「1円玉を拾うのは合理的か」論から垣間見えるもの
(約9000字)
「落ちている1円玉を拾うべきか?」という俗論
世の話題の小ネタとして「落ちている1円玉を拾うのは合理的か否か」というものがあります。
曰く、「1円玉を拾う動作には1円以上の原価に相当するカロリー消費を伴うから」とか「拾う行為に3秒以上費やすと平均時給を下回るから」という理由で「1円玉を拾うのは損である」という話が出てくるんですね。
これに対して「カロリー消費を伴うことはむしろダイエット時代には得だ」とか「1円玉なんて1秒ぐらいで拾えるから大丈夫」という反論もありますけれど、ともかくもこうして「1円玉を拾うのは合理的か」というテーマが一つの巷の議論のネタになってるわけです。
「拾うのに3秒以上かかると損!」
軽くググってみてもこのネタで語ってる記事はたくさん出てきます。
下のものはその一例ですが、1円玉を拾う時給計算を綿密にされていて面白いです。(先の「拾うのに3秒以上かかると損」という話もこの記事から頂戴しました)
「ビル・ゲイツなら1万円札も拾わない」
また、派生型として「高所得者のビル・ゲイツなら1万円札(100ドル札)が落ちていても拾わないほうが合理的」という(笑い)話もあります。
「ビル・ゲイツがマイクロソフト社を設立してから今までの報酬を換算すると、150ドルになる。これは時給じゃない。1分あたりの金額でもない。1秒あたり150ドルだ」
「だからビル・ゲイツは道に100ドル札が落ちていることに気づいても、それを拾う価値がない」
「1円玉でも拾う方にお金に愛される」
見て回ると「コスパが悪く見えてもあえて積極的に1円玉を拾う姿勢の方がいい、それがお金に愛され、お金持ちになれるマインドセットである」という少々スピリチュアルな雰囲気の主張も出てきたり、なかなか面白いです。
「1円玉を拾うのは得か損か」議論が成立してることの意味を考える
とまあ、こんな感じで、なんとなくみんなで時々考えては面白おかしくやんやと議論をする程度の話題ではあるのですが、しかしながら、この話題が成立すること(皆がスッとこの議論を受け入れられること)自体、何気に現代社会の共通感覚を反映しているようにも思われるんですね。
その意味ではこれはなかなか侮れない含蓄があるトピックと江草は感じるのです。
つまり、その是非の立場はさておき、時給換算で「1円玉を拾うのは得か損か」という議論が成立すること。皆が頭の中でその計算を始められること。そこに特別違和感を覚えないこと。このこと自体が実は私たちの特異な社会感覚を表しているように思うわけです。
「1円玉を拾う時間を何か他の稼ぐ時間に充てられる」という前提
例えば、「1円玉を拾うのは時給換算すると損」と考える時、それは「1円玉を拾う代わりに他のこと(仕事)で稼ぐ時間に充てるべき(稼ぐ時間に充てられる)」と考えてると言えます。
1円玉を拾う時間を他の稼ぐ行為のための時間に代替できないと、時給換算での比較が成立しませんからね。(例のビル・ゲイツの話も「彼なら1万円札を拾う暇があったら自身の事業に精を出した方がいい」という意味で語られてるでしょう)
すなわち、「1円玉を拾う行為が時給換算上でコスパがいいかどうか」という議論を受け入れてる時点で、その時間を別の「稼ぐ時間」に代替可能だし、ひいては積極的に代替すべきである、という感覚が前提となってると言えるわけです。
そもそもその時間を稼ぐ(仕事)時間に転用できる?
