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 ハングリーであれ、バカであれ

スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、「点と点をつなぐこと」「愛することと失うこと」「死について」という三つの話で構成されています。大学中退、Appleからの解雇、がんの告知という自らの実体験をもとに、「好きなことを見つけろ」「失敗を恐れるな」「死を意識することで本当に大切なものが見えてくる」という三つのメッセージを語りかけました。締めくくりの言葉「ハングリーであれ。バカであれ」は世界中に広まり、現在もYouTubeで毎年数百万回再生され続けています。ジョブズのスタンフォードスピーチは、史上最も有名な卒業式スピーチの一つとして語り継がれています。本稿は日本の学生への学習目的に、独自に彼のスピーチを日本語化したものである。


“Stay hungry. Stay foolish.” スタンフォード大学 2005年卒業式スピーチ
 
世界有数の素晴らしい大学の卒業式に、こうして皆さんと共にいられることを光栄に思います。実を言うと、私は大学を卒業したことがありません。卒業式というものに、これほど近づいたのも今日が初めてです。

今日は、私の人生から三つの話をしたいと思います。それだけです。大げさなことは何もありません。ただの三つの話です。
 
第一の話 点と点をつなぐこと

私はリード・カレッジを入学から六ヶ月で中退しました。その後も一年半ほど、もぐり学生として学内をうろついてから、ようやく完全に去りました。では、なぜ中退したのか。

話は私が生まれる前にさかのぼります。生みの母は若い未婚の大学院生で、私を養子に出すことを決めました。彼女は「大学卒業者に引き取ってもらいたい」という強い希望を持っていて、ある弁護士夫婦への養子縁組がすべて整っていました。ところが私が生まれると、その夫婦は土壇場で「やっぱり女の子がよかった」と言い出した。そこで順番待ちリストにいた私の両親に、真夜中に電話がかかってきたのです。「思いがけない男の子がいますが、引き取りますか」と。両親はすぐに「もちろん」と答えました。

後になって生みの母は、養父が大学を出ていないことを知りました。養母に至っては高校すら卒業していなかった。彼女は最終的な養子縁組書類へのサインを拒みました。数ヶ月後、私の両親が「この子を必ず大学に行かせます」と約束して、ようやく折れてくれたのです。これが私の人生の始まりでした。

その約束通り、十七年後に私は大学へ進みました。しかし何も考えずにスタンフォード大学並みの学費がかかる大学を選んでしまい、工場労働者だった両親が生涯をかけて貯めた蓄えが、すべて授業料に消えていきました。
六ヶ月経っても、大学に通う意味が見出せなかった。人生で何をしたいのかもわからないし、それを大学が教えてくれるとも思えなかった。それなのに、両親が一生かけて貯めたお金を使い続けている。そこで私は中退を決めました。きっとうまくいくと信じて、飛び込んだのです。当時は相当怖かった。でも今振り返ると、あれは私の人生で最善の決断の一つでした。

中退した瞬間から、興味のない必修科目への出席義務がなくなり、面白そうな授業に自由にもぐり込めるようになりました。

それは決してロマンチックな生活ではありませんでした。寮の部屋がないので、友人の部屋の床で寝ていました。コーラの瓶を拾い集め、五セントの預かり金で食費を稼ぎました。週に一度、七マイル離れたハレ・クリシュナ寺院まで歩いて、一週間でまともな食事を一度だけとっていました。それでも、楽しかった。

好奇心と直感に従って偶然出会ったものが、後に計り知れない価値を持つことになりました。一つ例を挙げましょう。

当時のリード・カレッジには、おそらくアメリカで最高水準のカリグラフィー(西洋書道)の授業がありました。キャンパスのいたるところ、すべてのポスター、すべての引き出しのラベルが、美しい手書きの文字で飾られていた。中退して必修科目から解放されていた私は、あの文字を書けるようになりたいと思い、カリグラフィーの授業にもぐり込みました。セリフ体とサンセリフ体の違い、文字の組み合わせによる字間の調整、何が優れたタイポグラフィを生み出すのか。そういうことを学びました。科学では捉えきれない、美しく、歴史的で、芸術的に繊細な世界でした。すっかり魅了されました。

