ヨトゥン会談 第二話
第二話:ヨトゥンヘイム到着
霧の門を越えた瞬間、空気は一変した。
お岩は足元の感触を確かめるように、慎重に一歩を踏み出した。 そこはまさに「異界」という言葉がふさわしい場所だった。
冷たく、重い空気。視界を覆うのは一面の白銀世界。 地平線すら見えない氷原が、どこまでも広がっている。
(……これが、ヨトゥンヘイム)
お岩は静かに息を吐いた。吐息が霧のように白く漂い、すぐに空気に飲み込まれていく。
気温だけではない。この場を包む「気配」そのものが、仏界のそれとはまるで異なっていた。
(重い……というか、質量が違うというか……)
霧の奥から、重く、地鳴りのような足音が響き始める。
お岩は反射的に背筋を伸ばし、デリンジャーに手を伸ばしかける。
「――おっと、いきなり物騒なことはやめてくれよ」
先ほど門番として迎えた巨人が、どこか飄々とした様子で霧の中から現れた。
「仏界から来た小さき者。どうやら本物らしいな」
巨人の声は低く、だがどこか陽気さを含んでいる。
続けて、さらにいくつもの影が姿を現した。
(……で、でかい)
お岩の頭の中では冷静さと困惑がせめぎ合う。 仏界の天部たちとさえ比べ物にならない圧倒的な体格。まさに「巨人」の名に恥じない威容だ。
その中でもひときわ目立つ男――スリュムと呼ばれる巨漢が前へと出る。
「おう、そいつが噂の仏界の使者か。へえ、意外と華奢だな」
スリュムは歯を見せて笑いながら、お岩を上から下まで値踏みするように眺めた。
「……秘書課の、お岩と申します。異文化会談のために伺いました」
お岩は表情を崩さず、秘書としてのプロフェッショナルな態度を崩さない。
だが、巨人たちはその姿勢にますます面白がった様子だった。
「ほーう、礼儀正しい。だが、ここじゃあそれだけじゃ渡れねぇぞ」 「細腕の秘書様が、俺たちの酒盛りに耐えられるのかねぇ?」
次々と浴びせられる豪快な言葉に、お岩は内心でツッコミを入れながらも微笑を浮かべたままやり過ごす。
(これは……思った以上に文化のギャップが激しいわね)
だが、逃げるわけにはいかない。
(これも仕事。会談のためには、まず関係を築くところから)
巨人たちは冗談混じりに肩を叩き合い、時にお岩にも手を伸ばしかけるが、スリュムがそれを制した。
「まあまあ、客人だ。とりあえず場所を案内してやれ」
「姫様にも通達してある。……あんた、ラッキーだぜ。姫様が直々に出迎えてくれるらしい」
姫――その言葉にお岩は一瞬目を瞬かせる。
(姫? つまりこの国の高位の存在……?)
仏界での格式を考えれば、それはとても光栄なことだ。
お岩は内心で安堵しつつ、しかし気を引き締め直す。
(この異文化の地で、無事に任務を全うするためにも……ここは慎重に行こう)
氷と霧に包まれたこの場所で。 お岩は、確かに「異世界に足を踏み入れた」ことを全身で実感していた。
――衝撃だった。
お岩はその言葉以外を思いつかなかった。
「よし、仏界の使者の歓迎だ! 酒だ! 乾杯だ!」
スリュムが雄叫びを上げた瞬間、氷の広間に巨人たちの歓声が轟いた。 その瞬間、目の前に突き出されたのは、氷でできた盃だった。 中には、どろりとした青白い液体――明らかにアルコール度数の高そうな氷酒が並々と注がれている。
(いや、いきなり酒盛り!? というか、これ……絶対強いヤツじゃない)
お岩は一瞬たじろぐが、巨人たちはすでに宴モードに突入していた。 中でもスリュムは特にノリノリで、彼女の肩にどっしりとした手を乗せる。
「まぁまぁ、細けぇことは抜きだ。こういうのは勢いが大事なんだよ!」
「……いえ、その、交渉の前に酩酊は――」
「堅いこと言うな! お前も飲め!」
ぐいっと迫られ、お岩は観念した。 とはいえ、仏界秘書課の誇りとしても、ここで無礼を働くわけにはいかない。
(……少しだけなら)
