話の履歴でも辿ったのだろう。その際にアリバイの有無を尋ねられた川尻は、懇意にしている客達とゴルフをしたと申し立てておいた。
「調べた結果、川尻さんのアリバイ成立です」
 姿を現した吉田は大柄な体躯に似合わず、猫なで声で切り出した。パイプ椅子を勧めると、がたがたと音を立てて座った。
「応接室にソファもあるのですが、依頼者が来るかもしれないので」
「硬い椅子には慣れてる、かまいやしません。それでですな、補足事項をいくつか質問していきたいんですが、時間は大丈夫でしょうね」
「ええ」
「ではまず」
 太い指で手帳のページを繰る吉田刑事。紙の擦れ合う乾いた音がしばらく続いた。
「沼崎麗子さんを恨む、あるいは逆恨みでもいいんだが、恨んでおかしくない人物に、心当たりは?」
「ちょっと待ってください、刑事さん。最初、アリバイを尋ねられたときも不思議に感じたんだが、沼崎さんを殺した犯人は、金品目的の強盗ではないのですか。財布からお金が抜き取られ、アクセサリー類も奪われたらしいと聞いたんですけれどね」
「偽装の恐れありと見て、念のためですよ」
「差し支えがなければ、偽装かもしれないと考える根拠をご教授願いたいな。いえね、興信所の仕事にも役立つんじゃないかと思って」
「たいしたことではありません。財布をわざわざ開けて、金を取っているのがちょっと気になるだけです」
「強盗の仕業だとしても、さして不自然ではないように思える……」
 川尻が首を傾げると、刑事はすぐに答えた。
「財布は、殺害現場に落ちていた。普通、財布ごと奪って、現場から少しでも遠ざかりながら中身を抜き取るんじゃないかと。そのあとで財布を植え込みなり川なりに捨てればいい」
「なるほど。空の財布を遺体のそばに放り出していたのは、強盗の仕業に見せ掛けたいあからさまな工作かもしれないという訳ですか」
「まあ、決定打にはならないんですがね。同じ強盗殺人でも、被害者の財布を一刻も早く手放したいと考える犯人もいる。で、心当たりは」
「私から見ても彼女が万全の人間だったとは言えませんが、殺す殺されるの関係となるとちょっと思い付かないな」
「あなたが沼崎さんとの付き合いの中で、いらいらさせられたり、ここは直した方がよいと感じたことがあると思うんですが、それを教えてもらいましょうか。糸口になるかもしれない」
 刑事の求めに応じ、川尻は正直なところを答えた。言葉の選び方が無頓着、執着心が強い、小さな嘘をついて追及されると忘れたふりをする、陰口が多い等々。
「分かりました。次に、本件と直接つながりがあるかどうかまだはっきりせんのですが、別のある事件と――」
 吉田刑事の台詞を途中まで聞いて理解した刹那、川尻の脳裏に閃光のようなものが走った。
(小渕満彦は交換殺人メモを処分することなく、殺されたのではないか?)
 総毛立つ感触に、身震いする川尻。
(麗子を八日に殺す予定だったが、その前に殺されたんだから、メモが残っていても何らおかしくない。吉田刑事が今から言おうとしているのは、そのことなのか?)
