見出し画像

部下への「もっと相手の立場に立って考えてほしい」という想い

■|はじめに

「もっと相手の立場に立って考えてほしい」

そう相手に思ったことが、
一度もない人は
この世界にいるのだろうか。

私の中には、
そんな素朴な疑問がある。

少なくとも私は、
昔から何度もそう思ってきた人間だった。
学生時代でさえそうだった。

友人から、こちらの心が
めった刺しになるような言葉を、
何気なくぽんっと渡された時。

私はいつも思っていた。

どうして、こちらの気持ちも考えずに、
そんなことが言えるのだろう。

好きになって
付き合った相手に対してもそうだった。
そんな言い方をしなくてもいいのに。

もう少しこちらの立場に立って
考えてくれたっていいのに。

そう思った経験は、
一度や二度ではない。

社会人になれば、人はもう少し
相手の立場を考えられるように
なるものなのだろう。

どこかでそんな期待もしていたように思う。

けれど、
全然そんなことはなかった。

社会に出て、
上司から投げかけられた、
たった一つの言葉。

こちらが置かれている状況を
上司は知っているはずなのに、
どうしてそんな言い方をするのだろう。
もう少し考えてから発言してほしい。

そう思うことさえあった。

そして自分が部下を持つようになると、
今度は立場が逆になった。

なぜ、同じ失敗を繰り返すのだろう。

なぜ、失敗したのに
次に活かそうとしないのだろう。

なぜ、ここまで説明したのに
分からないのだろう。

気がつけば私は、
立場を変えながら、
ずっと同じことを考えていた。

「どうして?」
「なぜ?」
「もっと相手の立場に立って
 考えてくれればいいのに」

人はきっと、
学生でも、社会人でも、上司でも、部下でも。

どんな状況に置かれたって、
いくつになったって、
そう思う生き物なのだ。

長い間、私はそう思っていた。

ところが少し前から、
自分の中に小さな変化が
起きていることに気がついた。

一瞬、
「どうしてそんなことをするんだろう」
という考えが頭をよぎることはある。

けれど、以前のように
そこに留まり続けなくなった。

そして不思議なことに、
それと同時に、
人と接することがずいぶん楽になった。

以前の私は、相手に対して、
「もう少し考えてほしい」
「気づいてほしい」
「変わってほしい」と、
どこかで願っていたのだと思う。

けれど、その期待を
手放した頃からだったと思う。

相手を見た時に浮かぶ
「どうして?」の質が少しずつ変わっていった。



■|「向こうから見る」ということ

過去、何度も参考文献にさせていただいている
細谷功さんの著書の中に、
「向こうから見る」という考え方が出てくる。
(参考文献は記事の最後に記載しています)

