ロイターと歌と皇位継承④「日本とフランス④」10/12~10/18
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❶October 11, 2025
Gold pares gains after brief run above $4,000/oz on Trump's China tariff warning
Oct 10 (Reuters) - Gold pared some gains on Friday after briefly rallying above the $4,000 an ounce milestone for a second time this week as U.S. President Donald Trump's warning of possible fresh tariffs on China accelerated a flight to safe-haven assets.
Spot gold was up 0.4% at $3,989.49 per ounce as of 1:40 p.m. ET (1740 GMT). The metal logged a 2.7% gain this week.
トランプ大統領の対中関税警告を受け、金価格は一時4000ドル/オンスを超えたが、その後上昇幅を縮小した
10月10日(ロイター) - 金価格は、今週2度目となる1オンス当たり4000ドルの節目を一時的に上回った後、金曜日に上げ幅を縮小した。ドナルド・トランプ米大統領が中国への新たな関税の可能性を警告したことで、安全資産への逃避が加速したためである。
金現物は、米国東部標準時午後1時40分(GMT 17時40分)時点で0.4%上昇し、1オンスあたり3,989.49ドルとなった。今週は2.7%の上昇を記録した。
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❷October 13, 2025
Trump says Gaza war has ended; Israel awaits release of hostagesOct 12 (Reuters) - The war in Gaza has ended and the Middle East is going to "normalize," U.S. President Donald Trump said on Sunday as he flew to Israel, which was waiting for Hamas to release Israeli hostages as world leaders were gathering to discuss the next steps toward peace.
"The war is over, you understand that," Trump told reporters aboard Air Force One as he began a flight from Washington to Israel.
トランプ大統領、ガザ戦争終結と発表。イスラエルは人質解放を待つ
(ロイター) - ガザでの戦争は終結し、中東は「正常化」に向かうだろうと、ドナルド・トランプ米大統領は日曜、世界の首脳らが和平に向けた次のステップを協議するため集まる中、ハマスによるイスラエル人人質の解放を待つイスラエルへ向かう飛行機の中で述べた。
「戦争は終わった。皆さんも分かっているだろう」とトランプ大統領はワシントンからイスラエルへの飛行開始時、大統領専用機エアフォースワン内で記者団に語った。
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❸October 14, 2025
Wall Street ends sharply higher on Trump China comments; Broadcom surges
Oct 13 (Reuters) - Wall Street's main indexes ended sharply higher on Monday, led by gains in Broadcom and other chipmakers, after President Donald Trump struck a conciliatory tone about renewed U.S.-China trade tensions, easing investor worries.
Lifting sentiment, U.S. Treasury Secretary Scott Bessent said in an interview with Fox Business Network that Trump was on track to meet his Chinese counterpart in South Korea as the two sides work on de-escalating trade frictions that grew late last week.
トランプ大統領の中国発言を受け、ウォール街は大幅上昇、ブロードコム株は急伸
10月13日(ロイター) - ドナルド・トランプ大統領が米中貿易摩擦の再燃について融和的な姿勢を示し、投資家の懸念が和らいだことを受け、ウォール街の主要株価指数は13日、ブロードコムなどの半導体株の上昇に牽引され、大幅に上昇して取引を終えた。
スコット・ベセント米財務長官はフォックス・ビジネス・ネットワークとのインタビューで、トランプ大統領が韓国で中国財務長官と会談する予定であり、両国は先週末に激化した貿易摩擦の緩和に取り組んでいると述べ、市場のセンチメントを好転させた。
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❹October 15, 2025
Fed's Powell says economy may be on firmer footing, but job market weak
PHILADELPHIA, Oct 14 (Reuters) - The U.S. labor market remained mired in its low-hiring, low-firing doldrums through September, though the economy "may be on a somewhat firmer trajectory than expected," Federal Reserve Chair Jerome Powell said on Tuesday, noting that policymakers will take a "meeting-by-meeting" approach to interest rate cuts as they balance job market weakness with above-target inflation.Powell, in remarks to a National Association for Business Economics conference in Philadelphia, acknowledged the economic dilemma that has split U.S. central bank officials almost evenly among those concerned most about still-high and potentially rising inflation, and those worried the labor market may be facing a fast slide downward.