 危機を予感し、川尻はめいっぱい知恵を絞り、答を探す。が、あまりにも時間が足りなかった。刑事の話は止まっていない。
「――関連を示唆する発見がありまして。そのことで川尻さんに確認いただきたい」
「何でしょう」
 声がかすれぬよう、意識して力を込める。刑事は手帳に視線を落としたまま、淡々と続ける。
「小渕満彦なる男性をご存知ありませんか」
「いえ」
 早口の返答になってしまった。川尻は刑事の顔を窺うが、特に変化は見つけられない。
「誰ですか。麗子と関係のある人物とか?」
「別の殺人の被害者です。この方の身に着けていた手帳を調べたところ、何枚かを破り取った次のページに、文字の痕跡が残っていましてね。筆圧がかなり高いんでしょうな、沼崎麗子さんの名前と住所が読み取れました。その他にも何やら書いてあるんだが、悪筆と重なりのせいで、まだ判読できていない」
 どうやら小渕は、メモそのものは慎重に隠すか処分したようだが、メモを書き付けたときの痕跡にまでは気が回らなかったと見える。
「他の人の名前なんかはなかったんですか。小渕という人が何をされているか知りませんが、名簿を写し取ったとか……」
「そうではなさそうでしたよ。小渕氏は医者ですが、彼の病院に沼崎さんがいらしたという記録はなし。別のことで知り合っている可能性もなさそうだ」
「他にメモはなかったんですか?」
 川尻が念のため発した質問に、刑事は目を向けて答えた。
「現時点では見つかっていませんな。思い当たる節でも?」
「いえ、そうではなく、他にもメモがあるなら、ヒントになると思っただけでして……」
「そうですか。弱ったな。沼崎さんの周りの人に聞いても、皆目分からんので、あなたに期待していたんだが。あちらの殺人事件を捜査している面々は、小渕氏の周囲の人に同じように聞いているはずですが、成果が上がったとの報告はまだないんですよ」
「力になれず、残念です。麗子のためにも、何かしてあげたいんですが」
 声や表情に無念を滲ませる川尻。刑事の質問はこれで終わりと思っていたが、違った。
「気になることは、まだありまして……それこそ関連あるかどうか、今はまだ見通しが立ってないことなんですが、小渕夏穂さんという女性をご存知じゃありませんか?」
「――まったく、記憶にない。誰ですか? 小渕と言うからには、小渕満彦氏の血縁のようですか……」
「細かいことは言いませんが、小渕氏の関係者とだけ。つい最近、小渕氏よりも前に亡くなっており、ここに来て小渕氏自身も死んだので、この二件につながりがあるかどうかが、目下の焦点になってるんですよ。その関連の輪に、沼崎さんの事件を含めるべきか否か見定めるのが、私に与えられた今の役目」
 にっ、と笑う吉田刑事。決して柔和とは言えない顔立ちをしているので、些か不気味だ。
 刑事が帰ったあと、川尻の頭の中を、一つの疑問が占めた。
(小渕夏穂に触れておいて、平井和美の事件に言及しなかったのは何故だ? 小渕の周囲で殺された人間として挙がっても、全然おかしくない話の流れだったのに。俺の反応を密かに窺っていた? そんなはずないんだが)

