病気は自己責任ではない。だが、社会はそれを自己責任として処理する。
『ネフローゼ15年目の僕が、当事者研究者を集めたい理由』
、、、。ネフローゼ症候群になって15年が経つ。
15年という時間は、履歴書に書けば空白になる。
病院のカルテに書けば経過になる。
家族に話せば心配になる。
会社に話せば配慮の対象になる。
だが、本人の身体のなかでは、それはひとつの研究である。
朝起きたときのむくみ。
尿蛋白の数値。
プレドニンを飲んだ日の精神の揺れ。
通院前日の不安。
仕事中に体力が急に落ちる感覚。
恋愛の前で、自分の病気をどこまで話すべきか迷う沈黙。
これらは医学論文にはなりにくい。
だが、たしかに存在するデータだ。
一次性ネフローゼ症候群は、尿に多くの蛋白が出ることで血液中の蛋白が減り、浮腫などが起こる疾患と説明されている。毎年6,000人から7,000人が新たに発症し、患者数は約17,000人と推定されている。(難病情報センター)
この数字を見れば、ネフローゼは珍しい病気である。
しかし、当事者からすれば、珍しいどころではない。
毎朝、自分の身体の中で起きている。
世界で一番身近な疾患だ。

患者は、研究対象である前に観測者である。
医学には研究者がいる。
病院には医師がいる。
制度には行政がいる。
では、患者はどこにいるのか。
たいていの場合、患者は「診られる側」に置かれる。
診察され、検査され、薬を出され、経過を見られる。
もちろん、それは必要なことだ。
医療判断は専門家が行うべきだし、ネフローゼの治療を自己判断で変えるのは危険である。腎臓は根性論で説得できる相手ではない。あいつは黙って数値で返事をしてくる。
だが、それでも思う。
患者は、ただ診られるだけの存在ではない。
患者は、自分の身体をもっとも長く観測している人間でもある。
研究の世界では、患者や市民が研究の計画や評価に関わる「患者・市民参画」、いわゆるPPIという考え方がある。AMEDは、PPIを研究者と関わり意見を述べるものとして説明し、単なる研究参加とは区別している。(厚生労働省)
つまり、これは僕の妄想ではない。
時代は少しずつ、「患者を研究の外側に置く」段階から、「患者とともに考える」段階に移っている。
問題は、その流れがまだ生活の現場まで届いていないことだ。
難病者は、制度のなかでは見えにくい。
難病者は、社会のなかで奇妙な位置に置かれる。
健康な人から見れば、病気の人。
医療制度から見れば、患者。
会社から見れば、配慮が必要な労働者。
福祉制度から見れば、支援対象者。
だが、そのどれも、本人の全体を説明していない。
難病者は、働く。
恋をする。
映画を見る。
音楽を聴く。
noteを書く。
会社で気を遣いながら、帰り道で急に孤独になる。
そしてそのたびに、自分の身体と社会のあいだで、小さな交渉をしている。
この交渉は、ほとんど記録されない。
記録されないものは、制度に反映されない。
制度に反映されないものは、存在しないものとして扱われる。
これが、難病者が社会で見えにくくなる仕組みだ。
オッペンハイマーの時代には、科学者が集まった
かつて、科学者たちが一箇所に集まり、世界を変える研究をした時代があった。
オッペンハイマーの時代である。
もちろん、そこで生まれたものは人類にとってあまりにも重い。
それを単純に肯定することはできない。
だが、ひとつだけ学べることがある。
知識は、散らばっているだけでは社会を変えない。
人が集まり、対話し、役割を持ち、ひとつの問いに向かったとき、知識は力を持つ。
では、難病者はどうか。
ネフローゼの当事者は、それぞれの身体の中に膨大なデータを持っている。
だが、それは個人の記憶として散らばっている。
ある人は、薬の副作用に詳しい。
ある人は、仕事との付き合い方を知っている。
ある人は、恋愛で病気をどう伝えるかに悩んできた。
ある人は、通院と収入の不安を抱えている。
ある人は、AIを使って医療情報を整理できる。