ですが、1円玉を拾う時間を「別の稼ぐための行為」に転用できるというのは、よくよく考えてみれば、別に自明なものではありません。
まず、この1円玉を拾うべきか議論は一般的に「オン・オフ」の状況を限定していません。だから、おのずと「オフの状態(仕事中でない状態)で1円玉を落としてしまった時でも拾うべきか」という議論が含まれています。
でも、仕事中でない状況は仕事中ではないわけですから、本来は1円玉を拾おうが拾わなかろうが、自身の収入に影響はないはずですよね。
オフの時間に1円玉を拾う3秒をいきなり「3秒だけバイトさせてください!」などとして転用することは普通はできず、オフの時間はオフの時間のままのはずです。
したがって、オフの時間に1円玉を拾う時間を仕事のための時間(オンの時間)として転用しようとする発想は、言うほど自然な話でもないわけです。
本来、働きたくとも勝手には働けない私たち
なんならこれは、1円玉を拾う所要時間が「3秒」みたいなあまりに細切れの時間だからという問題でもありません。
これが「1万円札を拾う所要時間が1時間」みたいなまとまった時間を考える想定であったとしてもなお、やっぱりその転用可能性は自明ではないんです。
というのも、私たちはたとえ「働きたいから(稼ぎたいから)」と言ってすぐさまそれが「仕事時間にできる」わけではないからです。
このことは、失業して求職活動をしている人が必ずしもその希望通り仕事が見つかるわけではないことから明らかです。私たちは働きたいから(お金を稼ぎたいから)と言ってすぐさま希望通り働けるわけではありません。
これはバイトのシフトであったり、正社員の残業時間であってもそうです。
バイトのシフトも勝手に「この時間働きたいから」と言って入れることはできないでしょう。それには店長なりなんなりの上司の承認が必要です。
残業も(あんまり意識されてない職場も多そうですが)本来は上司の指示・承認が必要です。「仕事が残ってるから」といって職員が勝手に自己判断で残業することはできません。
あくまで法制度的には上司が残業の必要性を判断してその上で指示があって初めて残業できるわけです。
実際、組織としても「1円玉を拾う代わりにこの時間分残業したいから」などと勝手に個人判断で残業されては残業代を無為に取られかねませんから野放図にできることではないでしょう。
つまり、実際にオフの時間を稼ぐ時間に転用するためには、原則として、スタッフに採用されたり、シフトや残業の承認が得られたりと、他者の承認が必要になるはずなんですね。
従って、オフの時間に1円玉を拾う時間や一万円札を拾う時間を勝手に自分の好きに何かしらの稼ぐ時間に変えることは、本来当たり前にできることではないわけです。
どうせ定給定時の仕事中なら拾った方が得
また、オフの時間でなくオンの時間中(仕事時間中)に1円玉を拾う行為のコスパについても触れておきますと。
先に見たシフトを増やしたり残業時間を伸ばしたりするような「事実上オフタイムをオンタイムに転用する増枠パターン」でない、より一般的な「ただ月給が設けられてるような定給所得者が定時の仕事時間中(オンタイム中)に1円玉を拾うケース」では、原則的には別に拾っても拾わなくても給料は定額です。
だから、やっぱりこのパターンでも拾う時間を時給換算で代替する発想は自然には成立しません。(「仕事中だけどどうせ給料変わらないから拾った方が得」となってしまうわけです)
垣間見える「どの時間も稼ぐ時間に転用できる」という現代特有の社会感覚
というわけで、1円玉を拾う行為の時給換算比較の議論の背景にある「1円玉を拾う時間を別の稼ぐ時間に転用可能である」という前提は、実際には自明なものではないということがお分かりいただけたかと思います。
しかし、勘の良い読者の皆さんなら既にお気づきかもしれませんが、さっきから江草の説明では「原則的には」とか「自然には」とかちょいちょい断言を避ける文言が挟まっていてあまり歯切れがいいものになっていませんね。
そう、実はこの点こそが私たちの社会の潜在的な感覚を見るためのキーポイントにつながります。
自明でないはずの感覚が自然と受け入れられてるところに私たちの信念が表れる
「原則的には1円玉を拾う時間は(オンオフ問わず)必ずしも別の稼ぐ時間に転用可能ではない」というのがここまでの江草の説明でした。
しかしながら、私たちはこの時給換算議論を割と違和感なく受け止めることができます(だからこそこの1円玉議論が俗論として一定の人気があるわけです)。