 川尻はまた個人的な依頼ということにして、平井和美の身辺調査を開始しようかと思った。交換殺人の全体像が見えていない気がしてならない。その正体を掴まないことには、落ち着かないのだ。
 だが、今は調査を思い止まっていた。いくら興信所のボスでも、頻繁に“個人的な依頼”で動くと目立つし、警察が小渕と麗子のつながりを探っている現在、川尻の方から動くことは藪蛇の恐れがあった。軽率な振る舞いは、己の首を絞める。動くにしても、慎重の上にも慎重を期さねばならない。
 この件を頭から追い払うように努め、日々を過ごしていると、不思議なもので気に掛けることはなくなっていった。実際、交換殺人の目的そのものは達成されているのだ。共犯関係を隠し通せさえすれば、川尻にとって勝利は揺るぎない。時効がないおかげで、心の底から安まる日は来ないかもしれないが、ひとまずの安寧を手に入れた。そう思えた矢先。
「いやあ、不在ではないかと心配していたが、おられてよかった」
 吉田刑事が興信所事務所に現れた。今回は前触れなしの“急襲”である。
「またお邪魔して、すみませんね。新たな展開があり、どうしても川尻さんの話を聞かなきゃならんと思いまして」
「新たな展開ね」
 それらしきニュースは目にしていない。一体何を持って来たのか、不安が広がる。晴天から豪雨に急変する空のように、暗雲が立ちこめていた。
「寺田伸人という男をご存知ですね?」
「――はい」
 少し迷った川尻だが、刑事の自信ありげな口調に否定はまずいと直感した。かといって、正直にイエスの返事をよこす必要もなかったのだが、今の川尻の心理状態では、曖昧に応対する芸当は困難だった。
「正確には、そういう名前の男から接触されたことが最近あった、というだけですが」
 遅ればせながら、予防線を張る。吉田刑事はメモを取っていたが、手帳から興味深そうに目を覗かせた。
「ほう。どのような接触でした?」
「話してもかまいませんが、その前に刑事さん。寺田という男の名が、どうして出て来たのかを知りたいですね。軽々に答えるのは危険な匂いがするな」
 体勢を立て直した川尻は、虚勢を張って笑みを作った。
「ふむ、どうしますかな。ま、公表されてますから、調べれば分かることだ。一昨日、JRのS駅で、プラットフォームから転落、入って来た電車に撥ねられ死んだんです」
「寺田が?」
「そう。事件性の有無は調査中ですが、我々――沼崎麗子さんの事件を追っている我々にとって、なかなか興味深いメモが寺田の電子手帳に残っていたことが分かりましてね」
 またメモか。川尻は舌打ちを堪え、続きを待った。
「普通ならこんな小さなこと、伝わって来ないか、来ても時間が掛かるんですが、寺田の件の担当者が私と旧い付き合いでしてね。すぐに知らせてくれた訳だ。これが僥倖かどうかは、今後の展開次第――」
「刑事さん、メモには何とあったんですか」
「ああ、脱線してましたな。電子手帳にはまず、あなたの名前と勤め先の住所が書いてあった。それとは別の項目に、沼崎麗子さんの名前と自宅住所が記され、『行動チェックのこと』と注意書きが付してあったんですよ」
「……寺田とは何者なんですか」
「おや。川尻さんの方がお詳しいかと思ってたんですがね。そろそろこちらの質問にも答えていただきたい。どのような経緯で寺田と会い、どんな話をしたのか」
「言い掛かりのようなことを言ってきた。私どもが過去に行った調査の結果により、大きな損害を被ったとかどうとか。要するに、金を取ろうという算段だったんでしょうよ」
 短い間に組み立てた嘘の答を提出した川尻。堂々と断言したつもりだったが、吉田刑事は「本当ですか」と聞き返してきた。
「疑うんですか? 証拠はないが、間違いなく脅された。その場はどうにか収まったが、実際に受けたことのある依頼だったのはあとで確認した」
「うーん、この寺田という男、探偵の看板を掲げていて、様々なことの調査を引き受けとったんですが、脅しをやったとは初耳だ。違法と合法の境界線すれすれの調査をすることもあったとはいえ、完全に黒の領域に足を踏み入れるとは考えにくかったもので。それに今は島山しまやま弁護士に専属調査員のような形で雇われている。危ない橋を渡る必要はない気がするんだがなあ」
 最後は独り言めいてきた吉田の話。川尻は新たな人名を聞き咎めた。
「島山弁護士とは?」
「島山進次郎しんじろうですよ。大学教授夫人殺害事件の弁護で有名になったと思ったが。少し前、一日か二日だったかな。交通事故に遭い、公判に出られなくなったとニュースになっていた」
「聞いた覚えがあるようなないような……」
 答えながら、川尻は混乱から来る動揺を抑えるのに必死だった。
(どことなく話が合わないと思ったら、小渕の関係者じゃないのか? 小渕に言われて俺に接触してきたとばかり)
 川尻は一瞬だけ考え、質問を発した。
「寺田と小渕氏との間に、何かつながりはなかったんですか」