パウエルFRB議長、経済はより堅調になる可能性はあるが、雇用市場は弱いと発言
フィラデルフィア 10月14日 ロイター - 米連邦準備制度理事会(FRB)のジェローム・パウエル議長は14日、米労働市場は9月まで雇用と解雇の低迷が続いたものの、経済は「予想よりもやや堅調な軌道に乗っている可能性がある」と述べ、政策当局は雇用市場の弱さと目標を上回るインフレ率のバランスを取りながら、会合ごとに利下げを行う方針を示唆した。
パウエル議長はフィラデルフィアで開かれた全米ビジネス経済学会の会議で、依然として高いインフレと今後さらに上昇する可能性を最も懸念する人々と、労働市場が急速に悪化する可能性を懸念する人々に米中央銀行当局者がほぼ二分されている経済的ジレンマを認めた。
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❺October 16, 2025
IMF urges Bank of Japan to move 'very gradually' with rate hikes
WASHINGTON, Oct 15 (Reuters) - The Bank of Japan must keep monetary policy loose and move very gradually in raising interest rates as global trade uncertainty clouds the economic outlook, a senior International Monetary Fund official said on Wednesday.
Japan's economy has performed better than expected so far this year on robust consumption and exports, with Tokyo's trade deal with Washington easing some uncertainty, said Nada Choueiri, deputy director of the IMF's Asia and Pacific Department.
IMFは日本銀行に対し、利上げを「極めて穏やかに」進めるよう要請
ワシントン 15日 ロイター - 国際通貨基金(IMF)の高官は15日、世界貿易を巡る不確実性が経済見通しに影を落としているため、日本銀行は金融政策を緩和した上で、利上げを極めて緩やかに進める必要があるとの見解を示した。
IMFアジア太平洋局のナダ・シュエイリ副局長は、日本経済は今年これまでのところ、消費と輸出が好調で予想以上に好調であり、日米貿易協定で不確実性がいくらか和らいだと述べた。
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❻ October 17, 2025
Japan's core inflation likely re-accelerated in September: Reuters poll
TOKYO, Oct 17 (Reuters) - Japan's core inflation likely accelerated in September for the first time in four months on continued increases in living costs, a Reuters poll showed, adding to pressure on the central bank to raise interest rates.
Bank of Japan Governor Kazuo Ueda said on Thursday the central bank will scrutinise more data in deciding whether to hike rates at its next October 29-30 meeting.
日本のコアインフレ率は9月に再び加速する可能性が高い。ロイター調査
[東京 17日 ロイター] - ロイターの調査によると、日本のコアインフレ率は、生活費の継続的な上昇により、9月に4カ月ぶりに加速する見込みで、中央銀行への利上げ圧力が高まっている。
