📖「未熟さの正体」 忘れても、また覚えればいい
◆年齢を重ねてもなお未熟だと痛感する瞬間
若い頃は「大人になれば自然と成熟する」と思っていた。
しかし実際に50代を迎えてみると、むしろ逆だ。
己の未熟さ、知識の乏しさを日々痛感する。
本を読んでも、人と話しても、仕事や生活の中でも、
「こんなことも知らなかったのか」「まだこんなこともできないのか」と驚くことばかり。
だが同時に、新たな発見や知識に触れる喜びも確かにある。
恥ずかしさと嬉しさが常に隣り合わせ
それが今の私の学びのスタイルだ。
◆若い頃との“決定的な違い”
とはいえ、20代や30代の頃と決定的に違うのは、
せっかく触れた新しい知識を忘れてしまうスピードが速いことだ。
記憶が定着しない。
「あれ、あの言葉なんだっけ?」
「前に読んだのに、すっかり思い出せない」
これはおそらく、脳を鍛えていないからなのか、
あるいは加齢による自然な現象なのか。
いずれにせよ、知識が指の間からすり抜けるように消えていく感覚を持つことが増えた。
◆それでも学びを手放さない理由
もちろん、忘れるのは悔しい。
だが私はこう思うようにしている。
「忘れたら、また覚えればいい」
知識も、出会いも、体験も、
一度で完璧に身につくことのほうがむしろ稀だ。
何度も繰り返し触れて、ようやく自分の血肉になる。
そしてたとえ忘れても、
その過程で得た「体感」や「感情」までは失われない。
それは確実に自分の中に積み重なっていく。
◆“教養”という重さに押しつぶされそうになる時
50代の男として、「もっと教養を身につけているべきではないか」という焦りがある。
社会経験や人生経験を重ねてきた分、
「大人なら当然知っているだろう」と思われる場面も増える。
そんな時、自分の無知や忘れっぽさを恥じることもある。
しかし考えてみれば、人は死ぬまで未熟者だ。
成熟なんて、どこまで行っても幻のようなもの。
むしろ「未熟だから学べる」のだと開き直ることにした。
少し前までは恥をかくのも嫌だった。
若い頃の恥は血肉となるからいっぱいかけば良い、
しかし成熟してからの恥は本当の恥だと思っていた。
だが、今は違う。
何歳になっても恥と思わず良い経験や新たな知識に触れた喜びだと思うようにした。
◆結論 未熟であることは希望である
確かに、記憶力は落ちた。
新しい知識はどんどん忘れていく。
吸収も、なかなかしにくくなる。
それでも学びをやめなければ、何度でも新鮮な驚きと出会える。
つまり、未熟さとは「伸びしろ」であり「希望」でもあるのだ。
忘れたらまた覚えればいい。
その繰り返しこそが、50代からの学び方なのだろう。
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