「いや、そういう話は出て来ていません。強いて言うなら、両人とも沼崎さんの名をメモに残していた。どちらも彼女の個人情報や行動を調べた節が窺える。これぐらいですかな」
「麗子が見知らぬ男から、それも二人から狙われる理由なんて、あるはずないと信じたいのですが……」
 語尾を濁す川尻。少なくとも小渕が沼崎麗子を狙う理由は、川尻自身がよく知っている。
(他にも麗子を殺したい奴がいたとして、そいつが俺と時期を同じくして、実行に移すなんてこと、あるだろうか)
「島山弁護士にはもう話を聞いたんですか」
「無論。寺田についてあれやこれやと質問をぶつけてみたが、普段の生活までは関知していないと言われ、ほとんど空振りだった」
「……つかぬことを窺いますが、刑事さん。寺田は島山弁護士を何と呼んでいたのでしょう?」
「あー、そこまでは把握してないな。聞いたかもしれないが。川尻さんは、どうしてそんなことを気にするんです?」
「あ、いや、特段の理由はないが……私に接触して来た際、やたらと『先生』を連発した上、背後に大物がいることをちらつかせる響きがあったので、『先生』イコール島山弁護士なのかと思ったまでですよ」
 実際にあったことと嘘とを織り交ぜ、欲しい情報を聞き出そうと試みる。
「そういうことでしたら、今度、確かめておきましょう。まさかとは思うが、島山弁護士が噛んでる可能性もある訳だ」
「島山弁護士が『先生』だとしたら、そうなりますかね……」
 仮定を口にした川尻だったが、心中では最早判断はできていた。恐らく、寺田は島山という弁護士の意志で動いていたに違いない。てっきり、先生とは小渕満彦だと思っていたが、まったくの早とちりだった。
(医者に弁護士、政治家、作家、もちろん教師も。世の中には『先生』が多いな)
 吉田刑事が帰ったあと、川尻は依頼者応対の合間に、交換殺人のことを考えた。
(寺田が島山の命令で俺に接触してきたとして……俺が交換殺人の約束をした相手は、島山だったのか? でも、メモには小渕の名前があっただけで、島山のはなかった。しかし、麗子が殺されたのは、小渕が死んだあと。誰かもう一人、交換殺人に関与している可能性が濃厚だ。そいつが島山だとしよう。要するに、俺は船旅の最中、島山と小渕の二人と知り合った。三人は酒の勢いもあって、交換殺人を決行することに合意した。こういうことか)
 そういえば……と、川尻は交換殺人のメモをした紙の状態を思い出した。
(あのメモ、上下に破いた痕があった。上か下かは知らないが、島山の名前と彼が殺す役を受け持ったターゲットの名前が、書いてあったんだろう。それを俺は何かの拍子に破いた上、切れ端の方を散逸してしまった)
 想像を端緒に記憶を呼び起こそうとする。意外にあっさりと思い出せたことがある。
(手品だ。若い女相手にいい気になって手品を披露したが、そのときに紙を燃やした覚えがあるぞ。その場に適当な紙がなかったのか、俺はポケットから寄りによって、交換殺人のメモ書きを取り出し、一部を破いて、燃やしてみせたんだ)
 今さらながら冷や汗を覚える。思わず、額を手の甲で拭った。そのまま片手で頭を抱え、沸いてきた笑いを我慢する。落ち着いてから、さらに考えを進めた。
(だいぶすっきりしたが、まだ辻褄が合わない。麗子殺害は小渕の担当だったはずだ。島山はすでに受け持ったターゲット――多分、小渕夏穂――を殺していた。島山が殺したがっていたのきっと平井和美であり、俺が始末した。交換殺人が完結するには、小渕が麗子を殺さねばならないが、奴は妻の葬儀などで自由が利かなくなり、挙げ句、殺された。犯人は捕まっているから、小渕の死亡は俺達の交換殺人とは無関係だろう。あくまでアクシデント。それじゃあ、麗子を殺したのはやはり島山しかいない。ただ、何で島山が小渕の分までやったんだ?)
 弁護士だから変なところで律儀なのか、などと妙な想像をしてしまった。川尻はインスタントコーヒーを入れた。香りを嗅ぎながら、思考を働かせる。
(たとえば――小渕が死んだおかげで交換殺人が完結しないとなったら、ターゲットを殺してもらっていない俺が不満から脅迫してきたり、警察に密告したりする――と考えたのか? それを恐れた島山は、麗子を殺して交換殺人を完結させた。辻褄は一応合うが、弁護士にしてはやけに短絡かつ暴力的な解決手段だな。島山だって、拇印ありの交換殺人メモを持っているはず。寺田を俺のところによこすぐらいなら、一度は話し合いの場を持とうとするもんじゃないか?)
 疑問は尽きない。一つの解釈が成立して納得できたと思うと、新たな疑問が浮かぶ。
 正解を見つけようと、根を詰めて考えていた川尻だったが、ふと我に返った。
(何をやってるんだ、俺は。疑問には違いないが、解かねばならない謎ではない。目的は達した。それで万事オーケーじゃないか。そもそも、交換殺人を行う者同士、互いの素性を知りすぎてもろくなことにはならん。過去は葬るべきだ)
 川尻は結論づけた。全てを記憶の棚の奥底に閉まった。そのつもりだった。

