解説/ 「上野戦争」とは
江戸時代 幕末に上野の山で戦争があった
戦争をしたのは、上野の山※に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)と明治新政府軍。この戦争を上野戦争と言う。
上野戦争は、東叡山 寛永寺※2の存亡の危機となった。
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※1: 上野の山とは、現在の東京都台東区にある上野恩賜公園一帯の台地(高台)を指す通称のこと。
※2: 東叡山 寛永寺(とうえいざん かんえいじ)は、現在の東京都台東区上野にある天台宗の関東総本山である。
1625年に徳川家光が天海大僧正を開山として創建,江戸城の鬼門(東北)鎮守と徳川将軍家の菩提寺※3しての役割を担い、江戸時代には広大な境内と格式を誇った。
※3: 菩提寺(ぼだいじ)とは、先祖代々のお墓があり、葬儀や法要の読経を依頼する特定の寺院のこと。
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彰義隊は、もともと第十五代将軍であった德川慶喜を警護する目的で結成されたグループである。
そのため、德川慶喜がいた「一橋徳川家の家臣団」が最初期のメンバーだった。その後、一旗揚げたい浪人たちが加わり、人数が増えていった。
なお、一橋徳川家は徳川御三家に次ぐ格式を持ち、石高も10万石あった家柄だった。
慶応4(1868)年4月11日、江戸城の無血開城が実施され、寛永寺内に謹慎していた徳川慶喜は出身地の茨城・水戸に帰っていった。
彰義隊としては警護する対象がいなくなったのだから、隊としての役目が終わったことになる。
実際に脱隊者もあったが、名を売りたい大部分の者は度重なる解散命令にも従わなかった。
こうした彰義隊を明治新政府軍は「幕府の正規軍」と位置づけ、討伐にかかった。
戦いはわずか半日で明治新政府軍が勝利したが、戦いの中で寛永寺の建物は次々に焼けて失われていった。
また東叡山 寛永寺は彰義隊をかくまったとしてすべての境内地が明治新政府に没収され、土地の大部分が後に上野恩賜公園となった。
東叡山 寛永寺に戻ってきた境内地は最盛期のたった10分の1ほどだった。
現在も東叡山 寛永寺では上野戦争が起きた5月15日に供養している。


場所: 上野恩賜公園内の西郷隆盛像の裏手
参照元: 「東叡山 寛永寺」Webサイト
以上