覚悟を決めて盃を口に運ぶ。 ――瞬間、胃の奥が焼けるような刺激が全身を駆け巡った。
「…………ッ!」
思わず表情が引き攣るが、必死に笑顔を作る。 巨人たちはそれを見て、ますます上機嫌になった。
「おお! 意外とイケる口じゃねぇか!」 「やるじゃないか、秘書さんよ!」
お岩は内心で(いやいや、死ぬほどキツいんですけど)と叫びつつも、プロとしての仮面を崩さない。
巨人たちのノリは止まらない。 肩を組まれ、背中を叩かれ、いつの間にか宴の輪に完全に取り込まれていた。
「いやー、こんな細腕の奴でも来るんだな、仏界ってのは」 「細いどころか、折れそうだぞ。飯食ってんのか?」
次々と飛び交う無遠慮な言葉。 お岩は乾いた笑みを浮かべながらも、内心ではかなりの困惑モードだった。
(……思った以上に、文化ギャップが激しい)
秘書課のマニュアルには、異文化交流の基本として「相手の風習を尊重すること」が明記されている。 だが、尊重にも限度がある。
(いや、でも……これがヨトゥン流なのね)
お岩は必死に自分に言い聞かせ、デリンジャーに手が伸びそうになるのを何度も耐えた。 一応この武器は「交渉決裂防止用」であり、暴走を止めるためのものだ。 だが、ここで使えば間違いなく「空気読めない奴」の烙印を押される。
そんな中、スリュムがふと興味深そうにお岩を見た。
「ところでよ、秘書さん。お前、ここまでの道中、怖くなかったのか?」
お岩はその問いに、少しだけ素を見せた。
「正直に言えば……怖くないと言えば嘘になります」
だが、続けて凛とした声で言い切る。
「ですが、私は仏界の代表です。怖くても、ここで逃げるわけにはいきません」
巨人たちは一瞬、沈黙した。
――次の瞬間。
「……ははっ、いい根性してるじゃねぇか!」 「気に入ったぞ、秘書!」
スリュムを筆頭に、巨人たちはどっと笑い、お岩の背中をさらに強く叩いた。 それはもはや歓迎というより、認めた者への「同族意識」に近いものだった。
(……あれ? これ、意外と……)
お岩はそこでようやく気づく。 彼らの豪快さと無遠慮さは、単なる無礼ではなく、むしろ「認めた相手だからこその距離の詰め方」なのだと。
(……そうか。これが、この地の流儀なんだ)
少しだけ、心が軽くなる。
その頃、遠くの廊下では静かな足音が響いていた。
――次に登場するのは、この異界で最も静謐な存在、リリヤ姫である。
巨人たちの宴は続いていた。お岩は酒に酔うことなく(内心では完全に限界だったが)笑顔を保ち、あらゆる無遠慮な言葉と行動に耐えていた。秘書としての矜持と、現場対応力が問われる瞬間だった。
(……正直、そろそろ帰りたい)
心の奥底でそう呟いたその時だった。
突如として広間の空気が変わった。
それまでの喧騒が、まるで誰かに命じられたかのように静まり返る。スリュムすらも「おっと」と呟いて杯を置き、姿勢を正した。
静謐。
その言葉が似合う足音が、氷の回廊から響いてくる。霧の中を抜けて姿を現したのは、リリヤ姫だった。
彼女はまさに氷の姫君だった。
淡い銀色の髪は霧を纏うように柔らかく流れ、白銀のドレスは寒冷地の花のように気高く、しかし柔らかさを備えている。その瞳は淡い青色――氷湖の奥底にある静寂を思わせた。
「静かに」
たった一言で巨人たちはぴたりと黙った。 お岩はその光景に少し驚く。
(……あれだけ豪快だった彼らが)
リリヤは静かにお岩の元へと歩み寄る。
「あなたが、仏界よりお越しになった方ですね。初めまして、私はリリヤ。このヨトゥンヘイムの姫です」
その声音は柔らかく、澄んでいた。 まるで、この荒々しい世界でただ一輪咲く花のようだった。
お岩は思わず背筋を正し、深く頭を下げる。
「天部総務部秘書課の、お岩と申します。この度はお招きいただき、ありがとうございます」
リリヤは微笑む。どこか憂いを含んだ、だが柔らかい笑みだった。