原則成り立たないはずのことが、本来自然ではないはずのことが、スッと受け入れられてしまう。それが自然ではないはずのものだからこそ、それを受け入れられてるという事実に私たちの特異な感覚の反映が見て取れるわけです。
つまり、本来当たり前のことでないからこそ、それが当たり前に感じられるということ自体が、私たちの隠れた信念や社会感覚の表れと言えるわけです。
「どんな時間もより稼げる(よりコスパのいい)行為に転用できる」という感覚
すなわち、ここに垣間見えるのは私たちが「オンオフ問わず、どんな時間もより稼げる(よりコスパのいい)行為に転用できる」という社会感覚を抱えてるということです。
より細かく言えば、「自分の意思でどんなオフの時間も稼ぐための時間に使うことができるし、どんなオンの時間もより稼ぐための時間に使うことができる」という感覚です。
確かに、先にも説明したように、そこらのお店に自分を採用しろと強要することはできないですし、シフトや残業を勝手に増やすことはできません。
しかしながら、採用されなくとも自分で起業することもできるし(起業は言わば自らの意思でオフをオンに変換できる行為の一つ)、既に就職してる者もスキルアップやキャリアアップのために積極的に効率的に(オンオフ問わず)時間を費やすことで生産性向上と所得増加に繋げることができる、と考えることもできます。
そして、まさにそのように考えていることこそが現代社会の私たちの感覚の特徴と言えるわけです。
オフタイムに1円玉を拾う暇があったら、その時間で自分のビジネスを構想したり、スキルアップやキャリアアップの勉強をする方がコスパがいい。
オンタイムに1円玉を拾う暇があったら、その時間で業務効率を上げて成果を出して、出世のチャンスを掴むべく積極的に動き人望や経験を積む方がコスパがいい。
ここにはオフタイムはオフタイムのまま、オンタイムの定給は定給のままではないという感覚があります。オフタイムは稼ぐ時間に積極的に使えるし、心がけや努力次第で仕事の収入も上げることができると、そう考えているわけです。
「コスパがいいことが善いこと」という規範にもつながる
加えて「1円玉を拾うのがコスパがいいかどうか」という議論には必然的に「コスパがいいことが善いこと」という前提も伴っています。
どちらがコスパがいいかで議論になる(話が盛り上がる)ということはコスパがいい行為を見定めるのが私たちにとって重要マターであるという感覚を共有しているからでしょう。
すなわち、この議論の裏には「コスパのいい行動をすべき」という私たちが共有する規範も隠されてるということになります。
すると、先に指摘した「どんな時間もより稼げる(よりコスパのいい)行為に転用できる」という社会感覚は、自ずと「どんな時間もより稼げる(よりコスパのいい)行為に転用すべき」という社会規範につながります。
あくまで昨今の社会に特有の感覚であり規範
これはもはや十分なほどに特異な社会感覚ではないでしょうか。
原則的にはオフタイムはオフタイムのままであったはず(オンオフが切り分けられていたはず)のところが、積極的にオンタイム(仕事や稼ぎ)に繋げるべき、転用すべきと考えられている。
従来の定常的な年功序列給与体系はもう古く、現在の自分の給料に甘んじることなく、積極的にスキルアップ、キャリアアップ、転職を駆使して収入増加を図るべきと考えられている。
このように少なくとも以前までの社会感覚と一線を画しつつあるという点からして、やはりこれは古今東西普遍的な「コモンセンス」というわけではなく、現在の私たちの社会に特有のものと言うべきでしょう。
「1円玉を拾うより合理的な行為がある」という回答が示す「コスパ思考」と「お金志向」
そしてこの私たちの特異な社会感覚が、まさに今回の「1円玉を拾うのは合理的か」の議論が成立していることから垣間見えるということになります。
「そんなの拾う方が当然得じゃないか」という従来型の感覚に対して、「あえて拾わない方が得だ」という逆説的な主張が出てくるから、この俗論は面白いわけです。
しかしそれは「1円なんて要らない」「お金なんて必要ない」と言ってるのではなく、あくまで「1円よりももっと多くを得られるチャンスがあるんだぞ」とよりコスパがいいことを強調する方向性です。むしろ「お金はもっと要るよね」と言っている方向です。
このコスパ論があまりに自然に私たちに受け入れられること。まるで違和感がないこと。このこと自体が、私たちのコスパ志向、お金志向を浮き彫りにしているように思われるのです。
真に「ワーク・ライフ・バランス」を問うために