日本銀行の上田一男総裁は木曜日、次回10月29~30日の会合で利上げを行うかどうかを決めるにあたり、より多くのデータを精査すると述べた。
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♪【Let The River Run】
Let the river run
Let all the dreamers
Wake the nation
Come the New Jerusalem
川よ 流れるままに
夢見る全ての人が
この国を目覚めさせる
来たれ 新たな聖地に
Silver cities rise
The morning lights
The streets that meet them
And sirens call them on with a song
白銀の都市に
朝日が昇る
通りは街に続き
サイレンの歌声が招く
It's asking for the taking
Trembling , shaking
Oh , my heart aching
求め続ける、それを手に入れるまで
ふるえて、動揺して、
ああ、私の心は痛む
We're coming to the edge
Running on the water
Coming through the fog
Your sons and daughters
限界へ近づいている
水面を走り
霧を抜けてやってくる
この街を受け継ぐ者たち
We the great and small
Stand on a star
And blaze a trail of desire
Through the dark'ning dawn
偉大であり ちっぽけな我ら
星の上に立ち
夢に向かい 道を切り開く
暗い夜明けを越えて
It's asking for the taking
Come run with me now
The sky is the color of blue
You've never ever seen
In the eye of your lover
求め続ける それを手に入れるまで
さあ共に走ろう
空は青く輝いている
まだ誰も見たことがないくらい
貴方の恋人の瞳に
Oh my heart is aching
We're coming to the edge
Running on the water
Coming through the fog
Your sons and daughters
ああ私の心は痛む
私たちは境界にいる
水面を走り
霧を抜けやって来る
新たな者達
It's asking for the taking
Trembling, shaking
Oh, my heart is aching
求め続ける それを手に入れるまで
震えて 動揺して
ああ私の心は痛む
We're coming to the edge
Running on the water
Coming through the fog
Your sons and daughters
大陸の端に
水面を走り
霧を抜けてやって来る
この街を受け継ぐ者達
Let the river run
Let all the dreamers
Wake the nation
Come the New Jerusalem
川よ流れるままに
夢見る全ての人が
この国を目覚めさせる
来たれ新たな聖地に
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エッセイ「皇位継承④」
<日本とフランス④>
伏見宮が創設されたのは1409年、もしくは1456年だと言われています。
1409年は伏見宮初代・栄仁親王が、
皇室累代の御料「伏見」に戻り
「伏見殿」と称されるようになった年です。
1456年は伏見宮四代目当主・貞常親王が、
後花園天皇から「後崇光」の紋所を代々使用することと
「永世・伏見殿御所(伏見殿)」
と称することを勅許された年だといわれています。
では、伏見宮の初代当主・栄仁とは、
どんな人物だったのでしょうか?
彼が生まれたのは1351年、
北朝第四代・後光厳天皇即位の1年前で、
南北朝統一の「正平一統」があった年です。
栄仁の父・祟光天皇は光厳天皇の嫡男で、
持明院統の嫡流でした。
すなわち祟光天皇の第一皇子と言うことは、
その正統な跡継ぎ、