この学びが実生活に役立つ可能性は、当時まったくありませんでした。しかし十年後、最初のMacintoshをデザインする時、すべてが蘇ってきた。私たちはその知識をMacにすべて注ぎ込みました。美しいタイポグラフィを持つ最初のコンピュータが誕生したのです。もしあの一つの授業にもぐり込んでいなければ、Macは複数の書体も比例フォントも持たなかったでしょう。そしてWindowsはMacをコピーしたわけですから、おそらくパソコン全体に美しいタイポグラフィは存在しなかったかもしれない。

中退しなければ、カリグラフィーの授業にも出なかった。大学にいる間は、将来の点と点がつながることなど想像もできませんでした。しかし十年後に振り返れば、その意味は驚くほど鮮明でした。点と点は、前を向いたままではつなげられない。後ろを振り返って初めてつながるのです。だから今は、点と点が未来でつながると信じるしかない。

直感でも、運命でも、人生でも、カルマでも、何でも構わない。信じ続けることが、敷かれたレールを外れても自分の心に従う勇気を与えてくれます。

それが、大きな違いを生むのです。
 
第二の話 愛することと失うこと

私は幸運でした。若くして、自分が愛せる仕事を見つけることができたからです。二十歳の時、ウォズニアックと私は両親のガレージでAppleを始めました。懸命に働き、十年後にはAppleは二人きりのガレージ会社から、四千人以上の社員を抱える二十億ドル企業へと成長していました。

最高傑作と自負するMacintoshをリリースしてから一年が経ち、私は三十歳になったばかりでした。そして、解雇されました。自分が創った会社からクビになる、とはどういうことか。

Appleが大きくなるにつれて、会社を一緒に経営するために優秀だと思った人物を採用しました。最初の一年ほどはうまくいきました。しかしやがて未来のビジョンがすれ違い始め、最終的に決裂しました。取締役会は彼の側につき、三十歳の私は会社を去ることになった。それも、世間に大々的に知られる形で。

大人になってからずっと心血を注いできたものが、突然なくなった。それは壊滅的なことでした。数ヶ月間、何をすればいいかわからなかった。前の世代の起業家たちを裏切り、バトンを渡される寸前で落としてしまったと感じた。

デヴィッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、あんな失敗をしてしまってすみませんと謝ろうとしました。完全な公開失敗でした。シリコンバレーから逃げ出すことまで考えました。

しかしある思いが、ゆっくりと浮かび上がってきました。私はまだ自分の仕事を愛していた。Appleで起きたことは、その気持ちを一ミリも変えていなかった。弾き出されても、私は夢中だった。

だから、もう一度始めることにしました。

当時はわかりませんでしたが、Appleをクビになったことは、私の人生で起きた最高のことでした。成功者であることの重さが、もう一度ビギナーになることの軽やかさに変わった。確信を持てないことが増えたぶん、自由になれた。人生でもっとも創造性に満ちた時期の一つが、そこから始まりました。

次の五年間で、NeXTという会社を始め、Pixarという会社を始め、後に妻となる素晴らしい女性と出会い、恋に落ちました。Pixarは世界初のコンピュータ・アニメーション長編映画『トイ・ストーリー』を生み出し、今や世界で最も成功したアニメーション・スタジオとなっています。

そして驚くべき巡り合わせの中で、AppleがNeXTを買収し、私はAppleに戻りました。NeXTで開発した技術が、今のApple復活の中核を担っています。ローリーンと私には素晴らしい家族もできました。

あの時Appleをクビにならなければ、このどれも起きなかったと思います。苦い薬でしたが、患者には必要だったのでしょう。

時に人生は、頭をレンガで殴りつけてくることがあります。それでも信じ続けてください。

私が前を向き続けられたのは、ひとえに自分のしていることを愛していたからだと確信しています。愛せるものを見つけなければならない。それは仕事についても、愛する人についても同じです。仕事は人生の大きな部分を占める。本当に満足できる唯一の方法は、自分が素晴らしいと信じる仕事をすることです。そして素晴らしい仕事をする唯一の方法は、その仕事を愛することです。

まだ見つけていない人は、探し続けてください。妥協しないで。心のことと同じように、見つかった時には自然とわかります。どんな素晴らしい関係もそうであるように、年を重ねるほど良くなっていく。だから探し続けてください。妥協しないで。
 
