短編小説『記憶買います』
ビルとビルの隙間が私を呼んだ気がした。
とはいえ、それが「呼ぶ」という行為だったかどうかは、今となっては定かでない。
なにしろ記憶には、選択肢というものがない。
幅60センチもない隙間。
かつて誰かが無理に通ろうとしてコートのボタンを引きちぎった跡のような、古傷めいた擦過痕が、コンクリートの両壁に残っている。
その通路を、私は息を殺して進んだ。
やがて、古いパチンコ屋の景品交換所を思わせる小窓が現れた。
窓の上には、段ボールの切れ端に殴り書きされた粗末な看板がぶら下がっている。
<記憶買います>
文字は震えており、読み手の内部に不安を注ぎ込むような筆跡だった。
小窓の向こうには、小柄な老婆。
ひとりで時間の堆積を受け止め続けてきたような、埃のような存在だった。
老婆は私を見て、にやりと笑った。
笑顔とは言えない種類の顔のひらきかたで、まるで顔の皮膚を裏返して見せる手品のようだった。
「あなたの“昨日”、いくらで売りますか?」
老婆の声は、言葉ではなく音だった。
耳ではなく、肺の内側に届いた。
「……昨日?」
「そう。昨日。今日になって、もう要らなくなった昨日の、記憶。高く買いますよ」
意味がわからなかった。が、不思議と疑問は湧かなかった。
「昨日は……べつに、特別なことはなかったと思います」
老婆はうなずいた。
「“何もなかった記憶”は、価値があります。“あった”と思い込んでいる記憶より、ずっとね」
紙幣が載った小さな銀の皿が小窓から差し出された。
私はその紙幣を受け取り、財布にしまった。
そして老婆はその皿に、息を吹きかけるよう指示した。
私は言われるがままに、息を吹きかけた。
風がないはずの路地に、かすかな気流が生まれた。
次の瞬間、私は“昨日”が思い出せなくなっていた。
「ありがとうございました。また、売りに来てくださいね」
老婆はそう言うと、皿をしまった。
私は通路を戻った。
空は午後の色だったが、いつの午後かはわからなかった。
その後も私は何度もそこを訪れた。
一昨日を売り、先週を売り、大学時代を売った。
そしてある日、老婆は言った。
「最後の一点ものですね。あなたの“最初の記憶”——これで、すべてが帳消しになります」
「帳消し?」
「あなたはもう、“あなた”じゃなくなりますから」
私はうなずいた。
もともと、誰だったかも覚えていなかったから。
老婆は紙幣の載った皿を差し出した。
私は、最後の記憶を、渡した。
それ以来、私は小窓の内側に座っている。
今日も誰かが、通路を通ってやってくる。
私は顔を裏返して、にやりと笑う。