これを集めたらどうなるのか。
治療法を勝手に決める場所ではない。
医者の代わりになる場所でもない。
陰謀論を語る場所でもない。
そうではなく、当事者が自分たちの生活知を整理する場所である。

必要なのは、患者会ではなく「当事者研究所」かもしれない。
僕が作りたいのは、慰め合いだけの場所ではない。
もちろん、慰めは必要だ。
孤独な夜に「わかるよ」と言ってくれる人がいることは、薬とは別の効き方をする。
だが、それだけでは足りない。
必要なのは、役割を持った小さな研究所だ。
たとえば、こういう役割がある。
役割内容生活記録者体調、薬、仕事、感情の変化を記録する医療情報係公的情報やガイドラインを読み、要点を整理するAI活用係情報を要約し、問いを作る編集係noteや文章にまとめる倫理係個人情報や医療助言の危険を管理する対話係孤立しない場をつくる
これは大きな団体である必要はない。
最初は3人でいい。
ひとりは当事者。
ひとりは記録する人。
ひとりは問いを立てる人。
それだけで、病気は少しだけ個人の不幸から外に出る。
AIは医者ではない。だが、患者の筆記係にはなれる
AIに過剰な期待をするべきではない。
AIは診断しない。
処方しない。
血液検査の責任も取らない。
腎臓が悪化しても、AIは病院まで付き添ってはくれない。
だから、AIを医者の代わりにしてはいけない。
だが、AIにはできることがある。
難しい医療情報を整理する。
自分の症状メモを見やすくする。
主治医に質問する内容をまとめる。
noteの記事を構成する。
同じ病気の人と話すための問いをつくる。
つまりAIは、患者の代弁者ではなく、患者の筆記係になれる。
これは地味だが、大きい。
病気の人間にとって、記録することは体力を使う。
考えることも体力を使う。
説明することは、さらに体力を使う。
AIは、その負担を少しだけ肩代わりできる。
人間の現実をAIに渡すのではない。
AIを使って、人間の現実を取り戻す。
病気の美談はいらない
難病者は強い。
難病者は優しい。
難病者は人生の意味を知っている。
そういう言葉を、僕はあまり信用していない。
病気になったからといって、人間が自動的に立派になるわけではない。
むしろ、弱くなる日もある。
怒りっぽくなる日もある。
人を羨む日もある。
恋愛から逃げる日もある。
働くことが面倒になる日もある。
病気は人格を磨く道具ではない。
ただ、身体に起きた現実である。
だからこそ、そこから何を取り出すかは本人次第だ。
僕は、ネフローゼを美談にしたいわけではない。
ネフローゼを利用して、誰かに同情されたいわけでもない。
ただ、この15年の身体の記録を、個人の中で腐らせたくない。
半径5メートルの現実から始める
社会を変えるというと、大げさに聞こえる。
だが、社会というものは、たいてい半径5メートルから始まっている。
朝、薬を飲む。
駅まで歩く。
会社で挨拶する。
体調をごまかす。
昼休みに少し眠くなる。
帰り道、同じ病気の人がどこかにいないかと思う。
夜、noteを開く。
その小さな現実の中に、制度のほころびがある。
医学だけでは拾えない生活の声がある。
AIだけでは届かない身体の重さがある。
だから僕は、ネフローゼの当事者を集めたい。
病気を治すためではない。
病気と生きる現実を、もう少し正確に記録するためだ。
患者は、ただの患者ではない。
自分の身体を15年間観測してきた、ひとりの研究者でもある。
そして、研究とはいつも、
たったひとつの問いから始まる。
この身体で生きてきた僕たちは、いったい何を知っているのか。
終わりに。
「多数派の側にいると気づいたときは、立ち止まって考える時だ。」――マーク・トウェイン。
マーク・トウェインは、世の中の常識や多数派に安易に同調する危険を指摘した。希少疾患や読書という少数者の世界を見つめる時、この言葉は強く響く。少数者の「小さな声」を軽んじず、自分自身で考え続けることの大切さを、この記事の締めくくりとして伝えたい。
