「こちとら生半可な気持ちでオタクやってない」
わたしにはたくさんの推しがいる。
推しの友達もだいたい推しだし、推しと競演したひともだいたい推しだ。
小学生のときから、現実世界で好きなひとをつくるのが苦手な子どもだった気がする。
だからこそ、二次元の推しが増えた。
「推し」なんて言葉がない時代から、積み重ねてきて推しは増えまくった。
推しの多重債務者やー(真顔)
グッズを買って祭壇をつくるタイプのオタクのなかには「扶養家族が増えていく」と表現する友人もいる。
言いえて妙だが、大変らしい。
プレスリリースを毎日チェックするというライフワークを抱えると心が休まらないらしいが、気の毒なことだ。
推しがいることが必ずしも幸せではない。
前述の友人のように、ただの趣味を超えて推しがライフワーク化するオタクは少なくない。
むしろ推しがライフワーク化するからこそオタクなのだ、とも思う。
推しにガチ恋して苦しみ続けるオタクの姿も見てきたし、自分自身もその域まで何度も足を踏み込んだ。
推しを見られない日は絶望しかない。
推しを取り巻く環境に一喜一憂し、どうしてわたしはこんなに推しを想っているのに推しの人生に直接関わることができないのかと苦悩する。
推しのグッズやイベントに課金しきれない自分の財力を呪うようになると、末期だ。
オタクの課金は推しへの納税。
納税義務を果たせないオタクは、自らの価値を見出せなくなる。
生活が推しに呑まれていく。
人間でもキャラクターでも、動物でも無機物でも。
等しく推しは誰に対しても無関心だ。
オタクの側が過剰に関心を持つだけで、その関心や熱意に対して推しがリアクションをしてくれない(当たり前だけど)
省みられない自分の感情は、孤独と承認欲求で暴走する。
いつしか、推しを恨むようにすらなっていく。
勝手な話しだけれど。
度を超えたオタクの暴走は報道でも目にする機会があるが、他人事ではないと今でも思う。
母親になった。
妻になった。
ワーママになった。
アラフォーになった。
たくさん増えた肩書や役割は心を救わない、とわたしは思う。
他者への承認欲求も、自己肯定感の低さも、自分のなかに満たされたものがなければ、焼け石に水だ。
割れたグラスに砂を注いでもすべてこぼれてしまうような。
結局さみしいだけであとになにも残らない。
推しや家族や仕事に注力して課金して、それでこころの内側は豊かにならない。
自分自身を許せるか、認められるか、愛せるか。
目を外側じゃなく、内側に向ける勇気が大切な気がする。
もう推し会いたさで200万円も借金をすることはないと思う。
あのときのわたしは自分に自信がなくて、金額の大きさと通ったイベントの数でしか自分の価値を表す単位を持っていなかった。
だけど。
今のわたしは、ちょっとだけ自分が好き。
推しがいなくても楽しく生きていられるし、推しが生活と自分の時間を切り替えるスイッチのような存在になった。
もう、依存しすぎて推しを憎んだりしない。
こころの内側があたたかくて満たされているのを、自分でも感じられるようになったから。
好きであることと推しであることはノットイコールだ。
うまく推しがいる人生を楽しめるひともいるが、そうではないひともいるというだけ。
わたしは自分の生活と推しへの執着を両立できないことにずっと苦しんでいた。
そもそも執着って、ドロドロしていて苦しい。
せめて愛着にしたい。
推しへの愛着。
いいじゃないか。字面もずっと美しいぞ。
最近、昔の推しの映像をよく見ている。
今の推しと昔の推しに求めていたものが違ったんだなと、自己分析できるようになったのは進歩か?
むしろオタクとしては退化か?
頭で考えているうちはオタクじゃない、という説もある(諸説あるはず)
今のわたしが推すのは、平和で穏やかでやさしい存在が多い。
作品も人柄も、そんな感じ。
わたし自身の攻撃性がなくなったからだろうか。
だといいなあ。
どんどんぼんやり生きるようになっている気がする(いいことか?)
でも少し前のわたしが欲しかったのは強さだった。
力強くて、仲間内で楽しそうにしている推しが多かった。
きっとわたしには言われたくはないと思うけれど……(と、保険のような前置きをしてみる)
世間からは少し浮いているけど、社会に適合できていないけれど、社会から認められているようなひとたちが好きだった。
「自分らしく生きられる強さ」への憧れと恐怖に震えていた時期。
はいこれ。
冒頭の黒尽くめのピアノのお兄ちゃんが当時の最推しだった。
奥のドラムセットのお兄ちゃんも推し。
真ん中で歌っているおねーさんも推しだ。
自由で、力強くて、楽しそうで、仲間がいる。
好きなことでお金が稼げて、幸せそう。
仲間も自由もお金も好きなこともないわたしにとって、推しというより執着する対象だったのかもしれない。
当時は惨めで苦しくて辛いしかなくて、推しを見るのは現実逃避だった。
感情がマイナス方向にしか揺さぶられないから、幸福感なんて少しも味わえなかった。
でも今なら、あのときの息苦しさも、彼らが幸せそうにいる裏側の努力のことまで考えて、感情がプラス方向に動かされる。
この動画の冒頭のところで、佳穂ちゃんの第一声を聴いて、嬉しくてたまらなくてぶわーっと涙が溢れた。
「やっと会えたね」
推しに、ではない。
推しを大切だと思える自分にだ。
推しの幸せをゆるせる自分にだ。
もがき続けても、ずっと到達したかったのにできなかった境地に、今のわたしは簡単にたどり着けていた。
いや、簡単じゃないよ。
ずっと苦しかったよ。
推しの幸せも喜べない自分を心底嫌った日々もあった。
ギリギリ30代のうちに気づけてよかった。
なんなら生きているうちに気づけてよかった。
わたしのなりたかった、真のオタクの姿がぼんやり向こう側に見えてきた。
大丈夫。
わたしは今日も明日もオタクでいられる。
推しを愛せるオタクでいられる。
「こちとら生半可な気持ちでオタクやってない」
これに尽きるらしい。
オタクは、楽しい(呪詛のようなnoteですが)
オタクであることを面白がれるオタクになりたい
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