 米木民夫は娘の躾けに厳しい基準を課している。無論、川尻も承知の上で付き合っており、結婚を前提にしているので焦ることもない。それでも性的欲求というのは時折波のように寄せてくる訳で、抑えるのに多少努力を必要とする。
 その夜――海の日だった――、予定通りにデートを終え、彼女の家に送り届けると、一人で自宅に引き返す川尻は車中で、悪人めいた呟きを小さくした。
(こんなときのためにもう少し生かしておいてもよかったかな)
 沼崎麗子の姿を思い浮かべながら。
 悪趣味なジョークのつもりだが、笑うには殺した記憶がまだ生々しい。ただ、おかげで性欲の方は引っ込んだようだ。これで自宅に直行できる。
 十数分後、帰り着いた川尻は、路駐された見慣れぬ車に気付いた。外灯から離れているため、判然としない点が多いが、青っぽいボディのセダンで、恐らく中古車だろう。中に人がいるかどうかは分からない。あまりじろじろ見るのはためらわれたが、嫌な予感を覚えたのも確かだ。
(警察?)
 真っ先に浮かんだ。素知らぬふりをして、家を目指す。
(警察だとしたら、あんな下手な、あからさまな張り込みがあるか? プレッシャーを掛ける狙いか? でも、あの刑事は、俺にアリバイが成立したと認めていたぞ。警察じゃないとしたら……)
 仕事柄、危険な目に遭うことはたまにある。結果によっては、調査対象にされた人物から、逆恨みされる場合等だ。
(暴力は御免被りたい)
 川尻の腕っ節は、平均より少し上といった程度。護身術や制圧術の類は一応身に着けているものの、それは最後の手段。三十六計逃げるにしかず。
(とはいえ、もしも中に人がいて、俺を狙っているのなら、このまま家に戻っていいのかどうか。この場をやり過ごせても、この先びくびくしながら暮らすのは疲れる。気付かぬふりをして、また出て行き、襲われたところを取り押さえられれば最高なんだが、果たしてそううまく行くか)
 迷う川尻の足取りが鈍った。それを好機と見たのか、車中の人物が行動に移った。運転席側のドアが開き、人影が飛び出す。川尻は音に振り返った。
 車から現れたのは明らかに男で、みぞおちの高さ辺りで構えた左手には、光る物が握られている。頑丈そうな柄が見て取れた。そこに右手を添え、無言のまま、真っ直ぐ向かって来た。

