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改めて“命を授かる”ということを学んだ日



2015年7月22日午後2時42分



あれ?泣き声が小さいな


3人目の帝王切開。

1人目が逆子のため帝王切開になったので、この出産が3回目の帝王切開だった。

今回は麻酔の効きが悪く、手術台ごと頭を下げられ、また水平になり。

後頭部がチリチリする感覚に恐怖を覚え、手を握ってくれていた看護師さんに訴えては身体を水平に戻してもらう。

そうやってようやく切開からの出産の瞬間、息子の産声が小さいと感じたのだった。


泣いていない訳じゃない。

けれど、小さい。

少しの違和感はその後の全身麻酔と共に薄れていった。


その日の夜中に、まだぼんやりとする中、医師から説明を受けた。

「息子さんは肺が膨らみきっていなくて機能が不十分なので、大きい病院へ行くことになります。ついては、ご家族にその旨を連絡して欲しいんです」

今私が覚えているニュアンスで申し訳ないのだけれど、医師の説明を受けた時の私の感情は「あぁ、なるほどな」だった。

もう夫は寝ている時間だなと、冷静に考えながら電話をかけ
「落ち着いて聞いてね」
と前置きをしたのを覚えている。

すぐに夫は息子の転院先の大病院へ行く準備を始めた。


遠くからこちらへサイレンが近づいてきて

また、遠ざかって行ったのを覚えている


新生児一過性多呼吸

出生時、何らかの理由で肺にある体液が排出・吸収されきらず、呼吸困難、多呼吸になります。

多くは一時的なもので、治療をしない場合や、酸素投与で2〜3日以内に完全に回復するようです。

詳しい情報はこちらのリンクをご参照ください。
MSDマニュアル 新生児一過性多呼吸


我が子がいない中


翌朝の病室。
上の子供の出産経験で、本来何をしているはずで、私は今何をしていないかが明確にわかる。

個室である事がありがたかった。

ただ、今思い出すと不思議なのだけれど。

不安な気持ちはあまり湧かなかった。

まだ手術中の一度しか顔を合わせていなかったけれど。

か細くとも、私はあの産声を信じていたのかもしれない。

息子の転院先の病院から帰ってきた夫から状況を聞いて、私のやるべき事を粛々とはじめる。


張った乳房からの搾乳。

搾乳器で溜めた母乳を冷凍庫で冷凍してもらう。

初乳が大切。という事もあるのだけれど、赤ちゃんに吸われないおっぱいは乳房全体が硬く、痛くなり、何か対処しないといられなかった。

上の子供2人とも母乳とミルクとの混合だった為か、新生児に吸われなくとも割とスムーズに搾乳出来るようになっていった。


あぁ、だから私の所に生まれてきてくれたんだな。


自然と、そんな事を思いながら日々を過ごしていた。



支え合い


私達は夫の両親との同居生活だった。

ちょうど夏休みに入る頃。
上の子供2人のお世話は義父母に完全にまかせ、夫は仕事をしている場合ではないと、毎日息子がいる大病院まで車で片道1時間かけて通っていた。

当時、夫は自営業で、仕事の配分が自由に出来たから毎日通えた。

「チューブが外れていたよ」

「保育器から出ていた」

出産から日が経つにつれ、夫からそう報告を受けていく。

毎日の報告のようすに、私はとても元気づけられた。


夫が毎日通っていたのは報告のためだけではない。
定期的に胸が張ると搾乳していた私の母乳を届けるためでもあった。

冷凍された私の母乳を、ありったけの保冷剤を詰め込んだクーラーボックスに入れて急いで病院へ向かう。

10年前は今ほど酷暑が続く気温ではなかったが、それでも、夏の日に車で片道1時間という距離が大きな壁となった。

「もっと隙間なく詰めないと。とけると赤ちゃんにあげられない。って怒られた」

相手は命の最前線を張っているプロだ。成人男性がしょげるほど真剣に指導していたのだろう。

だが、無茶言うなという気持ちもある。仕事や休日に冷えた飲み物が飲みたいという用途で持っているクーラーボックスに、医療的専門性は何もないのだ。

