ヨトゥン会談 第一話
第一話:招集
――仏界、天部総務部秘書課。
今日もいつもの静かな朝だった。 神域に相応しい、張り詰め過ぎず、だが緩みきらない、穏やかで理知的な空気。その中に、ひときわ違和感を醸すアラート音が鳴り響いた。
「……え?」
静寂を破るのは、控えめだが鋭いお岩の声だった。 手にしていた書類が危うく滑り落ちる。端末に表示された通知は、彼女の目を疑わせるには十分過ぎるほど、突拍子もないものだった。
霧のヨトゥンヘイムからの、異文化会談要請。
「ヨトゥン……って、あのヨトゥン?」
お岩の問いに、席から顔を出した和泉が淡々と頷く。
「そうです。巨人族の領地。滅びと共に在る北方異界ですね」
言葉は事務的だったが、その表情には明らかに困惑の色が滲んでいた。
「でも、どうして仏界に……? いや、そんなことは後でもいいわね。阿難課長は……?」
「外部講話中です。今日一杯は戻れません」
「……三蔵代理は?」
「現場での封印作業に向かっています。即応できるのは、お岩さんだけです」
まるで落ち着き払った投げ銭のように、和泉はさらりと告げた。
お岩は思わず頭を抱える。
「代理の代理……って、それ、本気で言ってる?」
「本気です。上層部からも『どんな形でも代表を出せ』と指示が来ています」
事もなげに言う和泉の横で、端末に表示された「緊急」の赤文字が、いやに目に刺さる。
(冗談で済めばどれだけ良かったか……)
お岩は内心で毒づきながらも、次第に顔を引き締めた。
「……秘書課の一員として、行かないという選択肢はないのね」
「その通りです」
一歩、覚悟を決めたお岩は机から立ち上がる。
「ああもう……私が行くわ。異文化交流だろうが、巨人族だろうが、やるしかないのね」
和泉が安堵の表情を浮かべる。
「助かります。お岩さんなら適任です」
お岩は思わず肩を竦めた。
「ほんっと、こういう時だけ頼られるのね……」
とはいえ、それが彼女の誇りでもあった。 秘書課No.3――責任の重みは十分に心得ている。
「それで……何を準備すればいいの?」
「一応、資料はまとめました。ですが相手は巨人族です。文化も考え方もまったく異なるため、正直未知数です」
「未知数、ね……」
お岩は再びため息をつきながら、資料ファイルを受け取る。
その時、部屋のドアが音もなく開いた。
「……なんだ、騒がしいな」
現れたのは、タバコを咥えたままの三蔵だった。 ラフな僧衣アレンジのスーツ姿が妙に決まっている。
「お前ら、会議中か?」
「いえ、異文化会談の件で……三蔵様は出張中では?」
「戻ってきたばっかだ。で? 誰が行くんだ?」
お岩と和泉が一斉に彼を見る。間の悪さに、三蔵は苦笑した。
「……お岩、か。なら、まあ……」
三蔵は短く、だが信頼を込めた目を向けた。
「お前なら、やれるだろう。異界でも。」
その一言で、部屋の空気が変わった。 お岩は僅かに頬を緩め、軽く頭を下げる。
「わかりました。行ってきます。」
静かだが、確かな決意がその声に込められていた。
天部秘書課の空気は、どこか重く張り詰めていた。
会談要請が入った数分前とは違い、既にお岩が「代理の代理」として向かうことはほぼ既定路線となっていた。
だが、それはイコール準備万端という意味ではない。
「本当に……私が行くんですね」
お岩は資料ファイルを手にしたまま、再度、和泉に念押しするように尋ねた。
「はい。現時点で即応可能なのはお岩さんだけです」
和泉は事務的にそう答えたものの、その表情にはどこか不安も混じっていた。
仏界は理の世界だ。感情ではなく秩序が重んじられる。 だが、異界——特にヨトゥンヘイムのような猛者たちの領域では、その理が通じるとは限らない。
「異文化交渉って……どう進めればいいのか、正直全く想像がつかないわ」
お岩は半ば独り言のように呟き、資料をめくる。 そこには巨人たちの文化、食事、礼儀作法、武勇を重んじる価値観が記されていた。
「……意外と、体育会系?」
思わず漏れた本音に、和泉がわずかに苦笑する。
「まあ、交渉とは言っても、威厳と胆力は重要だと思います」
(胆力ね……怨霊だった頃よりは成長したけど、さすがに異界の巨人相手は荷が重いわ)
お岩は内心で嘆息するも、やるしかないと自分を鼓舞した。
そこへ、まるでタイミングを見計らったように、阿難が部屋へ入ってきた。
「進捗はどうですか?」
柔和な笑顔のまま、阿難は場を見渡した。 お岩が立ち上がり、状況を簡潔に説明する。