第三の話 死について

十七歳の時、こんな言葉を読みました。「毎日を人生最後の日のように生きていれば、いつかきっとその通りになる日が来る。」

この言葉が深く刺さりました。それ以来三十三年間、私は毎朝鏡を見て自分に問い続けてきました。「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを、それでもやりたいか」と。「ノー」という答えが何日も続く時、何かを変えなければならないとわかります。

自分がいつか死ぬことを思い出すことは、人生の大きな選択をする際に私が知る最強のツールです。外からの期待、誇り、恥や失敗への恐れ、そういったものは死の前ではすべて霞んでいき、本当に大切なものだけが残るからです。自分は死ぬのだということを覚えていることが、「失うものがある」という罠から逃れる最善の方法です。あなたはすでに何も持っていない。心に従わない理由など、どこにもない。

一年ほど前、がんと診断されました。朝七時半にスキャンを受けると、膵臓に腫瘍がはっきりと写っていました。膵臓が何なのかすら、知らなかった。
医師たちはほぼ確実に治癒不可能ながんで、余命は三ヶ月から六ヶ月だろうと告げました。担当医からは「家に帰って身辺整理をするように」と勧められました。それは医師が「死の準備をしなさい」という意味で使う言葉です。

子どもたちに伝えるために十年かけようと思っていたことを、数ヶ月で話し終えようとすること。家族が少しでも楽になるよう、すべてをきちんとしておくこと。別れを告げること。それが「身辺整理」の意味でした。

その診断を抱えたまま一日を過ごしました。夕方に生検を受け、内視鏡を喉から胃を通して腸まで入れ、膵臓に針を刺して、腫瘍から少量の細胞を採取しました。

鎮静剤を打たれていた私の代わりに、そこにいた妻が後で教えてくれました。顕微鏡で細胞を見た医師たちが泣き始めた、と。それは手術で治癒できる、非常に稀な種類の膵臓がんだったのです。手術を受け、今は元気でいます。

あれは死と向き合うことへの、これまでで最も近い経験でした。これからも数十年はそうあり続けてほしいと願っています。そこを生き延びた今だからこそ、死がまだ頭の中だけの概念だった頃より少し確かな言葉として、皆さんに伝えることができます。

死にたい人はいない。天国に行きたい人でさえ、死んでそこへ行きたいとは思わない。それでも死は、誰もが共に向かう終着点です。誰一人として逃れられたことはない。そしてそれは正しいことだと思います。死はおそらく、生命が生み出した最高の発明だから。命を更新する仕組みです。古いものを一掃し、新しいものへの道を開く。

今、新しいのは皆さんです。しかしいつか、遠くない将来、皆さんも少しずつ古くなり、去ってゆくことになる。大げさに聞こえるかもしれませんが、これは本当のことです。

あなたの時間は限られています。他の誰かの人生を生きることで、その時間を無駄にしないでください。ドグマの罠に入り込まないでください。それは他の人の考えが生み出した結果の中に閉じ込められて生きることです。他人の意見という雑音に、自分の内なる声をかき消させてはいけない。

そして何より大切なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。心と直感はすでに、あなたが本当になりたいものを知っています。その他のことは、すべて二の次です。

私が若い頃、『ホール・アース・カタログ』という素晴らしい出版物がありました。私たちの世代の聖典の一つです。このすぐ近く、メンロ・パークのスチュワート・ブランドという人物が、詩的な感性をもって生み出したものでした。

パソコンもデスクトップ・パブリッシングもなかった1960年代後半のこと、タイプライターとはさみとポラロイドカメラだけで作られていました。

Google登場の三十五年前に存在した、紙の形をしたGoogleのようなものでした。理想に満ち、便利な道具と優れたアイデアがあふれていた。

スチュワートとチームは何号かを出し続け、役割を終えた時、最終号を刊行しました。1970年代半ば、私が皆さんと同じ年齢の頃でした。

その最終号の裏表紙に、夜明けの田舎道の写真がありました。冒険心のある人ならヒッチハイクで訪れるような道です。その下に言葉が書かれていました。

「ハングリーであれ。バカであれ。」

それが彼らの別れの言葉でした。

ハングリーであれ。バカであれ。私はいつも自分自身にそう願ってきました。そして今日、新たな旅立ちを迎える皆さんに、同じことを願います。

ハングリーであれ。バカであれ。

ありがとうございました。
 
 










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