つまり栄仁親王は時期天皇だったと言うことです。
しかし、栄仁親王は生まれた翌年、
後光厳天皇が即位しています。
後光厳は祟光天皇の弟です。
本来ならば、即位するはずがない、傍系です。
1352年、何故、嫡流・栄仁は、即位できず、
傍系の後光厳が即位することになったのでしょうか。
当時は南北朝時代「観応の擾乱」の最中でした。
吉野の賀名生に北朝の3人の上皇たちは拉致され、
栄仁親王についてはわかりませんが、
廃太子・直仁親王も拉致されていました。
そのことと関係があるのではないでしょうか。
観応の擾乱の後、
天下は足利幕府によって統治されました。
1371年、北朝第四代・後光厳天皇から、
北朝第五代・後円融天皇への譲位がありました。
栄仁親王はその時20歳でした。
しかし、栄仁親王は、またもや即位できませんでした。
実父の祟光院は北朝第三代天皇で、
第四代・後光厳天皇の即位は、
正統な即位とはいえませんでした。
その即位は三種の神器もない、
足利尊氏による強引な皇位式でしたので、
祟光院は盛んに栄仁親王の即位を促しました。
しかし、将軍・足利義満によって、
栄仁親王の即位は受け入れられませんでした。
この時、何故、栄仁親王は即位できなかったのでしょうか。
祟光院は吉野の賀名生に拉致された6年後、
1357年に帰京しています。
その際
「子々孫々、自分の子孫は皇位を求めない」
との念書を幕府に差し入れています。
もし、この念書が、
祟光流の栄仁親王の即位を阻んだのでしたら、
この念書は、その後も有効ですから、
子々孫々においても同じように、
伏見宮の末裔による皇位継承は、
できない事になります。
10年後、1382年、
次の皇位継承、後円融天皇から後小松天皇への皇位継承が行われました。
栄仁親王は31歳でしたが、
やはりまた、即位できませんでした。
後小松天皇は当時5歳でした。
このように栄仁親王は計3度も皇位継承のチャンスを逃しています。
この数は異常です。
恐らく、時代背景も原因だったのだと思われますが、
祟光上皇が書いた念書も原因であったのだと思います。
それでは、もっと詳しく、
栄仁が生まれた1351年当時の政治的な背景を見てみましょう。
栄仁が生まれた年、
足利尊氏が正平一統に踏み切っています。
観応の擾乱の中で、
一時的に南朝と和解し、
弟・直義を討伐しました。
足利尊氏は北朝の天皇も元号も廃して、
南朝の元号「正平」に統一しました。
これを「正平一統」と言います。
足利尊氏は鎌倉にて足利直義を討ったのですが、
この間、南朝は政権接収の具体案として、
北朝の所持する三種の神器を接収し
北朝が与えた官位・所領等を、
両朝分裂の1336年当時の状態にもどすことを要求しました。
京の留守を預かっていた実子の義詮は、
この条件に抵抗します。
すると南朝は武力をもって入京し、
足利義詮は近江へ追われました。
足利尊氏は直ちに反南朝を掲げ、
鎌倉から軍勢を連れて引き返し、
3月15日に京都を奪還しました。
これにより、南朝は再び吉野に退きました。
その際、光厳,光明,崇光の三上皇、
および廃太子・直仁が南朝軍によって連れ去られました。
尊氏は幕府存立の大義名分保持の必要から、
翌年、光厳上皇の皇子・弥仁親王(後光厳天皇)を践祚させ、
北朝を再建することにしたのです。
1352年、後光厳天皇の即位式は、
三種神器もなく、
天皇即位を認める治天の君もいない状態で進められました。
朝廷内では、この異例な即位式に対し、
異論が噴出しましたが、
二条良基は
「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(じ)(八尺瓊勾玉)となる、何ぞ不可ならん」
と啖呵を切って動揺を静めました。
1357年、南朝から三人の上皇が帰還しました。
祟光上皇は子々孫々、
祟光流は皇位は望まないとの念書を幕府に差し出していたので、
天皇復帰はできませんでした。
しかし、直仁皇太子は既に出家しており、
皇太子は空位でした。
当時6歳であった栄仁親王は、
立太子されてもよかったと思います。
しかし、立太子される事はありませんでした。
祟光念書の影響もあったでしょう。
足利幕府の悪意を感じ取れます。
1371年、後光厳天皇が実子「緒仁」に譲位する意向を示した時、
朝廷内は緒仁親王を押す後光厳派と、
栄仁親王を押す祟光院派で激しく争いました。
栄仁親王は、その時20歳でした。