本書では、将棋の棋士が相手側に回り込み、
相手側から盤面を見る
という話が紹介されている。

自分の席に座ったまま、
「相手だったら、どう考えるだろう」
と想像するだけではない。

一度、自分の位置から離れる。
そして、相手側から同じ盤面を見てみる。

私はこの話を読みながら、
「これ、人間関係でも
 同じ構造なのかもしれない」と思った。

私たちはよく、
「相手の立場に立って考える」
という言葉を使う。

けれど、実際には
自分の立っている場所から
一歩も動かないまま、

「もし私があの人だったら」と
考えていることも多いのではないだろうか。

自分の価値観。
自分の経験。
自分が持っている情報。
自分なりの常識。

それらを全部持ったまま、
相手の中に自分を入れてみる。

けれど、それは本当に
「向こうから見ている」ことに
なるのだろうか。

そんなことを考えていた時、
ふと昔の自分のことが浮かんだ。

私はずっと、
目の前の相手に対して
「もっとこちらの立場に立って考えてほしい」
と思っていた。

でも、その言葉を相手に向けていた私は、
一体どこに立っていたのだろう。

考えてみれば、
私はずっと「こちら側」にいた。


■|相手に「こちら側」へ来てもらおうとしていた

友人に傷つく言葉を言われた時。
「どうして、私が傷つくと分からないの?」

恋人に対して。
「私だったらそんな言い方はしないのに」

上司に対して。
「この状況を考えれば、
 普通jはそんなことは言えないでしょう」

部下に対して。
「一度失敗したら、
 次は気をつけるものでしょう」

どれもこれも、私の中では
とても自然な感覚だった。
全然自分のことを疑ってなんていなかった。

そして今でも、
それ自体が全て間違っていたとも思わない。

相手の置かれている状況を想像することは、
大切なことだと思っている。

ただ、これらを振り返ると、
そこには、ある一つの
共通しているものがあった。

それは、
「私にはこう見えている」
という視点だ。

私だったら傷つく。
私だったらそんな言い方はしない。
私なら一度失敗したら、次はやり方を変える。
私なら、この情報があればこう判断する。

そして、その延長線上に、
「だから、あなたにも分かるはず」
という期待があった。

つまり私は、
「相手の立場に立ってほしい」と思いながら、

実際には相手に、
「私だったらこうする」というこちら側まで、
無意識に来てもらおうと
していたのかもしれない。

私にはこう見えている。
だから、あなたにも同じように見てほしい。

私はこう感じる。
だから、あなたにも
少しくらい同じように感じてほしい。

もちろん、意識的に
相手を支配しようとしていたわけではない。

むしろ自分では、
相手を理解しようとしているつもりだった。

けれど、その奥には、
「もう少しこちらと同じように見てくれたら」
という期待が奥底にあったように思う。

そして当然、
その期待どおりにはならない現実が、
何度も私の目の前にやってくる。

そんな時、私の頭に浮かんで、
でも口には出さずに飲み込んできた言葉が、

「どうして?」だった。

いまなら、そうわかる。


■|「どうして?」には、二種類ある

私は昔から、
「なんでだろう」と考えることが好きだった。

人の言動を見て、
なぜこの人はこんなことを言ったのだろう。
どうしてこんな行動を取ったのだろう。

そんなことを考える癖がある。

だから長い間、
「どうして?」と考えること自体を、
相手を理解しようとする行為だと思っていた。

けれど最近、どうやら「どうして?」には
二種類あるのではないかと思うようになった。

一つ目は、
相手を責める「どうして?」だ。

「どうしてそんな言い方ができるの?」
「どうして同じ失敗を繰り返すの?」
「なんで、もっと考えないの?」
「どうして分からないの?」

言葉の形だけを見れば、
どれも問いになっている。

けれど、本当に
答えを知りたいのかと言われると、少し違う。

その問いの中には、
こうあって欲しい、こうあるべきだ。
という欲望や期待が、
すでに小さな形で結論として入っている。

そんな言い方をするべきではない。
一度失敗したなら、普通は学ぶはずだ。
もっと考えるべきだ。
ここまで言えば分かるはずだ。

つまり、
「どうして?」と聞きながら、

実際には、
「あなたの行動は理解できない」と言っている。

問いの形をしているけれど、
すでにこちら側の答えを持っている。

だから、この「どうして?」の先では、
必然的に観察が止まりやすい。

「この人は配慮がない」
「この人は学ばない」
「この人は主体性がない」
「この人は何度言っても分からない」

そんな説明で相手を捉え、
そこで考えることを終えられてしまう。

正直にいうと、
人間はこちらの「どうして?」の方が、
楽なのだ。

「この人はこういう人だ」と
一つの説明にたどり着けば、
そこで考えることを終えられる。

答えの分からない状態に留まりながら、
いくつもの可能性を考え続けるより、
ずっと楽だからだ。

けれど、ここには
もう一つの「どうして?」がある。

それは、
相手を知ろうとする「どうして?」だ。

「この人には、今何が見えているんだろう」
「何を根拠に、この判断をしたのだろう」

「この人にとっては、この選択が
 合理的だったのだとしたら、なぜだろう」

「私には見えているのに、この人には
 見えていないものがあるのだろうか」

こちらには、まだ何の結論もない。
仮説も散らばっている。