           *           *

 島山進次郎は船の振動をかすかに感じながら、廊下を歩いていた。いつもより、多少飲み過ぎたようだ。意識して歩かないと、足下がふらつく。壁に手をつきながら、ゆっくり進む。
 そのとき、後ろから背をぽんと叩かれた。最前まで話していた内容が内容だけに、びくりとしてしまう。平静を保ちつつ、振り返ると、そこにはさっきまで会話していた相手の一人が立っていた。愛想笑いを浮かべている。
「小渕さん、どうしたのですか。顔を合わせる回数は可能な限り少ない方がいいと言ったのは、あなただったはず」
 声を潜め、疑問を呈する。相手の小渕は「ここでするような話じゃないし、あなたか私の部屋に行きませんか」と持ち掛けてきた。同意し、小渕の部屋で話を続ける。
「あまり長々と話し込むのもよくないと思うので、単刀直入に申します。私とあなたの間で、もう一件、交換殺人をやれんもんでしょうか?」
「もう一件というと、先ほどの話し合いで決めた、三名による交換殺人とは別に?」
「さすが、飲み込みが早い」
 酔い覚ましのためか、炭酸飲料を煽る小渕。島山も勧められたが、断った。代わりにお茶をもらう。
「私にはもう一人、この世からいなくなって欲しい人間がいましてね。ちょうどいい機会だから、まとめて始末できないかと考えたんです」
「交換殺人を新たに持ち掛けるという思い付きは分かるが、何故、私なのです。もう一人の男、川尻優には話したのですか? まさか、すでに持ち掛けて断られたと?」
「いえいえ、それはない。まだ誰にも話しちゃいません。私が川尻でなく、島山さんに持ち掛けたのは、あなたの方が適任だと判断したからですよ」
 小渕はげっぷを堪える仕種をした。
「島山さん、あなたはさっきの交換殺人の話し合いで、殺したい相手の名を挙げるときに少し迷ったでしょう? あれを見て、ああこの人も何人か殺したい奴がいるんだなと分かった」
「なるほど。川尻さんは即答だったな」
「それだけじゃない。信用度から言って、あなたと彼とでは段違いだ。弁護士と興信所所長。どちらが信用できるかと問われたら、十人中十人が弁護士を選ぶでしょう」
「……殺しをやろうというような弁護士でも?」
 少しばかり自嘲と皮肉を効かせて応じる島山。小渕は一瞬、目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「殺しをやろうというような探偵風情に比べれば、断然上だ」
 こうして二つ目の交換殺人計画がまとまった。自署と拇印のあるメモ書きを二枚作り、それぞれの裏にターゲットの情報を書き込むと、交換する。

 島山進次郎 → 力武富士雄
  7/10  9:00-21:00
 小渕満彦  → 渡辺憲治
  6/28 10:00-15:00

 これでメモは最初の物と合わせて二枚になった。

 島山進次郎 → 小渕夏穂
  7/1  10:00-21:00
 川尻優   → 平井和美
  7/2   9:00-14:00
 小渕満彦  → 沼崎麗子
  7/8   7:00-17:00

「もしよければ」
 別れ際、小渕は島山に言った。
「緊急時に連絡を取れるよう、我々二人だけでも、電話番号を教え合っておきませんか」
「……メモに残すのは危険だ。あなた、記憶力は?」
「自信があります。今なら酔いも覚めているし」
 弁護士と医師は各自の電話番号を口頭で交換した。

