『何もしない』読んだよ
読書の秋。
少し前に既に読み終わっていて、最近ちょこちょこ参考文献として引いておきながらちゃんと紹介はしてなかったなと思って、今日はこちらの本『何もしない』をご紹介します。
存じ上げてはなかったのですが、著者はジェニー・オデルという米国のアーティストの方。
どなたかが書評で紹介されてたのを読んでKindleで買っておいた本です。
この度、時間の使い方について個人的関心が高まってたのもあって読み切りました。
本書の主張を一言で言えば、生産性やら効率性やらにこだわりとめどないアイキャッチの応酬に人々が翻弄されている現代の注意経済を徹底的に批判した上で、生産性偏重社会や注意経済への「不服従」と「抵抗」の意を表す行為としての「何もしない」を提案されているものです。
忙しない資本主義社会への問題提起という点で、先日紹介した『限りある時間の使い方』や『暇と退屈の倫理学』とも同じ源流にはある本と言えるでしょう。
もっとも、注意経済への批判そのものは今やあちこちで叫ばれているようになっていますから、その内容の解説や是非の議論についてはここでは割愛しますが、注意経済を批判する論説は読んでいて「いやー、ほんとそうだよね」と頷かされるところは多くありました。
同様の主張の書籍も多々ある中で、本書が特徴的なのは、とにかく具体的な描写やエピソードの紹介が詳細であることでしょう。
著者はバードウォッチングが趣味らしく、森や公園で長時間「何もせず」過ごす中で、個々の鳥の違いを感じられるようになったそうなのですが、確かにそうした自然の中での体験の描写の記述がどれも微に入り細に入り、具体的な情感にあふれています。
たとえば、江草は全然鳥や植物に詳しくないので、道端で鳥をみかけても「鳥」としか認識できてないですし、草をみかけても「草」としか認識できてない雑すぎる解像度なのですが、ほんといえばそれぞれの鳥や草に名前があるはずなんですよね。
その点、著者のように、そうした鳥や草の名前や生態も分かった上で、さらに同じ種類の鳥の中での個々の個体の違いにまで認識できるようになったならば、ここまで豊かな情景描写になるのだなと圧倒されました。
この辺はさすがアーティストと言うべきでしょうか。とても鋭い感性や注意力をお持ちの方だなと感じさせます。
こんなに世界に対する鋭い注意力を持ってる方からすれば、確かに、「いいね」をただポチポチするような現代の注意経済のあまりの抽象さや雑な解像度に我慢ならないのも当然と言えます。
合理的、効率的、抽象的な現代社会に対するアンチテーゼを提示するという点では、本書のスタイルは強制的健康主義を批判する『健康禍』にも似ているものを感じさせます。
『健康禍』もほんと個々のエピソード記述が細かく具体的で情感を持って語られるスタイルの本で、ともすれば「p値」みたいな抽象的概念だけで人々の行動を制御しようとする一部の行き過ぎた強制的健康主義者の態度と対照的な世界認識と言えます(もちろんちゃんと公衆衛生学や疫学を修めた者は「p値」だけで強い主張をすることはないはずなのですが)。
※『健康禍』については過去にレビューしてますので興味ある方はどうぞ↓
で、話を『何もしない』に戻しますと、正直なところ、ひたすらこのように細かい描写の記述が多いために、読んでいて「回りくどい」とか「冗長」に感じる側面があるにはあります。
全体の文量もちょっと長めです。だから、読みやすさで言えば圧倒的に『限りある時間の使い方』に軍配が上がりますし、論理的な構造で言えば圧倒的に『暇と退屈の倫理学』の方がきっちりしてます。
そういう意味では、読む人を選ぶ本ではありそうです。
ただ、なんでもかんでも抽象化しようとする現代のトレンドに対して対抗するためだからこそ、このような詳細で具体的な描写が際立つところはあるでしょう。
「抽象」対「具体」という対立構造は、現代社会を考える上でひとつ面白い軸と言えそうです。
本書のこうした豊かな記述を読みながら「で、結局言いたいことは何なの?」とつい答えを急かしたくなってしまう私たちは、既に抽象主義や効率主義に毒されてしまってるのかもしれません。
あと、本書を通じて提案されている「その場にいたままの抵抗」という考え方もとても興味深いものでした。