本当に分からないから、考える。

すると、その先で観察が始まる。

同じ「どうして?」なのに、
その先で起きることがまったく違う。

一つ目の「どうして?」は、
相手を自分の世界へ引っ張ってくる。

二つ目の「どうして?」は、
自分が相手の世界を見に行く。

私は「どうして?」という問いを
手放したのではなかった。

もしかすると、
「どうして?」を
選び直すようになったのかもしれない。

昔は、
「どうしてあなたは、
 私から見れば当然のことが分からないの?」
だったと思う。

今は、
「どうしてあなたには、
 世界がそう見えているんだろう?」になった。

同じ問いのようでいて、
この二つは随分違う。

そして最近、私はもう一つ気がついた。

この二つ目の「どうして?」を持てることには、
人を理解しやすくなること以外にも、
いくつもの利点がある。

とくに、それが顕著に現れるのが、
人を育てる場面だと思っている。


■|部下側から見ると、仕事はどう見えるのだろう

この違いは、
部下育成の場面でも
よく起きているように思う。

たとえば、何度も上司へ
確認を取りに来る部下がいたとする。

すると、上司はこう思う。
「もう少し自分で考えて判断してほしい」

一度説明した。
必要なことも伝えた。
以前も似たような仕事を任せた。

それなのに、
部下がまた確認に来る。

すると、
「なんで自分で考えないんだろう」
という「どうして?」が出てくる。

上司側から見れば、
確かにそう見える。

その見立て自体が、
間違っているとも限らない。

けれど、ここで一度席を立って、
「向こう側」へ行ってみる。

つまり、
部下側から同じ仕事を見てみる。

その部下から、
この仕事はどう見えているのだろう。

上司には見えている仕事の全体像が、
部下にも同じように見えているだろうか。

もし見えているとしても、
どこまで見えているのだろう。

判断するときの基準を、
同じように持っているだろうか。

何を優先すればいいのか。
どこまで自分で決めていいのか。

失敗した場合、
何が起こると思っているのか。

もしかしたら過去に、
「勝手に判断しないで」
と言われた経験があるのかもしれない。

そうやって向こう側から見てみると、
ついさっきまで
「自分で考えない部下」に見えていた人が、

「どこまで自分で決めていいのか分からない人」
に見えてくることもある。

あるいは、
「判断基準をまだ持っていない人」
という仮説かもしれない。

「間違えることへのリスクを、
 上司よりずっと大きく見積もっている人」
という仮説も置けるかもしれない。

もちろん、本当に考えることを
避けている可能性だってある。

ここで大切なのは、
相手に都合のいい理由を
つくることではない。

どの仮説が正しいのかを、
最初から決めることでもない。

一つしかなかった説明の隣に、
別の仮説が置かれること。

私はそこに意味があると思っている。

「この人は、自分で考えない人だ」
と一つの答えに決めてしまえば、
そこで部下への観察は終わってしまう。

けれど、
「判断基準が見えていないのかもしれない」

「失敗することを
 強く怖がっているのかもしれない」

「自分で決めていい範囲が
 分からないのかもしれない」

と、いくつかの仮説を置いておけば、

その後に見える相手の言葉や行動も、
また新しい情報として受け取ることができる。

そうやって観察するたびに、
自分の中に少しずつ
「仮説の棚」が増えていく。

そして、また何かが起きた時。

その棚から、
これまで見てきた相手の言葉や行動を
もう一度取り出して、

「今回は、どの仮説が近いのだろう」
と考えることができる。

もちろん、
新しい情報によって、

それまで置いていた仮説を
棚から下ろすことだってある。

また別の仮説を
新しく置くこともある。

一つの答えを持つためではなく、
考え続けるための仮説を持っておく。

そんな「仮説の本棚」を
自分の中につくっていけることも、

二つ目の「どうして?」が
持つ力なのだと思う。


■|「何が足りない?」の主語が変わる

部下育成をしていると、
「この人には何が足りないのだろう」
という問いを持つことがある。

経験が足りない。
知識が足りない。
主体性が足りない。
責任感が足りない。
考える力が足りない。

もちろん、実際に何かを
身につける必要があることもある。

けれど、「向こうから見る」ことで、
この問いの主語が少し変わる。

「この人に何が足りないのか」
だけではなく、

「この人が考えるために、
 いま何が足りていないのか」

と考えられるようになる。

必要な情報が渡っていないのかもしれない。
判断基準が共有されていないのかもしれない。
仕事の目的が曖昧なのかもしれない。

どこまで自分で決めてよいのかが
分からないのかもしれない。

あるいは、
「失敗してもここまでは任せる」
という範囲が示されていないのかもしれない。

上司側から見れば、
「自主性がない」という一言で
説明できた行動が、

部下側から見ると、
「何をもって自分で
 判断していいのか分からない」
という全く別の景色になる。

同じ行動を見ているのに、
立つ場所が変わるだけで、
見えてくる理由はこんなに変わる。

そう考えると、
「どうして、この人は自分で考えないのだろう」
という問いそのものも、
少し違って見えてくる。

部下に自主性を求めながら、
実際には上司の持っている正解を
当てさせようとしている。