「異文化会談の要請を受け、代理の代理として私が行くことになりました。ただ……装備については未定です」
阿難は頷き、静かに告げる。
「交渉なのですから、武装は不要でしょう」
その言葉は至極真っ当だった。 だが同時に、現場を知る者たちにとっては理想論にも聞こえた。
和泉がわずかに口を開きかけた、その時——
「甘ぇな、阿難」
低く、ややガラついた声が部屋に響く。
三蔵だった。先程とは違い、僧衣アレンジのスーツをラフに羽織り、タバコを咥えたまま、気だるげに入ってくる。
「交渉だろうが、現場は別だ。理屈は通じねえ相手もいる」
三蔵は阿難にそう言い放つと、無造作にデスクの引き出しを開けた。 中から取り出したのは、小型の銀色の銃——デリンジャーだった。
「……三蔵様、それは」
和泉が即座に反応する。仏界における武器持ち込みは、基本的に禁止事項に近い。
だが三蔵は気にした様子もなく、デリンジャーをくるりと回し、お岩に向かって放った。
「お前、これ持っとけ。……貸しとく。返せよ」
「え、ちょ、ちょっと待って! 銃ですか!?」
突然のことにお岩は思わず声を上げる。
三蔵はタバコを咥え直しながら、にやりと笑った。
「普通の銃じゃねぇよ。これは法導器。霊弾しか撃てねぇ。暴れる奴に撃ちゃ、30秒は大人しくなる。交渉決裂防止用の仏界仕様だ」
「……それ、仏界法規的には?」
和泉が眉をひそめるが、三蔵は肩をすくめる。
「グレーだ。阿難が文句言ったら俺のせいにしとけ」
阿難は微苦笑しつつも、反対はしなかった。
「……三蔵さんらしい解釈ですね」
お岩はデリンジャーを手に取り、そっと重量感を確かめた。
(……軽い。でも、異界での重さは計り知れないわね)
慎重にホルスターに収め、スーツの袖を整える。 その姿は、どこか凛とした秘書らしい気品を漂わせていた。
「……いざという時は、これで冷静になってもらうわ」
決意を込めてそう呟いたお岩に、三蔵は満足げに頷く。
「そうそう、そういう心意気が大事だ」
和泉もまた、少し安心したように口元を緩めた。
「準備は、整いましたね」
阿難がそう締めくくる。
お岩は再び、深く息を吸った。
異界——ヨトゥンヘイム。未知なる文化と、巨人たちの誇りの世界。
そこへ向かう覚悟は、すでに秘書課No.3の心にしっかりと根付いていた。
――仏界の転送装置前。
お岩はひとり、静かに佇んでいた。目の前にそびえるのは、巨大な環状の霊子転送門。 普段は穏やかに淡い光を灯すだけの装置が、今は静謐ながらも緊張感を纏い、深い霧をまとわせている。
(……これが、異界行きの門)
スーツの袖をそっと整える。その黒い生地には、控えめながらも確かな和柄が織り込まれており、白のブラウスと相まってどこか静謐な威厳を漂わせていた。
腰には、あのデリンジャーがしっかりと装備されている。
「まさか、こういう形で携行する日が来るとはね……」
苦笑交じりに呟くも、その表情はどこか引き締まっている。
直前の仏界秘書課のやり取りが、脳裏にリフレインする。
『現場は理屈じゃねぇ』
三蔵のあの乱暴だがどこか頼もしげな言葉。
『お岩さんなら適任です』
和泉の冷静だが信頼に満ちた声。
『交渉なのですから、武装は不要でしょう』
阿難の柔和な忠告。全てを噛み締めるように思い出す。
(……ううん、必要なんだわ。誰かが行かないと、何も始まらない)
そう、秘書という仕事は、時に世界と世界を繋ぐ橋渡し役でもある。
この会談は、その象徴だ。
「……さて、と」
気合を入れるように息を吐き、お岩は振り返る。 そこには見送りのために立つ、和泉と阿難の姿があった。
「気をつけてください、お岩さん」
和泉の声は、普段の冷静さにわずかな優しさが滲む。 阿難もまた、穏やかな微笑をたたえつつ、静かに頷く。
「あなたの誠実さは、きっと異界でも通じるはずです」
(……異界でも、か)
その言葉はどこか不思議な重みを持っていた。
お岩は二人に一礼すると、転送装置の起動パネルに手をかざした。
「仏界秘書課、No.3。異文化会談のため、ヨトゥンヘイムへ赴きます」
厳かに告げられた言葉と同時に、転送装置が淡く輝き始める。
音もなく霧が門の中心に集まり、やがて淡い光の渦となって空間を歪ませる。
「……いってきます」
その言葉を最後に、お岩は霧の中へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに、視界は白く染まっていく。
(異文化会談……とは言っても、私は何を話せばいいの?)