足利幕府の介入で、天皇は緒仁親王と決まり、
後円融天皇として即位しました。
この時も、
やはり祟光上皇の書いた念書が響いたのではないかと思われます。
ここで少し時を遡り、
祟光の実父である北朝初代・光厳天皇を考察してみようと思います。
光厳天皇は諱を量仁といい、
元弘の乱の時の皇太子でした。
鎌倉幕府は元弘の乱は、
後醍醐天皇が独断で起こした乱と判断し、
1332年、量仁皇太子は後醍醐天皇に代わって、
光厳天皇として践祚しました。
皇太子は、前皇太子の邦良親王の実子・康仁親王としました。
しかし、その直後、後醍醐が隠岐を脱出、倒幕を再開しました。
元弘3年5月22日(1333年7月4日) 鎌倉幕府は滅亡。
後醍醐は復権を果たし、光厳天皇、康仁皇太子を廃位します。
そして、自分の実子、恒良親王が立太子されました。
しかし、この「建武の新政」は、
武士の強い反発をまねき、3年持ちませんでした。
関東では「逃げ上手の若君」
こと北条時行が「中先代の乱」を起こします。
足利尊氏は時行討伐に出陣、
辻堂で時行を担いだ諏訪大社「大祝」諏訪頼重を自刃に追い込みます。
しかし、尊氏は後醍醐天皇を無視したため、
後醍醐天皇は尊氏に対し討伐令を出します。
北畠親房・顕家親子、楠木正成・新田義貞らがこれに応じ、
1336年「 豊島河原の戦い」で尊氏は新田義貞、北畠親子に敗れ、
九州に敗走する事となります。
しかし、ここで光厳上皇が足利尊氏に新田義貞追討の院宣を与えます。
足利尊氏は九州で兵を建て直し
「湊川の戦い」で楠木正成・新田義貞を破り、
京都を制圧します。
足利尊氏は、後醍醐天皇、康仁皇太子を廃し、
光厳上皇の弟・豊仁を光明天皇として即位させました。
しかし、皇太子には、光厳・光明の系統ではなく、
後醍醐天皇の皇子、成良親王を指名しました。
ここで尊氏が、
光厳天皇の第一皇子、益仁(祟光天皇)を、
皇太子にしなかったのには理由があります。
後醍醐が比叡山で抵抗を続けていたからです。
後醍醐と和解するため、
後醍醐の実子を皇太子にして、懐柔しようとしたのです。
栄仁親王は3回、天皇即位のチャンスを逃していましたが、
同様に、その父の祟光天皇も、
立太子のチャンスを何度も逃しています。
後醍醐天皇は尊氏の和睦策を無視し、
吉野に南朝を立ち上げます。
足利尊氏は、成良親王を皇太子にしておく必要がなくなり、
皇太子を、光厳上皇の隠し子、直仁親王に差し替えました。
ここで、益仁親王は、二回目の立太子チャンスを、逃しました。
直仁親王は、花園上皇の第3皇子ですが、
実際は光厳天皇の隠し子で、
いわば祟光の腹違いの2歳下の弟です。
持明院統・嫡流は、
光厳上皇の第一皇子・益仁親王です。
しかし、足利尊氏は、正当性を無視し、
光厳上皇が、溺愛している隠し子・直仁親王を、
皇太子に据えて、光厳上皇の恩に報いたのです。
光厳上皇が与えた新田討伐の院宣への恩返しだったのでしょう。
しかし、この人事は朝廷内で波紋を呼びます。
いくらなんでも、わがままが過ぎるというわけです。
光厳上皇にも、常識外れだという自覚があったでしょう。
すぐに皇太子を益仁親王に差し代えました。
1338年、益仁親王は立太子され、
そして10年後、1348年、光明天皇は益仁親王(当時14歳)に皇位を譲位し、
北朝第三代・祟光天皇が誕生しました。
しかし、光厳上皇は、今度は、
隠し子・直仁親王を祟光天皇の皇太子としました。
崇光天皇は一代主とされたのです。
1351年、祟光天皇の第一皇子・栄仁は生まれます。
しかし、皇太子にはなれない天皇の嫡男となったのです。
1349年、足利幕府執事「高師直・師泰」兄弟と、
足利尊氏の弟、足利直義が、
幕府を二つに割る内紛を起こします。
「観応の擾乱」です。
高兄弟は足利直義を襲撃し、直義は兄・尊氏の屋敷に逃げ込みます。
観応の擾乱は高兄弟の勝利に終わりました。
足利直義は出家となりました。
がしかし、直義の養子、足利直冬が叔父の窮地を救おうと、
長門で兵を挙げます。
直冬の実父である尊氏は高兄弟と直冬討伐に長門へ向かいます。
その隙を突いて足利直義は南朝と和睦します。
1351年、足利直義は南朝軍と共同で京を攻めました。
京を守っていた尊氏の子・足利義詮は天皇・皇族を京に残したまま逃走。
足利尊氏は備前から引き返し
「摂津打出浜の戦い」で南朝軍と戦いますが、敗れます。
