ハッピーになるために通過している今
ハッピーになるために通過している今、ということから思い浮かんだことを書きます。
私の母は因果論信者で「すべてに原因があって、今がある」という考えを、それは強く信じていた。いや、今もかな。
家族が病気になればその原因を食事に、生活習慣に求めた。それでも足りなければ、先祖の因縁に求めた。そんな悪者にされていたらご先祖さまもたまったものではないと思うんだけど、誰かや何かを悪者にしないことには耐えられなかったんだろう、とも思う。
これまた世の中には都合の良いことに、それらの理屈を強化する教えや何かがたくさん存在する。一時期、その手の「先祖が悪い」みたいに断罪する、声の大きい人がテレビや書店を賑わせていたよね。もう亡くなったけど。
家族の病気を、祖父は「代わってあげたい」とずっと言っていた。そんなふうに思っていた人間が、死んだあとに子孫に因縁を残すかしら…
なんてことを言っても、母は「ふん」という感じで聞く耳を持たない。それはそれで母の生きる道なので私がどうこうすることでもないし、母を通して私はそういうもやもやを体験する必要があったのだろう。
因果論は、私にとっては単純に、苦しかった。
今お金がないのは職歴がないからで、職歴がないのは就職をしたことがないからで、就職をしたことがないのは就活をしなかったからで、就活をしなかったのは氷河期ど真ん中の先輩たちを見て暗澹としたからで、暗澹としたのは受験が終わった時に「今後人生で嫌なことをするのはこれが最後」と決めたのに、「4年も経たずにまた嫌なことをしなきゃいけないの?」とうんざりしたからだ。
もっと言うと、身近に勤め人が皆無で、お勤めをすることが、じぶんごとでは無かったからだ。
今自分の見た目が嫌いなのは骨格が残念だからで、髪質がくせ毛だからで、目が半目だからで、おでこがまるくないからで、それは全部父方の遺伝で、大きな目とまるいおでこを持つ母が、そんな父を選んだからだ。
原因を辿っている間、私には苦しさしかなかった。
書いていて今、氣がついたのだけど、
これって、被害者ムーブをかますことと、他責のダブルコンボだよね。
原因を何か次への一歩に向かう足場にできる人にとって、もしかしたら因果論は有効かもしれない。でも、一歩踏み出せないことへの理由にもなってしまう。
だから私にとっては、「最初からぜんぶ、ぜーんぶ自分の責任!自分で決めて来たんだよ!」という方が、前に進みやすかった。もちろんこれを受け入れるまでは葛藤しかなかったけれど、一度受け入れたら諦めがついた。降参したとも言える。
私は自分の過去にも、世間の景気にも、選んだことを覚えていない遺伝子にも、いちゃもんをつけるのをやめた。
まぁ、どれもあるのだとは思う。
因果もあれば、最初から決めてきた人生という考え方も、すべてがどこかで辻褄が合うという世界観も。
どのみちその世界のことは見えないし、わからない。私たちのほとんどは忘れてる。
ここまで書いて、
そんなのどっちでもいいな、と思う。
要は、私は自分に暗示をかけていたのだ。できない理由を、持てない理由を、うまくいかない理由を並べて、そこに根拠を持たせて、「だからあなたは幸せじゃないんだよ」と自分に言う。母は、私の人生に於いてそれがなされるための、フィルターのひとつでしかない。
悪魔かな。
この世に悪魔的なものを見るとしたら、自分しかいないのかもしれないね。
出来事や体験そのものの意味づけを、変えるだけでいいのかもしれない。
「過去に起こった何かが原因で、今の自分が苦しんでいる」という、過去による被害者として生きるのか、あるいは、
「少し苦しいけれど、すべてはハッピーになるために必要なアクティビティで、それを今、体験している」と思って生きるのか。
自分の「いま」に対する捉え方って、「いますぐ」変えられるよね。
っていう話でした。
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