心の奥底に、小さな不安が生まれる。
(仏界の礼儀? 礼節? それとも文化交流? 巨人たちは……どんな反応を示すのかしら)
歩を進めるにつれて、霧はさらに濃くなり、感覚すら曖昧になっていく。
耳鳴り。わずかな重力の揺らぎ。足元の感触さえ失われるような、奇妙な浮遊感。
(落ち着け、私……怨霊だった頃のように、もっと酷い場所だって経験してるじゃない)
自分を鼓舞するように、静かに深呼吸をする。
——その時だった。
(……あれ?)
まるで誰かに見られているような感覚が、背筋を撫でた。 だが霧の中には誰もいない。ただ、冷たい湿気と、微かに光る霊子が漂うのみ。
(異界、というだけで緊張しすぎてるのかも)
自嘲気味に笑う。
やがて、霧の色がゆっくりと変わり始めた。
白から、灰色へ。そして淡い青。
その瞬間、足元に確かな大地の感触が戻ってくる。
(……着いた)
お岩はゆっくりと立ち止まり、周囲を見渡した。
どこまでも広がる氷原。重く垂れ込める霧と、かすかにきしむような風。
静謐でありながら、どこか威圧的な空気。
これが——ヨトゥンヘイム。
お岩は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たした。
(ここからが、私の仕事……いえ、役目の本番ね)
スーツの裾を整え、再び足を踏み出す。
霧に消えた背中は、秘書でありながら、どこか戦士のようでもあった。
霧の門を抜けた先――そこは、まるで時間と空間の概念そのものが凍てついているかのような、静謐でいて異様な場所だった。
一面の銀世界。氷の大地がどこまでも続き、空もまた白銀に染まり、天と地の境界さえ曖昧だった。
「……これが、ヨトゥンヘイム」
お岩は息を呑んだ。冷気が喉を刺すように入り込み、吐息はすぐに白く染まる。 だが、寒さ以上に感じたのは、この場を支配する圧倒的な“重さ”だった。
(これが異界……文化も、存在そのものも違う場所)
彼女は慎重に足を踏み出す。ヒールが雪をかすかに鳴かせ、スーツの裾が微かに揺れる。 和柄がさりげなく織り込まれた黒のスーツは、この異質な世界の中でも不思議と違和感なく馴染んでいた。
――だが。
「小さいのが……来たな」
突然、頭上から重く響く声が落ちてきた。
驚いて顔を上げたお岩の視界を、巨大な影が覆う。
(……で、でかい)
そこに立っていたのは、全身を氷の甲冑で包んだ巨人だった。 まさにヨトゥン、氷の巨人。 その体格はビル三階分ほどもあり、冷気を纏いながらお岩をじっと見下ろしている。
「仏界の者か?」
唸るような低音が、氷原全体を震わせた。
お岩は咄嗟に一歩下がりそうになったが、すぐに気を取り直す。
(そうよ……ここで怖じ気づいたら、交渉以前の問題だわ)
背筋を伸ばし、胸を張る。
「天部総務部秘書課より参りました。お岩と申します」
静かだが、通る声で名乗る。 その声は氷原に吸い込まれるように響き、やがて巨人の沈黙を招いた。
数秒後――
「ほう。……秘書か。ずいぶんと小さき者が来たものだな」
門番らしき巨人は、どこか呆れたように、しかし敵意は感じさせない声で言った。
「小さくて悪かったわね……」
内心で毒づきつつも、顔には出さない。
「……会談のために参りました。貴方にご挨拶を、と」
巨人はお岩をじっと見つめ、そして不意に豪快に笑い出した。
「ははは! そうかそうか。礼儀はあるようだな!」
轟くような笑い声に、お岩は思わず耳を押さえそうになる。
(……帰りたい)
一瞬だけ、そう思った。 だが、すぐに首を振ってその弱音を打ち消す。
(違う、これは仏界秘書課の誇りを背負った仕事……誰かがやらなければならない役目)
デリンジャーの存在が、腰元で重く感じられる。 だが撃つべき相手ではない。
「案内してもらえますか? 会談の場へ」
お岩の丁寧な申し出に、門番は興味深そうに顎を撫でた。
「……よかろう。ついてこい、小さき秘書よ」
それだけ言うと、巨人は氷原の奥へと向かって歩き始めた。 その背中はまさに山のようで、彼の一歩はお岩の十歩分にも相当する。
お岩は小走りになりながら、その背を追いかけた。
(異文化交流……これがその本当の意味なのね)
冷たく静かな世界。 だがそこに確かに始まった、言葉を紡ぐための第一歩。
お岩は、霧の向こうに広がる未知なる会談の場へ、堂々と足を踏み入れようとしていた。