そして、北朝が南朝に下る形で、1351年「正平一統」が成立しました。この時、足利尊氏は南朝・後村上天皇を認め、南北朝は統一されました。
北朝・祟光天皇は廃位となり、
尊氏は弟・直義、実子・直冬を討伐に出陣します。
南朝は三人の上皇と直仁親王を引き連れ、
吉野に逃れ、祟光、光厳、光明、直仁らの上皇、
廃太子らを賀名生に拉致しました。
1357年、祟光は幕府へ念書を差し出し、
京への帰京を願い出ます。
子々孫々まで、決して皇位は望みませんから、
京へ帰京を許してくださいとの内容です。
足利尊氏はこの願いを受け入れ、
上皇らの帰京は許されました。
さて、そのとき、既に京には北朝第四代・後光厳天皇が即位していました。
足利尊氏は三種神器のない状態で、
祟光の弟、弥仁親王を北朝第四代・後光厳天皇として即位させ、
北朝を再興させていたのです。
正式な持明院統・嫡流である祟光の第一皇子である栄仁は、
天皇にも皇太子にもなれませんでした。
1371年、後光厳天皇は実子、緒仁へ皇位を譲位しようとしようとします。
祟光は今度こそ栄仁を即位させようと運動しましたが、
足利義満は緒仁親王を践祚させました。
その後、足利義満は後円融天皇と反目し、
皇位簒奪の計画を立てますが、あと一歩のところで謎の死を遂げます。
皇統は後円融天皇の後、
後光厳流の後小松天皇へと継承され、
称光天皇へと後光厳流で順調に継承されました。
伏見宮は栄仁親王の実子、治仁が伏見宮2代目当主を継ぎ、
弟3代目当主も、治仁の弟、貞成が継ぎ、
第4代目も貞成の実子、彦仁が次ぐ予定でした。
ところが、第101代、称光天皇に嗣子ができず、
病に臥せってしまったのです。
称光天皇が亡くなれば天皇家の男系が途絶えます。
そこで伏見宮の四代目になるはずだった彦仁に、
皇位継承者の話が持ち上がりました。
フランスでは、こういう場合、男系の途切れた家は断絶し、
傍系の男系の実力のある家に王位が渡るのが通例です。
しかし、日本の場合、皇位継承資格者が、
傍系の男系の家から天皇家へ養子で入るのです。
この場合、伏見宮流から後光厳流へ、
皇位継承者が移籍するわけです。
この時、系図も流派も変わってしまいます。
伏見宮流と後光厳流、2つの流派を系統で並べると以下のようになります。
(後光厳流) 光厳天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇→称光天皇
(祟光流) 光厳天皇→祟光天皇→伏見宮栄仁親王→伏見宮貞成親王→伏見宮彦仁
彦仁親王は称光天皇と8親等離れていますが、
皇位継承の前例で、継体天皇の11親等継承というのがありますので、
この8親等継承というのは問題はありませんでした。
移籍方法は、まず後小松上皇の元へ、
伏見宮彦仁は猶子として入ります。
そして、称光天皇とは兄弟という形となるのです。
称光天皇の死後、後を継いで天皇に即位します。
この場合、彦仁親王は祟光流から後光厳流へ変更されることになります。
崇光天皇以来、
皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとっては、
実子が皇位を継げるわけですから、
大変目出度いことではあります。
しかし、皇統が後光厳流から祟光流へ移ったわけではないのです。
ここがフランスと日本の大きな違いです。
カペー家からヴァロア家へと王朝交代が起こったフランスでは、
王位がカペー家からヴァロワ家へ移動したのですが、
日本では、天皇家の皇位は動かず、
皇位継承資格のある伏見宮の嫡男を、
猶子として天皇家へ入れ、
天皇家の男として皇位を継承させるのです。
日本で王朝交代が起きない理由はここにあります。
日本では家というものは重たいのです。
特に天皇家は重要なので簡単には断絶させません。
人は重くないので、
家のために人が養子や猶子となって移動するのです。
後光厳流男系も祟光流男系も、
同じ神武天皇の男系の血です。
養子として、伏見宮から天皇家へ入った彦仁は、
実父との関係は消えてもいいのです。
日本の伝統では、
神皇正統記や本朝皇胤紹介運録の系図にも書かれてあるように、
養父・後小松上皇が、彦仁の父だと公的には見なします。
元を正せばどちらも同じ男系の血統だからということなのでしょう。後花園天皇は即位後、伏見宮を優遇した。
永世世襲親王家という家格を与えました。
しかし、実父である伏見宮貞成親王への尊号宣下の際は、