「スリュムたちが、少々賑やかだったようですね。申し訳ありません、彼らは歓迎の仕方を間違えがちで」
「い、いえ……。皆さま、非常に……活発で、ええ」
お岩の絶妙な言葉選びに、リリヤは小さくくすりと笑う。
「あなたは、強い方ですね。心が」
その言葉にお岩は少し戸惑う。
「私は……ただ、役割を果たしているだけです」
「役割を、ですか。……ならば、同じですね」
リリヤの瞳が僅かに翳る。 彼女もまた、ヨトゥンの姫として背負うものがあるのだろう。
お岩は、その視線に不思議な親近感を覚えた。
(この人は、誇りと責任を知っている……)
無言のまま、ほんのわずかの間、二人は視線を交わした。 その沈黙は、言葉以上に多くを語っていた。
スリュムが、空気を読まない巨人らしく豪快に割って入る。
「おーい、姫さん。こっちも来てくれ! せっかくの料理が冷めちまうぞ!」
リリヤは困ったように笑い、お岩へと目を戻す。
「よければ、続きをこちらで。もっとお話ししましょう」
「……はい。是非」
お岩は素直に頷いた。 こうして、最悪と思えた歓迎は、リリヤという清流を得て、静かに穏やかな時間へと変わっていく。
異文化交流――その最初の橋が、確かに今、架けられた。
広間の喧騒はすっかり静まり返り、氷の姫――リリヤの存在感だけが、しっとりと場を包んでいた。
「お岩さん、こちらへ」
リリヤはそう優しく言うと、広間奥の扉へと視線を向けた。そこには、凍てつく氷を彫刻のように削り出した荘厳な門が待ち構えている。お岩は一瞬だけ戸惑った。
(会談……本当に始まるんだ)
肩に乗せた緊張と責任感が、ずしりと重くなる。
「姫様、直々に案内とは贅沢だな!」
スリュムが陽気に声を張る。それに応じるように他の巨人たちも「おー!」「さすがリリヤ様!」と盛り上がった。だが、リリヤは彼らに柔らかな笑顔を向けただけで返し、静かにお岩の隣へと並ぶ。
「彼らは賑やかですが、根は悪くありません。……少し大雑把ですけれど」
「ええ、先ほどので十分わかりました」
お岩の苦笑に、リリヤも小さく笑った。
歩き出した二人。廊下は霧と氷が交錯する幻想的な空間だった。足音は響かず、まるで空気そのものが音を吸い込むように静かだった。
「……今回の会談ですが、実のところ、私たちヨトゥンにとっても特別な意味があります」
リリヤの声は柔らかいが、どこか覚悟を秘めていた。
「この地は長らく閉ざされていました。けれど、滅びの影は無関係ではいられない。仏界と手を携える必要があると、私は考えています」
お岩は頷きつつも、その言葉の重みを理解しようとしていた。
「……滅び、ですか」
「ええ。氷は美しいですが、静かすぎるのもまた、終わりに近いということ。私たちの種族も例外ではありません」
お岩は歩きながらそっとリリヤを見た。 リリヤの横顔は静謐で、しかしどこか孤独だった。
(この人も……背負っている)
お岩の胸に、仏界でも味わったあの感覚――役割と孤独の狭間で揺れる想いが蘇る。
「だからこそ、こうして貴女とお話できることが嬉しいのです」
リリヤはお岩を正面から見つめ、真剣にそう言った。
「私も……この任務をただの形式だけにはしたくありません」
自然とお岩も、素直な言葉が口をついて出た。
リリヤは微笑む。
「きっと、いい会談になるわ」
その言葉が不思議とお岩の緊張を和らげた。
そうして二人がたどり着いた先、巨大な氷の扉が静かに開く。
そこは、ヨトゥンヘイムにおける最も格式高い「会議の間」だった。
天井は見えないほど高く、壁は氷の結晶で覆われ、中央には古の盟約が刻まれた石碑が立っている。
「ここが、異文化の橋を架ける場所です」
リリヤの言葉に、お岩は深く息を吸った。
(ここからが本番——仏界の代表として、そして一人の秘書として、しっかりと)
二人は並んで、ゆっくりと会議の中心へと歩を進めた。
――霧と氷が交錯する場所で、今、異世界の絆が静かに結ばれようとしていた。