注意経済や資本主義社会への抵抗というと、ともすると「デジタル・デトックスすればOK」とか「社会との交流を経って自分たちだけで理想のコミュニティを作ろう」となりがちですが、そうした自分を社会から分離しようとするようなやり方には著者は否定的な意見を示しています。
たとえば、アメリカでは過去に資本主義社会への反抗として「コミューン」という自給自足の独自コミュニティを作る活動が流行ってたらしいのですが、それらのほとんどがコミュニティを維持できずに崩壊したり、まさかの独裁政治に陥ったりと残念ながらことごとく大失敗に終わってしまったことを著者は指摘されています。
結局のところ「私たちは社会と全く無縁ではいられないこと」を認識すべきで「つながりを断ち切る」ような発想では抵抗活動としてはうまくいかないのだと。
それで著者が提案するのが「その場にいたままの抵抗」です。
古代ギリシャの哲学者ディオゲネスや、小説の創作人物の「バートルビー」のように、コミュニティの中に人々とともに生きていながら、それでいてそのコミュニティの常識を皮肉る、いわば「パフォーマンスアーティスト」として不服従の態度を示し続けるという抵抗方法です。
常識と真っ向から勝負せず、しかし、それでいて従わないという意味で「非暴力不服従」とも言えるかもしれません。
本書内で紹介されてた面白い例がピルヴィ・タカラというアーティストが会社の中で「ただ何もしない研修生」を演じるというパフォーマンスアートです。
二〇〇八年、大手会計事務所、デロイト社のオフィスでは、ある新入社員の行動にほかの社員が困惑を深めていた。周囲がせわしなく働くなかで、彼女は何も置いていないデスクに座り、ただ空を見つめる以外は何もしていないように見えた。何をしているのかと尋ねられると、「考えごとをしている」だとか、「論文執筆に取り組んでいる」と答えた。上がったり下がったりを繰り返すエレベーター内で立ちっぱなしの日もあった。その姿を目撃した同僚に、「また考えごとをしているのかい?」と訊かれると、「こうしていると、別の視点からものごとを捉えやすくなるんです」と答えた。社員のあいだに動揺が広がった。そして、緊急の社内メールが飛びかった。
あとになって、社員たちはそうと知らされずに、〈研修生〉(TheTrainee)というパフォーマンス作品に参加していたということが判明した。口数の少ない研修生の正体はピルヴィ・タカラ、なんでもない行動で社会通念を静かに脅かすようすを収めた動画で知られるフィンランドのアーティストだ。
(中略)
〈研修生〉には、タカラお得意の手法が用いられている。二〇一七年にこの作品の展示を行ったロンドンのポンプハウス・ギャラリーの解説者が指摘するように、職場にいながら仕事をさぼるという状況はそもそもありえないことではない。勤務時間中にスマホでフェイスブックをチェックしたり、ほかのお楽しみを探したりするのはごくありふれたことだ。タカラの同僚たちを落ちつかなくさせたのは、徹底した無為のイメージだった。その解説には、「まったく何もしていないように見えたがために、得体の知れない感覚が芽生え、その企業の通常の職場秩序にたいする脅威として受け止められた」とある。そして、さらにこう書かれている。「何もしないことには、すべてに開かれた可能性がある」
※このアートの様子はネット公式でもで見れますので興味のある方はどうぞ↓
このように、「何もしない人がいる」というただそれだけのことで心がざわついてしまう社会の反応にこそ、私たちがいかに「何かしなくてはいけない」という常識にとらわれているかがあぶり出されるというわけです。
そういう意味では、著者も本書内で何度か強調されてるように、本書の「何もしない」という言葉は「本当に何もしないこと」を意味しているわけではありません。
むしろ、「何もしない」という態度を意識的に「行う」ことで、現代社会を包む非人間的な文化への問題提起と成していくべきだという「社会活動」を表しているのです。
いや、ほんと面白い切り口だと思います。
そんなこんなで、なかなかに面白い提案と、先にも述べたように鋭く豊かな観察眼を持った本書。
「何かしなきゃいけない空気」に疲れた方はぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
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