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ADHDインフルエンサーに対する違和感

ADHDや内向型、弱者等の弱い立場を表す言葉(偏見もあるかもしれませんが)をフックにして発信を行うインフルエンサーに対して思うことがあったので記事にしたいと思います。


過剰な一般化

一般化とは、ADHDの例で言うなら、物忘れが酷いとか集中力がないといったことを「ADHDのせい」と一括りにしてしまうようなイメージです。

ADHD等のラベルには多くの共通項があるので仕方ない部分もあるとは思いますが、個人単位では物忘れにも他にも様々な要因があります。

ADHDならば2次障害の抑うつ症状によりワーキングメモリーが圧迫される等が原因で集中力が減退することがあります。

ADHDの中でもワーキングメモリーはそこまで低くない人や、ASDと診断されている人の中にも社交性が高い人はもちろん存在していますが、

「ADHD/ASDは~」から始まるXのpostやnote記事の内容を見ていると、あたかも「そういう人しかいないんだ」という気持ちに私はなります。

同じ発達障害の中で生まれる溝

当事者から今の発達障害界隈を見ていると、「勝害者」というワードを始めとする「能力主義」「優生思想」的な議論が多く巻き起こっているのではないかと思います。

ADHDは弱者のラベルであるという先入観があり、弱者という立場を受け入れた人からすれば、ADHDにも勝者がいるということは、自分の立場を脅かされることなのではないかと思っています。

そうした価値観が芽生えてしまう原因は、発達特性にも一因があるのかもしれませんが、生育歴や社会との軋轢も関係してきます。

また、社会に適応する能力が人より低くても幸せに生きている人も多くいますが、一旦「定型発達」「勝ち組」といった属性の人を敵視し始めると、そうした人を恨みながら生きることになり非常にエネルギーを消耗します。

そもそも、個人は個人であり、他人は他人としてうまく境界線を引けなければ延々と他社と比較して、劣っている自分を再認識し、その怒りを社会に投影するというループを辿ってしまうのではないかと思っています。

その考え方で言えば、ADHDというラベルを安易に信用せず、「この人はこういう人なんだな」程度に留めるのが良いのではないかと考えています。

商品化する弱者性

最近になって、弱者のラベルが商品化されていると感じることが増えました。

ADHDが近年増加しているといった話題も増えており、SNSのアルゴリズムに乗れば話題があっという間に拡散されてしまう中で、そうしたラベルが認知されるようになったと感じています。

そうなってくると、noteにADHD系の有料記事が増えたり、「障害者向け」を謳うサービスが増えたりします。特にnote記事などは、ライフハック系の記事が中心で、記事の内容を見てもそれができたら苦労しないだろうと思われる内容が多いです。

ADHD向けではなくても、「内向型」「弱者」といった弱者性をはらむ言葉に遭遇する場合もあります。

それらはより広い属性を指しており、社会に適応する、市場価値を高めるといった内容のnoteが多いです。

特に抑うつ系の症状を持っている人には無価値感を煽られやすく、挫折=人格否定につながりやすいので危険だなと感じます。

ほどほどでも良いと思えるか

私は完璧主義かつ無価値感が強いADHDなので、強いビジネス臭を漂わせるインフルエンサーに惹かれてしまうフシがあります。

社会的成功こそ人生の幸せと思うと、特に地位やコネのない人は文字通りの一発逆転を狙い、ギャンブルなどによって逆に大損してしまうか、犯罪に手を染めてしまう人も出てくるのかもしれないと考えています。

私は幸いにもそこまで生活に困窮していないので、そこはありがたいと考えていますが、やはりある程度の社会的成功や人生の充足を目指したいという欲求はあります。

そのために、全く努力が必要にならないわけではないですが、必要以上の努力を迫り、それができなければ「努力不足だ」と切り捨てる社会に違和感を感じています。

もともと人間は互いに助け合い、集団を築きながら文明を作り上げたはずですが、デジタルやAIの進化を期に個々の孤独感が強化された気がします。

それは、コミュニケーションといった「不便ながら人間的な生活に欠かせないもの」を資本に変えていった結果なのではないかと考えています。

これも悪いことばかりではないですが、その中で目に見えるもの、例えば能力主義、レッテルといったものを盲信し、それらを軸に社会を定めた結果こぼれ落ちたものもあると感じています。

話はそれましたが、ここでいう「ほどほど」というのは「曖昧さ」を許容することです。

白黒つける考え方や、インフルエンサーを筆頭に人間に対し必要以上のラベリングを行うことを避け、「みんな違ってみんないい」を合言葉に立場の違う人とも協力関係を築けるのが生きやすい社会であり、そのために「ほどほど」が必要になってくるというのが私の主張です。


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