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【読書感想文】高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』

わかり合えない「おいしい」と生きる

社会人になって、様々なごはんを食べる機会が増えた。社内の飲み会では年齢も出身地も違う人たちが参加する。ビールを飲み、餃子を頬張っては、「うまい、おいしい」と言い合う。同期と昼食をとる際も「おいしいね」と言われ、私は「うん。おいしい」と返す。みんな、同じような「おいしいごはん」を求め、人と共有したがっている。

この本を読むまでは、私も自らの違和感を押し付けてそう考えていた。ところがどうだろう。「おいしいごはん」とは、本当に人とわかり合えるものなのだろうか。

この本のタイトルは一見すると明るく感じられる。装丁もおいしそうな黄色をしており、甘い香りが漂ってきそうだ。しかし私は読み始めてすぐ「やられた」と思った。読み終えてまた、「やられた」と思った。口の中は甘ったるく、喉がパサパサに渇いていた。それでも、不思議と読んで良かったと思えた。なぜならここには、私がずっと抱いてきた違和感の正体が描かれていたからだ。

どこにでもある職場だ。上司に連れられて、ごはんに行く人たち。それを冷ややかに眺める人。この職場は、確かに不穏なのだろう。藤さんの行為はセクシャルハラスメントに当たるだろうし、押尾さんは二谷に「わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と言う。

では、彼らはなぜ不穏になるのだろう。この本はその根源を描き出す。
それは、「おいしいごはん」である。物語内で、芦川さん、押尾さん、二谷の「おいしいごはん」の解釈は見事に異なって描かれる。芦川さんにとっては「手間暇をかけた健康的なごはん」が「おいしいごはん」である一方、押尾さんは一人で食べるときのような、誰とも「おいしい」と言い合わない食事が「おいしい」と考える。では、二谷はどうだろう。彼は徹底して、「ちゃんとしたごはん」を憎んでいる。付き合っている彼女の作ったごはんを食べた後、彼は腹も減っていないのにカップ麺をすする。同じように彼女の作ったスイーツをぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨てる。「なるべくちゃんとしていない、体に悪いものだけが、おれを温められる」と彼は考える。それが二谷にとっての「おいしいごはん」なのである。
この解釈の違いに不穏さの原因があるように、私は彼らを見て思う。
私たちは「食」という、生きるために最も根本的な部分でさえ、こんなにもわかり合えずにいるからだ。他の部分でわかり合うなど、到底不可能であろう。

彼らを見ながら、私の中にもこの三人がいることに気付いた。芦川さんのように手間暇をかけてごはんを作る日もある。押尾さんのように、みんなと「おいしい」を共有することに嫌気がさす。そして二谷のことも、わかる。「ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう」と彼は考える。そういう気持ちになったことが全くないとは、私は言うことができない。

一方で、同じくらい、この三人の誰ともわかり合えないとも感じてしまう。芦川さんのように、早退した次の日に手作りスイーツを持ってくる気持ちも、押尾さんのように送別会前にはっきりと意見を述べて去ることも、わからない。二谷がこれほど、ちゃんとした食事を拒む理由も。
二谷は押尾さんに対して、こんなことを思っていた。
「この人とおれは根っこのところが似ているけど、根っこが似ていたって他のところを構成するものは全然違うから、全然違うところに進んでいくことになるんだろうな」
私は芦川さんや押尾さん、二谷に対して、同じことを感じた。そしてきっと私は、周りにいる人にもそのように思うだろう。私たちは、わかり合えない「おいしい」と、生きていくしかないからだ。それに絶望しながらも、少しだけ安心する。この本は、分かり合えないことを肯定してくれるように私は感じる。

小さな違和感を隠して、周りに合わせて振る舞う私たちに、この本は問いかける。あなたにとって「おいしいごはん」とはなんだろう、と。あなたは食べているものに、心から「おいしい」と感じているだろうか。

今日も私たちは生きるために食べる。そして生きるために願う。
「おいしいごはんが食べられますように」と。
ただ生きるためではなく、自分らしく生きるために願う。





引用や参考はすべて、高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』講談社2022年3月から行いました。
読んでいただき、ありがとうございます。
これは現時点での私なりの感想であり、解釈にすぎません。

【この本を読まれた方へ】
何を感じ、考えたのかコメント等で教えていただけると嬉しく思います。

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