そんなことも、組織の中では
起きていると私は思っている。


■|視点が移動すると、「評価」が「仮説」に変わる

私は、この「向こうから見る」
という考え方の一番大きな意味は、
相手に優しくなれることではないと思っている。

もちろん結果として、
言葉が柔らかくなることはあるだろう。

けれど、もっと大きいのは、
相手に対する評価が、仮説へ戻ること
なのではないかと思っている。

「受け身な人」
と思っていたものが、

「勝手に決めてはいけないと
 思っているのかもしれない」になる。

「何度言っても分からない人」が、

「私とこの人では、同じ言葉を違う意味で
 受け取っているのかもしれない」になる。

「失敗から学ばない人」が、

「そもそも本人は、
 何を失敗だと認識しているのだろう」になる。

それまで一つだった説明が、
いくつかの可能性へ開いていく過程でもある。

私は、人を一つの言葉で
説明すること自体が悪いとは思わない。

私たちは何かを理解するために、
物事をまとめ、名前をつける。
その方が管理しやすくて、共有しやすい。

けれど、
「この人はこういう人だ」と説明できた瞬間は、
同時に観察を止めやすい瞬間でもある。

だからこそ、ときどきもう一度、
「本当にそうなのだろうか」
と向こう側へ移動する。

すると、
決めつけていたはずのものが、
自分の中でもう一度、仮説に戻る。

以前の私は、人と接する中で、
「もう少し分かってほしい」
「もう少し考えてほしい」と、
相手に求めていた。

それが少しずつなくなってから、
人との関わりがずいぶん楽になった。

以前は、
「私にはこう見えているのに、
 どうしてあなたには分からないの?」
と考えていた。

でも今は、少し違う。

「私にはこう見えている。
 でも、この人からはどう見えているのだろう」
というところで、一度立ち止まれる自分がいる。

相手の考えを受け入れるわけでもない。
相手の行動を正しいことにするわけでもない。

ただ、
自分に見えている景色だけが、
その出来事のすべてではない。

その可能性を、いつもここに残しておく。

たぶん、
本当にそれだけなのだと思う。


■|「相手の立場に立つ」ということ

「もっと相手の立場に立って考えてほしい」

私は長い間、
人にそう思って生きてきた。

けれど今は、この言葉を
以前とは少し違って受け取っている。

相手の立場に立つというのは、
相手にこちらの気持ちを
分かってもらうことでも、

自分だったらどうするかを
想像することでもないのかもしれない。

一度、自分の立っている場所から
離れてみることなのだと思う。

私はこう見えている。
でも、この人からはどう見えているのだろう。

私はこの言葉をこう受け取った。
でも、この人はどんな意味で
その言葉を使ったのだろう。

私はこれが当然だと思っている。
でも、この人が持っている情報から考えれば、
本当に同じ結論になるだろうか。

ほんの少し視点を移動すると、
「どうして分からないの?」という問いが、

「どうして、この人には
 そう見えているんだろう?」に変わる。

どちらも同じ「どうして?」だ。

けれど、一つは
相手をこちら側へ連れてこようとする問いで、

もう一つは、
自分が向こう側へ見に行くための問いだ。

私はたぶん、
「どうして?」と考えなくなったわけではない。

今でも、人を見ながらよく考える。

どうしてなんだろう。
なぜなんだろう。

ただ、その問いの先に
置いているものが変わった。

答えを決めるためではなく、
まだ知らないものを見るために。

相手を変えるためではなく、
自分には見えていない景色を知るために。

「どうして?」は、
相手を責めるためにも使える。

そして、
相手を知るためにも使える。

どちらを選ぶのかで、
その先に見える景色は、きっと変わってくる。


■|読んでくれたあなたへ──小さな問いを、ひとつ。

あなたは今、誰かのことを、
どんな言葉で説明しているだろうか。

「自主性がない人」
「話を聞かない人」
「何度言っても変わらない人」

その言葉はきっと、
相手を見てきた中で生まれたものだと思う。

だから、この記事は
そのあなたの見立てについて
間違いだと言いたいわけではない。

ただ、あなたは今、
こちら側からその人に、
どんな「どうして?」を向けているだろう。

「どうしてこの人は分からないのだろう」
「どうして変わらないのだろう」

そんな問いが、
今あなたの中にあるのなら。

この記事をきっかけに、
その「どうして?」を
少しだけ選び直してみるのはどうだろう。

「どうして、
 この人にはそう見えているのだろう」と。

明日、いつもの相手を前にした時、
自分にそう問いかけてみる。

すると、何が見えてくるだろう。

同じ「どうして?」でも、
問いの向きが変われば、
あなたに見えてくるものも
きっと変わっていく。

こちら側から相手を決める前に、
ほんの少しだけ、
向こう側へ移動してみる。

そんなふうに、
あなたが一つの「どうして?」を選び直した時。

これまでとは少し違うその人の姿が、
そっと見えてくるのかもしれない。


■|参考文献
・細谷 功『考える練習帳――あなたの眠れる思考回路を起動させる45のレッスン』ダイヤモンド社(2025)

・細谷 功『思考力の地図――論理とひらめきを使いこなせる頭のつくり方』KADOKAWA(2025)

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集