貞成を傍親とする詔書を採用します。
後花園天皇は伏見宮貞成を叔父として処遇したのです。
養子にとって親は養父を指します。
つまり後花園天皇にとって、
親は後小松上皇というのが当時の朝廷の慣例だったのでしょう。
それゆえ神皇正統記でも後小松と後花園の系図は実線でつながっています。
伏見宮貞成は公的には後花園の叔父という扱いになりました。
ここに、平安・室町時代の家というものの考え方が現れています。
養子で他家へ入ると、
そこの養親の方が重いわけです。
明治以前の天皇系図の元本である神皇正統記を見ると、
後花園天皇の親は後小松天皇となっています。
あまり知られていませんが、
江戸以前は皇統譜はありませんでした。
明治・大正期に、
神皇正統記や本朝皇胤紹運録をもとに作られたものが皇統譜です。
大正15年に皇統譜令が定められ、
正統記にはない39代弘文天皇が加えられ、
逆に神皇正統記にはあった第15代神功皇后は削除されました。
後花園天皇と後小松天皇の間の実線は、
明治以降は点線に書き換えられ、
後花園天皇は後光厳流、祟光流、
どちらとも読み取れるように改編されました。
皇位継承問題を議論するとき、
何故かあまり問題視されませんが、
皇統譜は宮内省が1925年に歴史を遡及してつくった系図です。
つまり、私たちは万世一系2680年の伝統という言葉に騙されて、
近年に作成された皇統譜を、
2000年以上も続く伝統ある資料だと思わされていると言うことです。
多くの天皇の謚も、実は、この時、付けられています。
そもそも、皇統譜というものは、
1889年の旧皇室典範ができるまで、
日本には存在してませんでした。
それ以前は、天皇系譜を調べるとき、
本朝皇胤紹運録が一次資料でした。
それらでは、後花園天皇の父は、後小松上皇となっております。
そして、それが正統の天皇なのです。
室町時代は正統の天皇であることは大変重要なことでした。
しかし、明治以降に作られた今の皇統譜では、
伏見宮貞成が後花園天皇の父となって、
後小松天皇とも点線でつながっているという状態です。
つまり、両方正しいとされているわけです。
さて、どちらが本当なのでしょう。
正直、学説も別れておるようです。
では、ちょっとここで世襲親王家の歴史について考えてみましょう。
最初に成立した世襲親王家は常盤井宮です。
初代は恒明親王。
第90代亀山天皇の末っ子です。
第2番目の世襲親王家は木寺宮、初代は康仁親王です。
こちらは後醍醐天皇に無理矢理廃位させられた皇太子で、
第94代後二条天皇の孫です。
それでは、第三番目にできた世襲親王家どこでしょうか、
それが伏見宮です。
初代は栄仁親王です。
世襲親王家の初代当主の共通点は、全員、皇位を約束されていながら、
天皇になれなかった悲劇の親王だという所です。
常盤井宮、木寺宮は1590年頃断絶してしまいましたが、
伏見宮は1947年まで世襲宮家として続きました。
途中で第13代当主貞致と、第16代当主邦貞の時、
断絶の危機はあったのですが、なんとか男系を繋げました。
今日、伏見宮が傲慢に見えるのは、
この時の苦難を乗り越えた歴史的背景があるからでしょう。
伏見宮系の人々は、未だに天皇家の世継ぎが絶えた時は、
継承者を出せる家は伏見宮だけだと思っているようです。
その根拠は伏見宮が神武天皇以来続く男系血統だから、
というわけではないようです。
永世世襲親王家である伏見殿だったから、
という理由が強い気がします。
しかし、肝心の伏見殿と呼ばれた伏見宮・第三代当主・貞成の、
子である後花園天皇は、自らを後光厳流だと詔し、
祟光流を傍流の処遇で接しているのです。
以下5点の歴史的事実がその事実を示しています。
①後花園天皇は後小松上皇と日野西資子の猶子として即位すると、
実父である貞成親王の尊号宣下の際、
貞成を傍親とする詔書を採用した。
②後小松上皇の葬礼で、後花園天皇は父に対する諒闇を行い、
光範門院の際も母に対する諒闇を実施しているが、
貞成親王の際には兄に対するものとして葬礼を行い、
庭田幸子に対しては諒闇を行わなかった。
③崇光流の楽器、琵琶ではなく、
後光厳流の楽器である笙と箏を習得した。
④本朝皇胤紹運録に後小松天皇の皇子として記載されている。
⑤後光厳流の葬儀場である泉涌寺が使用された。
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