 六月二十八日に渡辺憲治わたなべけんじが交通事故死したことを、島山はニュースで知った。何者かに押され、車道に突き飛ばされた疑いがあるとして、捜査が行われたが、島山のところに刑事が来ることはなかった。交換殺人の意味がなかったかなと、苦笑を覚えたものだ。
 七月一日、島山は小渕の妻を殺した。拍子抜けするほど簡単だった。それで気が抜けたせいではないが、東京に戻る途中、交通事故に巻き込まれ、検査入院する羽目になった。島山は焦った。翌七月二日には、川尻が平井和美を殺す段取りになっている。法廷にいることでアリバイ成立を目論んでいたのが、下手をすると――川尻の決行する時間によっては――、島山にも平井和美殺しが可能と見なされることもあり得る。しかし川尻には連絡できない。調査すれば分かるだろうが、時間がなかった。
 ところが二日になってみると、平井和美が殺されたことが早々と報じられた。島山はアリバイ確保できて安堵した反面、川尻という男に不気味さを感じた。どうして一日早めたのか。交換殺人に乗ったふりをして、有名弁護士を陥れようと謀ったのか。それとも島山を監視し、行動を逐一把握していたのか。
 島山は寺田に命じ、川尻を調べさせた。
 並行して、別のハプニングが起きる。小渕から相談があるとの連絡が入ったのだ。小渕の説明によれば、「妻の死により身辺が慌ただしくなり、自由が利かなくなった。七月八日の殺人を実行できない恐れが高い。反故にする訳にもいかなくて、ほとほと困っている」という。要するに、代わりにやってもらえまいかという希望を、言外に匂わせていた。
 察した島山は己のスケジュールをチェックした上で、やってもかまわないが条件が二つある、と返事した。
「一つ、力武富士雄の殺害依頼を取り下げてもらう」
「それは……やむを得ないな」
 困ったような声で反応した小渕だったが、渋々受け入れた。
「二つ、交換殺人のメモを二枚とも私に提出する」
「実行前にか? 私の寄る辺がなくなってしまうじゃないか」
「それぐらいのリスクは負ってください。あなたの都合で交換殺人の輪が崩れかけたんだからな。そもそも、私が沼崎麗子を殺すには、あなたの持つメモが必要だ」
「いや、しかし、電話で伝えれば事足りるんじゃないか。また顔を合わせるのは、色々とまずい」
「一瞬で済む。問題ありますまい」
 小渕は時間が厳しいだの何だのと理屈をこねたが、最終的には条件を飲んだ。島山はメモを手に入れ、沼崎麗子殺害の役目を負った。このことが川尻に対する何らかの切り札になるかもしれない、そんな計算もあってのことだった。
 しばらくして、寺田から報告が入る。川尻の態度に不審な点は見られない。だが、先生(島山)について色々調べたことも認めた。
(信じていいのか。沼崎殺害を、小渕に代わり私が受け持ったことまで掴んでいたらしい点は、ちょっと引っ掛かるが)
 島山は最初に川尻が希望していた通り、七月八日に沼崎麗子を手に掛けた。二度目だから慣れたということはなく、どちらかと言えばあっさり済んだ一度目に比べて、手こずった感覚があった。川尻のことが頭のどこかで気になっていたせいかもしれない。
 島山のそんな懸念を後押しするような出来事が、翌日にニュースとして流れた。小渕の死である。この件を驚きとともに受け止めた島山は、あれこれと想像を巡らせた。交換殺人の計画と関係あるのかどうか。あるとしたら、どうしてこうなったのか。
(もしや、川尻が? 交換殺人を離脱した小渕に制裁を加えたのだとしたら。最初から小渕抜きでやればよかったとばかりに)
 根拠のない単なる思い付きの仮説に過ぎない。それでも、島山はこの仮説に身震いを覚えた。下手を打つと、自分も消されかねない。ミスを犯していなくても、沼崎麗子を殺した現段階で、舞台裏を知る者を排除するつもりでは……。
 島山が防衛策を本気で考え始めた頃、小渕殺しの容疑者逮捕が報道された。その後の経過を見ても、五味靖なる男が犯人で間違いないようだ。島山は再び安堵できた。川尻から接触してくる気配もない。もう余計なことに頭を悩ませず、これまでの日常に戻ろう。そう強く思った。

 優秀な弁護士としての暮らしを改めて送り始めた島山だったが、嫌でも交換殺人を思い出させる出来事が起きた。
(寺田が死んだ……?)
 決して善人とは呼べなかったが、能力は買っていた。おいそれとやられるような男でもない。そんな寺田が、あっさり命を落とした。線路へ転落した結果だが、もしかするとプラットフォームから突き落とされたのかもしれない。
(やはり、川尻の仕業か。腕っ節が強そうには見えなかったが、あなどれない。ひょっとすると、仕事の部下にごつい奴がいて手伝わせたのかもしれない)
 この頃になると、島山も冷静な判断が難しくなっていた。もしも川尻に寺田殺しを手伝わせる仲間がいるのなら、交換殺人の相談に乗るはずがない。尤も、このことに気付いたとしても、不意を突けば後ろから押すぐらい、誰にでも可能だという結論を下したであろうが。
(ぐずぐずしていられん)
 島山はスケジュールを調べ、単独で動ける日を見つけた。それから凶器は何がよいかを思案し始めた。

           *           *

 寺田伸人の死は、正式に事故と認定された。寺田が当日朝、転倒して頭を打ち、軽い脳震盪を起こしていたことに加え、駅に設置された複数台の監視カメラの映像を分析し、怪しい動きをする人物は皆無であったと確認されたのが主な理由である。

終わり

#創作大賞2025 #ミステリー小説部門

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