それでも、解凍せずに運べることも増えた。


必死の日々


夫にとっても必死の日々だった。

初めの1週間程は、自宅から私がいる産院へ向かい冷凍した母乳を受け取り、そこから1時間かけて息子に会いに行き、再び産院へ戻り、家へ帰って上の子供2人の相手の日々。

私が退院してからは、家と息子がいる病院までの往復の日々だった。


私は私で、帝王切開からの退院後が大変だった。

産褥期での、往復2時間の車移動。
車内では横になれるとはいえ、徐々に削れていく体力と気力。

院内で会う息子は、元気そうで順調そうに見えるのが救いだった。


8月6日、退院の日。

車の到着の音を聞きつけて、駆け寄ってきたお姉ちゃんたちを覚えている。



命を授かるということを


3人目の妊娠発覚は、不正出血が続いたからだった。

妊娠確定と同時に、自宅での絶対安静を言い渡される。
当然、パート先にはとりあえず安定期に入るまでは仕事が出来ないと連絡をすることになった。

『ちょっと寄るくらい』と思って産院からの帰りにパート先へ寄って報告すると

「こんなとこに来てる場合じゃないじゃない。私から店長に言っておくから、帰って休みな」

と、パートの先輩にとても気前良く対応して頂いた。姉御肌を通り越して男前だった。


そんな妊娠初期の経緯を思い出しながらの息子がいる病院への往復は、私が命の切なさと逞しさを再認識する大切な時間だった。


今回改めて新生児一過性多呼吸について調べると、回復まで2〜3日とあった。
しかし私が記憶している、息子がチューブに繋がれていたり保育器に入っていた日数は、もう少し長いような気がする。

母子手帳には『新生児“重症”一過性多呼吸』と記載があるので、実際4、5日程はいたのではないだろうか。


あるいは、病院側はその他の可能性も視野に入れて様子を診ていたのだろう。
参照先としたMSDマニュアルでの【新生児一過性多呼吸の予後】の欄で、私が退院して初めて息子のいる病院へ行った時に受けた説明…今後の可能性の話が目に入った。


結局は、その後すくすくと成長している。

性格はおとなしめな方であまり暴れまわる事はないけれど、お姉ちゃんたちから比べると“男の子”というはしゃぎ方と遊び方が新鮮で面白い。


老若男女、全ての命の最前線にいる人たちに敬意を表したい。
彼ら彼女らのおかげで私の元気な息子がいるのだから。



再確認する大切な日


時が経ち、2025年7月22日。
我が家の誕生日は、主役が食べたいもの、したい事を叶えるリクエストデーとしている。

10才になった我が家の末っ子長男は、 前日の21日は外での食事、 22日は家でたこ焼きが食べたいとリクエストした。

“なぜ、二日間ともに自分のリクエストが通ると思っているのか。”

と、家族の誰もが思いながら

“ま、いいか。”

という結論に全員が至ってしまい、末っ子くんの要望が通る誕生日前夜祭と誕生日当日となった。



寝顔はいまだ天使のような我が子

時々凛々しい顔も見せるようになった

「一緒に寝よう」「一緒にお風呂入ろう」

その言葉も、もう聞けなくなるんだろうな

ほっぺたへのチューは、もう1年ほど前からさせてくれなくなった

愛おしさが溢れても、突然抱きしめるような事はなるべくしないようにする

その代わり「ギューしていーい?」って聞くから

“まぁ、我慢してやる”って時はお母さんのお願い叶えてね


あなたが生まれてきてくれて、幸せだよ


誕生日おめでとう



#創作大賞2025
#エッセイ部門


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波 香月 -なみ かづき- サポートして頂いたら、とんでもなく舞い上がります。 「頑張ってるね」の気持ちを素直に嬉しく受け取る体験をしたのはnoteが初めてかもしれません。 あなたのサポートを糧に、他の誰かに「頑張ってるね✨」を届けたい✨

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