さて、この「1円玉を拾うよりももっとコスパがいい合理的行動がある」という社会感覚に基づいてみるとどういうことになるでしょうか。
「オンタイム」が「オフタイム」に侵入する
例えば、「1円玉を拾う」よりも金銭的な視点で不利と言えるのが「0円」の状態ですね。
「0円」とは要するにお金の獲得につながる行為を何もしてない状態を指します。すなわち「オフタイム(余暇)」です。
先ほどから「オフタイムをオンタイムに転用すべき」という社会感覚を指摘してきましたが、それもそのはずで金銭面では「オフタイム」はもはや「1円玉拾い」よりも劣位に置かれますから、「1円玉を拾うことさえコスパが悪い」と判断される中にあっては「オフタイム」なんてもってのほかとなるわけです。
また、これも先に指摘したように、原則勝手に仕事に転用できないはずであった「オフタイム」も、実際には「副業する」「自己研鑽する」などの形で自発的に「オンタイム(金銭獲得につながる活動)」に変換することができます。そして、皆さんもご存知の通り、そうすることが当たり前の時代になりました。
「副業する」「自己研鑽する」という方法が発見されたから「オフタイムもオンに活用すべき」と人々に考えられるようになったのか、「オフタイムもオンに活用すべき」と人々に考えられるようになったから「副業する」「自己研鑽する」という方法が発見されたのか、「ニワトリが先か卵が先か」なお話ですが、ともかくもこうして私たちの社会に現出したのが「オンタイムのオフタイムへの侵入」ということになります。
オンの時間(仕事時間)はオンの時間で、オフの時間(プライベートの時間)はオフの時間、と切り分ける感覚が乏しくなり(オンオフの境界が曖昧となり)、そしてオフよりもオンの勢力が強まってるのが昨今の世の中と言えます。
世の「ワーク・ライフ・バランス」論は見かけ上の労働時間に注目しがち
ときに、世の中では「ワーク・ライフ・バランス」と言う時に、正規の労働時間に注目しがちです。
例えば、「長時間労働になりすぎていないか」「休息のための勤務インターバル時間はちゃんと取れているのか」などの視点で検討されるのが通常です。
もちろんそれはそれで大事なポイントなのですが、しかしことこうしてオンタイムがオフタイムに自然と侵入してきている世にあっては、見た目上の「オフタイム(ライフ)」も実際には隠れた事実上の「オンタイム(ワーク)」となってる可能性があるのではないでしょうか。
育休取得中に自己研鑽をしちゃう父親たち
例えば、育休を取得した父親がその期間中に自己研鑽をしちゃいがちという問題があります。
妻が里帰り出産をしてから、育休を取得するまでの間は妻の実家に週末160㎞を通う生活をしていました。その間は緊張感があり、私も積極的に育児に参加したり、妻をサポートしたりしていました。
しかし、同居が始まり要領を覚えてくると、多くの時間を自分の学びに当てていました。
妻に相談をすることなく自分の予定を入れ、毎日、気が狂ったように自己研鑽を重ねていました(中にはほぼ1日中、パソコンの前に座っていたこともありました)。育児はその隙間時間に手伝うという感覚で、育児休業の目的をはき違えていたような気がします。
育児という「ライフ」活動のためのはずの期間に自己研鑽という「ワーク」活動をついやってしまう。
確かに目的を履き違えてると言えば履き違えてるわけですが、もとより世の中で「オン」が「オフ」に侵入する圧力が存在していることからすれば、これは父親がその「積極的に金銭獲得につながる活動をすべき(0円であってはならない)」という社会感覚に強迫された結果の行為と、同情的に見ることもできるでしょう。
(ちなみにだいぶ昔にこのテーマで記事を書いたこともあります)
「ライフ」に「ワーク」を持ち込むことが合理的とされる社会感覚自体を問うべき
従って、「1円玉を拾うこと」さえ非合理的と見なされかねない今日において、真にワーク・ライフ・バランスを問うためには、見た目上の「ワーク」と「ライフ」の時間のバランスだけでなく、実に合理的社会感覚として「ライフ」に「ワーク」が侵入してしまいうること、そして、その背景となっている私たちの「コスパ主義」的な社会感覚や規範の存在にも注目する必要があるように思われます。
そうでなくては、見かけ上いくら「ライフ」ぽい時間、「オフタイム」ぽい時間が増えていたとしても、それらがすべて事実上の「ワーク(お金を稼ぐための活動)」でしかないという、本質的には全然バランスが取られてるとは言えない事態を黙認することにつながるでしょう。
【結び】これも「1円玉を拾う合理性」を巡る俗論の一つとして
というわけで、以上、「1円玉を拾う合理性」を巡る議論からまさかのワーク・ライフ・バランス論にまで展開しましたがいかがだったでしょうか。
まあ、言うてもただの俗論である「1円玉拾い」の小話をもとにここまで大きな結論に繋げるのも少々やり過ぎの感はないでもありません。
例えば、あくまで「1円玉拾い」の話は思考実験として議論されてるだけで、実際にはみんな普段はそんなことは気にせず、1円玉を落としたら自然とすぐさま1円玉を拾ってるはずだ、という意見は出てくるかと思います。
つまり、「みんな話の上でコスパを論じてるだけで、普段はそんなに厳密にコスパを意識してないよ」というわけですね。
確かにそうかもしれませんし、実際にそうなのであればもちろんそれでいいと思います。
ただ、それはそれで確証はないんですよね。自分たち自身では「コスパをそんなに意識してない」と自認していながら、自覚なくコスパ感覚にけっこう浸かってるという可能性もやっぱりあるのではないでしょうか。
だから、たとえ軽い小話だとしても「1円玉を拾うのは損だ」という逆説的主張が自然に成立するのであれば、そこに何か私たちの潜在意識が反映されてるのではないかと立ち止まって考えてみることは一つ面白い試みであろうかと思います。
「面白い」ということはこうした俗論を話題にするにあたって最も重要な要素でしょう。
なので、今回の記事も「1円玉拾い」を巡る様々な俗論の一つとしてお納めいただければ幸いです。
【補論】「コスパ」感覚に並ぶ「タムパ」感覚の存在について
上手く本稿に差し込めなかったのですが、もしかしたら気になる方もいるかもしれない点についてちょっと補足説明をしておきます。
というのも、途中の「オフタイム(余暇)」は「0円」だから「1円玉を拾う」よりもさらに金銭的に劣位という話の箇所では、「余暇時間は1円玉拾いと違って楽しく幸福につながる活動をしてるのだから金銭だけでは換算できない価値がある」という疑義が出る可能性があるんですね。
それはもちろんその通りです。
本稿は話をシンプルにするために「コスパ」(金銭的合理性)にだけ注目して展開したのですが、実際には人間色んな要素を考えて行動を決めているということは留意すべき点となります。
なので「余暇は楽しいことをしてるから1円を拾うよりも価値が高い」と考えるのは至極真っ当な感覚です。
とはいえ、逆に言うと、その感覚は「余暇の時間(オフタイム)は自分が楽しいとか幸福を感じられるような有意義なことに使うべき」という考え方にもつながりうるものです。
「コスパ」論そのものに反論せずに「余暇時間は幸福のために使ってるから」と防衛する場合、もしも余暇時間の中にそのような「有意義な活動」に使えてない時間が存在していればそれはやはり「コスパ0円時間」であり許容できないということになります。
ここから自ずと出てくるのが「余暇時間もより有意義なことに使わないといけない」という感覚であり、それがいわゆる「タムパ(タイムパフォーマンス)」感覚ということになります。
「タムパ」志向はもまた「コスパ」志向と立ち並ぶ現代社会を象徴する感覚です。
「コスパ」と同じく、それがほどよい程度の追求であればいいかもしれませんが、「タムパ」も「すべての時間を必ず有意義に使わないといけない」という強迫観念にまで至ったならば、それはそれで問題があるということは昨今しばしば指摘されてる通りです。
この「タムパ」の話まで差し込むと本稿が複雑になりすぎるので、このように補論に回しましたが、これはこれでまた別の議論になるということになるわけです。
【おまけ】過去記事のご紹介
最後におまけとして過去記事のご紹介。
今回の「1円玉拾い」みたいな巷の小話を題材に議論を進める記事を江草は過去にいくらか書いてます。
例えば、これは有名な「3人のレンガ職人」の寓話に江草がじっとりねっとりとイチャモンを付けていきながら最終的にビジネスの持つ宗教(信仰)的側面を指摘する内容です。
こちらは有名な「木こりのジレンマ」に触れてる記事。生産性を測る時の単位時間の問題を語ってます。(わりと雑談多めの回ですが)
この記事もこれまた有名な寓話「アリとキリギリス」を題材にした大作。世の中の「誰がアリ(働き者)で誰がキリギリス(怠け者)なのか」という認識をグルグルとかき回す内容となってます。
ご参考まで。
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